ビヨンド・ユートピア 脱北 : 映画評論・批評
2024年1月9日更新
2024年1月12日よりTOHOシネマズシャンテ、シネ・リーブル池袋ほかにてロードショー
鉄板の「脱北案件」。北朝鮮からタイまで亡命する5人家族にカメラが密着する臨場感
ドキュメンタリーの中でも、抜群に面白いテーマはいくつかあって、そのうちのひとつが「亡命もの」です。ここ2~3年だと、タリバン政権のアフガニスタンから家族4人で逃亡する「ミッドナイト・トラベラー」や、同じくタリバン案件でオスカー候補にもなった「FLEE フリー」。また、ISの跋扈するシリアを舞台にし、やはりオスカー候補になった「娘は戦場で生まれた」もこのカテゴリーに入るでしょう。
もうひとつ、なかなかの傑作・怪作揃いなドキュメンタリーは「北朝鮮もの」です。かの国の武器密輸ビジネスに切り込んで行く「THE MOLE」は、にわかには信じがたいシークエンスの連続でしたし、「わたしは金正男を殺してない」もまた驚きに満ちた一本。今どきの暗殺ってこうやって実行するのか、という気味悪さが満載でした。また、5年ほど前の映画ですが、スロベニアのロックバンドが北朝鮮に招かれてライブを行う行程に密着した「北朝鮮をロックした日 ライバッハ・デイ」なんて笑える映画もありましたね。どれも、深く記憶に残るドキュメンタリーです。
そんな、「亡命もの」と「北朝鮮もの」が一体化すると「脱北もの」になります。もう鉄板ジャンルです。それがこの「ビヨンド・ユートピア 脱北」。ハードルを高く上げて鑑賞しましたが、まったく裏切られませんでした。ちなみに、2023年のサンダンス映画祭でUSドキュメンタリー部門の観客賞を取ってます。
登場人物はけっこう多めですが、もっとも観客の興味を引きつけるのは、北朝鮮から逃亡する5人家族でしょう。そして、彼らの亡命を手厚くサポートするのは韓国の聖職者、キム牧師。
キム牧師は、こんにちの脱北の実体について非常に分かりやすく説明してくれます。例えば、若い家族が脱北を試みたとしましょう。彼らはブローカーを頼って隣国へと侵入します。この後の展開についてキム牧師は「若い女性は中国でアダルトチャットや売春業者、農村地帯の独身者に売られます。他にもドラッグや人身売買、多くの困難が脱北者を待ち受けているのです」と解説。
つまり、ブローカーは脱北者を人として見ていない。金として見ているんだと。そして今回の5人家族は、お婆ちゃん、娘夫婦、孫2人という構成です。キム牧師は彼らについて「80歳の老婆は売春業者に売れません。それに娘夫婦も一緒だし、子どもたちもいる。正直なところ、この家族には売買する価値はないんです」と。
このような場合、ブローカーはキリスト教の団体に連絡して脱北者と引き替えに金銭を要求するのだそうです。要するにキム牧師は、市場価値のない脱北者たちの身元引受人なんですね。脱北にかかる費用も丸っと肩代わりしている模様です。まさに、聖職者の鑑とも言うべき素晴らしさ。
これまで知らなかった、脱北ビジネスの背景の一端が明らかになりました。是枝裕和監督の「ベイビー・ブローカー」をちょっと思い出します。
5人家族の逃避行は、北朝鮮→瀋陽→青島→ベトナム→ラオス→タイと途方もない距離を辿ってクライマックスを迎えます。何十人もの協力者と、何万ドルもの費用がかかっていることは容易に想像できます。
「このドキュメンタリー、誰がどうやって作ってんの?」というのは、私がドキュメンタリーを鑑賞するとき、頭の片隅にいつも持っている疑問です。本作の場合「この脱北者たちが逃げる費用、誰がどうやって払ってんの?」という疑問がそれと重なります。
本編を見ていると、夜の撮影には、暗視カメラや、照明器具なども用いているシークエンスもあり、撮影体制はかなり万全です。この映画そのものが、脱北家族の資金源になっていたことは間違いないでしょう。
この映画が完成して劇場公開されるいう事実が、それだけにとどまらない色んな成果を各者にもたらしているんだなという感情が、じわじわと込み上げてきます。一本の映画を見ただけで、こんな多彩な感慨を覚えることは滅多にありません。アカデミー賞にノミネートされる可能性も大ですね。注目しましょう。
(駒井尚文)