コラム:芝山幹郎 娯楽映画 ロスト&ファウンド - 第5回
2014年9月11日更新
第5回:「フランシス・ハ」とふらふら人生の幸福
最後に用意されるささやかだが意外なギフト
ここまでが序章だ。以後のフランシスは、しくじりと不運の乱れ撃ちを受ける。といっても、映画はバームバックとガーウィグの共作だ。辛辣だったり間抜けだったりすることはあっても、糞真面目に破滅を描こうとするような野暮には走らない。むしろ、この映画は弾力性が高い。弾んで転び、立ち上がってまた走り出し、つまずいたり倒れたりはしても、暗い顔をしてしゃがみ込むことはない。
顕著な例は、序盤で早くも示される。税金の還付を受けたフランシスが友だちのレブ(アダム・ドライバー)を呼び出し、メシをおごる場面だ。意気揚々と勘定を頼んだまではよいものの、フランシスのクレジットカードは使えない。デビットカードも駄目とあって、彼女はATMを探して夜の街を必死に走りまわる。あげくにすてんと転び、腕を怪我して、レブのアパートで手当てをしてもらう。といっても、そこでラブシーンがはじまるような馬鹿映画を期待してはいけない。
少しあとでも、フランシスは走っている。革ジャケットにバックパックを背負い、チャイナタウンの歩道をまっしぐらに駆けていく。胸の躍る移動撮影だ。俳優の肉体と街の風景が、きれいに溶け合っている。背後に流れるのは、デビッド・ボウイの「モダン・ラブ」。
お、「汚れた血」のドニ・ラバンか、と思った人はもちろん正しい。ただ、先ほども述べたとおり、この映画には借景が多い。「大人は判ってくれない」(59)、「はなればなれに」(64)、「緑の光線」(86))などを反射的に思い出させる描写や呼吸は、けっこう頻繁に出てくる。だが私は、作風やタッチの戸籍調べに血道を上げるよりは、フランシスのふわふわした変転や漂流に眼を凝らすほうが、楽しい鑑賞の仕方だと思う。
フランシスは、レブとベンジー(マイケル・ジーゲン)が暮らすチャイナタウンの部屋をシェアする。ダンスカンパニーの公演に出られず、家賃が払えなくなると、サクラメントの実家でクリスマスを過ごす。ニューヨークへ戻ったあとは、ブルックリンに住む知人のアパートに居候を決め込み、衝動的にパリへ2泊3日の旅行に出かける(このシークエンスで使われるのはフランスの映画音楽ではなく、ホット・チョコレートの『エブリ1・イズ・ア・ウィナー』)。ただし、パリ在住の友人とは会えない。むなしくニューヨークへ戻ってきて空港からタクシーに乗ると、測ったように留守番電話の返事が届く。
いやはや、だれしも覚えのあることだろうが、やることなすことすべてがちぐはぐで、なにひとつ実を結ばない。人生に遅刻し、世間に入り込めず、さりとて裏社会に足を踏み入れるほどの決心もつかない。その辺の男なら、大酒を食らい、頭から蒲団をかぶって不貞寝してしまうはずだ。
そんな状態のフランシスは、ふらふら、もたもた、よろよろといった形容動詞をそっくり体現している。それでも、彼女はめげない。暴れないし、絶望しないし、拗ねたりひがんだりもしない。いや、本当はかなり傷ついているし、性格もけっこう面倒くさくなっているのだが、世にありがちな自虐性や攻撃性は露わにしないし、ヒステリーを起こして感情を暴発させることもない。
大柄で老け顔というガーウィグの見た目は、このなりゆきで生きてくる。思えばこの女優も「29歳からの恋とセックス」(12)のころは、「まちがった相手とまちがったときにセックスをして」、「だれかのせいにしたいけど、わたしのせいね」とつぶやき、あげくは「わたし、ふしだらだけど悪人じゃないわ」と居直るような役柄のなかで泳いでいたものだ。まあ、それも悪くはないのだが、「フランシス・ハ」の彼女は明らかにもう一段上の、いわば、より難しい役に立ち向かっている。
ガーウィグは、観客に安っぽい共感を求めない。他の役者を押しのけて自分だけを注目させようともしない。むしろ彼女は、余計な感情表現や小手先の技を避け、ひたすらキャメラの前に「存在」しつづけようとする。すると、観客も彼女を忘れられなくなる。変な女、と思いつつ、その可愛らしさや明るさやたくましさに惹かれてしまう。
そう、「フランシス・ハ」は、「イタい」ヤングアダルトの映画にありがちな自業自得の結末が訪れないように心を砕いている。フランシスとベンジーのロマンスを期待する人は肩透かしを食らうだろうし、フランシスとソフィーの「女の友情」も最終的な到達点にはならない。むしろこの映画は、ささやかだが意外なギフトを最後に用意し、観客の眼とハートを和ませてくれる。
バームバックも変わったな、と私は思った。「イカとクジラ」(05)や「マーゴット・ウェディング」(07)のころの彼は、繊細で頭のよさこそ感じさせたものの、ひりひりした神経がもっと剥き出しになっていた。が、「フランシス・ハ」の彼はちがう。より成熟し、より寛容になり、よりリアルになって、自身の感情に振りまわされていない。パートナーが替わった(バームバックは、05年から13年までジェニファー・ジェイソン・リーと結婚していた)から、と理由づけをするほど私は単細胞ではないが、ガーウィグが備える「コメディエンヌ体質」は、キャサリン・ヘプバーンやキャロル・ロンバードの系譜を継ぐといってもよいのではないか。
この体質は、バームバックにとって欠かせない養分だった。萌芽は「ベン・スティラー 人生は最悪だ」(10。J・J・リーとガーウィグが共演している)に覗いているが、辛辣で繊細という養分だけではコメディは成立しない。ガーウィグは「フランシス・ハ」に、寛容と幸福という要素を運び込んだ。未完成で、冗談好きで、不幸にめげない女は、恋や結婚などに憧れる女よりもロマンティックになれる。この映画は、その事実をさらりと証明している。
【これも一緒に見よう】
■「イカとクジラ」
2005年/アメリカ映画
監督:ノア・バームバック
■「大人は判ってくれない」
1959年/フランス映画
監督:フランソワ・トリュフォー
■「マーゴット・ウェディング」
2007年/アメリカ映画・劇場未公開
監督:ノア・バームバック
■「29歳からの恋とセックス」
2012年/アメリカ映画
監督:ダリル・ウェイン
■「はなればなれに」
1964年/フランス映画
監督:ジャン=リュック・ゴダール
■「私のように美しい娘」
1971年/フランス映画
監督:フランソワ・トリュフォー