【「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」評論】「呪怨」が放った無秩序な恐怖を、令和に再生させるJホラーの進化形
2025年1月26日 10:30
「近年、ホラー映画は皮肉な調子になり、その機能を失っている。違うんだ、このジャンルは本来恐ろしいものなんだよ。恐怖は恐怖でしかなく、死は死でしかない」
これはスラッシャー殺人ホラー「ハイテンション」(2003)でのインタビューで、監督アレクサンドル・アジャが筆者に語った言葉だ。彼は「スクリーム」(1996)以降、ホラージャンルがその定型やメソッドを冷笑的に反復する、シニカルな傾向をたどったことに業を煮やし、この残酷きわまりない映画を手がけたという。
そんなアジャの発言を、この「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」は思い出させてくれる。Jホラーが弱体化したとは言わないまでも、事実「リング」シリーズの貞子や「呪怨」フランチャイズの伽椰子や俊雄といったホラーアイコンのバラエティ怨霊化は、恐怖映画の大衆エンタメ化に寄与したと許容しつつ、「いやそれは違うだろ」という印象は否めない。
そうした感情は、幸いにも本作の監督である近藤亮太も共有していたようだ。公開捜査番組が、超自然的なおぞましい事態を明らかにしていくフェイクドキュメンタリー「イシナガキクエを探しています」(2024)でテレビ視聴者をドン引きさせたこの才人は、「行方不明者」にまとわりつく不穏な空気や、残された者の焦燥感や諦観といった要素を逐一拾い上げ、加えてSD動画やアナログ写真、カセット音声といった媒体が醸す不気味な要素、ならびにJホラー文法をアレンジしつつ徹底的に活かすことで、ジャンルをリスペクトしつつ次のフェーズへと移行させ、初の単独劇場長編を価値あるものにしている。
なにより本作は「第2回日本ホラー映画大賞」で大賞に輝いた、近藤の同名ホラーを拡張し発展させたものだ。幼い弟が忽然と消えた、その一部始終を収めたビデオ映像と、撮影した兄の自責的行動をパラレルにとらえた25分の短編は、それ自体が完成したものとして長編化の是非を問う。しかし補完された箇所にも総毛立つ要素が宿っており、それは何気ない会話に挟まれた宿屋の祖母のエピソードや、スマホを通して介在する邪悪な声の主など、いずれも本作の持つ恐怖を倍加させる。
もとより何かを秩序生成させる長編化にあらず、釈然としない全体像に変わりはない。それは小林正樹の恐怖オムニバス「怪談(1964)」で最も気味悪いのが、オチの利いた「雪女」や「耳無芳一の話」ではなく、起こっている事象すべてに整合性のない「茶碗の中」であるのと同じだ。言うなればこの存在、かつて清水崇がオリジナルビデオ版「呪怨」(2000)でもたらした無秩序な恐怖を、令和に再生させるJホラーの進化形か。そういえば「ハイテンション」を楽しみにしているオーディエンスにメッセージをと求めたところ、アジャはこうも唱えた。いわく、
「恐怖に構えるな、あるものをそのままに受け容れろ。それが恐ろしさを享受することができる最上級のエッセンスだ」