ラ・コシーナ 厨房 : 映画評論・批評
2025年6月10日更新
2025年6月13日よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほかにてロードショー
さらなる映画の時空を耕してみせる俊英ルイスパラシオス監督の真の醍醐味
ああ、そうだったのか――と、間抜けな感慨が突き上げた。アルフォンソ・キュアロン、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ギレルモ・デル・トロと21世紀ハリウッドで無視し難いメキシコ出身監督たち、その最前列に加わった俊英アロンソ・ルイスパラシオス4本目の長編監督作「ラ・コシーナ 厨房」の見事な求心力に身も心も巻き込まれた。
ニューヨークはタイムズ・スクエアにほど近い観光客御用達のレストラン、質より量で勝負のそこで人としての誇りも尊厳も踏みにじられるままに労働に忙殺される料理スタッフ、彼らの卑猥なジョークと怒号が飛び交う厨房からひったくるように注文の品々を運ぶウエイトレスたち、なかでもルーニー・マーラ演じるジュリア(不法移民主体の職場ではむしろ少数派のアメリカ人)が身に着けた大きな襟とふくらんだスカートが印象的な横じまのワンピースは、モノクロ撮影のせいもあっていかにもレトロな感触のそのドレス姿にどこかで見たようなと覚えた既視感にああ、と冒頭の感慨をもたらしてくれたのが俊英の長編デビュー作「グエロス」(2014)、その懐かしさと清新さに満ちたモノクロの世界にふれた時だった。

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1999年メキシコ・シティ、大学ロックアウト紛争の現実を背景にした映画は、少年とその兄と悪友と横じまTシャツがクールなヒロインとの旅を描いてみごとに仏ヌーベルヴァーグを彷彿とさせる。とりわけジャン=リュック・ゴダールの「はなればなれに(1964)」。で、そうだ、そうだったと、ジュリア(マーラ)のワンピースをめぐる既視感もゴダールの「勝手にしやがれ」のジーン・セバーグ、彼女が空港で屋外インタビューする時のあのワンピースとそっくりなのだと思いあたった次第。
胸のつかえがとれたうれしさに任せて思わず長々しい前書きになってしまったが、要は、その確かな先達への目配せぶり、そこに見て取れる主題や筋だけでない映画そのものへの向き合い方。それが1957年に発表された英国“怒れる若者たち”のひとり、アーノルド・ウェスカーの戯曲をもとに、人を人でなくする労働の苛酷な現実をみすえる社会派リアリズムの噛み応えを芯にしながら、さらなる映画の時空を耕してみせる俊英監督の素敵の要といえそうなのだ。
とりわけモノクロの撮影を味方につけ、原作にもある幕間の夢の置き場を問う件りを屋外へと解き放ち(すべりだしの街頭撮影に息づく映画的瞬間も見逃せない)、ビルの谷間の細い空、舞う鳥たちを見上げ、風を取り込むやわらかな眼差し。それをこそ生き延びる意志を探りあてる術とするように現実と突き合わせてみせること。そこにルイスパラシオスの映画の真の醍醐味が見出せるだろう。
あるいは監督自ら送った手紙で出演を決めたマーラがその文面に感知したという“詩的”な質。対極にそれがあるからこそ不法移民の鬱屈を容赦なく掬う厨房で展開される閉所恐怖症的ドラマの厳しさもいっそう胸にこたえるものになる。柔と剛、そのバランス。ドナルド・トランプのアメリカの今に平手打ちを食らわせるメッセージを包む普遍の詩の心。冒頭に引かれるソローのエセーのタイトル「生き方の原則」を映画作法とも重ね、吟味したい気持にさせる快作だ。
(川口敦子)