【「TAR ター」評論】俳優が動くとカメラも動く、という法則で演出されている
2023年5月14日 17:00
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映画には、これまで幾多の俳優がミュージシャン役を演じ、時にその歌声は観客を魅了してきたという歴史がある。また、俳優が実際に楽器を演奏したという例も枚挙にいとまがない。「TAR ター」(2022)では、ベルリン・フィル初となる女性首席指揮者だという設定のリディア・ター役をケイト・ブランシェットが演じている。トップに立つ者であるがゆえの責任と重圧。やがて彼女の輝かしい人生は、慢心によって狂いはじめるのである。歌手を演じるためにボイストレーニングを実践、或いは、ピアニストを演じるための特訓と同じように、一流の指揮者のごとくコンダクトするという演技アプローチをケイトは試みている。そして、撮影現場で同時録音された音源が、そのまま劇中に使用されている点で特異なのだ。
サウンドトラックの冊子を確認すると、ケイトの名前が“指揮者”としてクレジットされていることが判る。しかも、世界で最も長い歴史を持つクラッシックの老舗、グラモフォン・レーベルからリリースされたサントラなのだ。ちなみに、リディアが新しいアルバムのジャケットとして模すのは、グラモフォンからリリースされたクラウディオ・アバド指揮「交響曲 第5番 變ハ短調」のLPアートワーク。アバドがベルリン・フィルで首席指揮者を務めた人物であることは、リディアの強い自己顕示欲の表れにもなっている。マエストロを演じた俳優は数あれども、コンダクトした音源がグラモフォンから発売された“女優”は、世界中を探してもケイト・ブランシェットしかいないのではないか。今作における彼女の演技が、圧倒的だとされる由縁のひとつである。
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監督のトッド・フィールドは俳優出身。映画前半で描かれる10分にもわたる講義場面の長回しは、撮影だけでなく演技の面でも圧巻だが、俳優出身者だからこそ為せる、俳優に対する演出が際立った場面だとも言える。ここでは、カメラがフィックス(固定)と移動を繰り返しているのだが、注視するとリディアの動きに対してカメラの動きを同期させていることも判る。リディアが動くとカメラも動く。つまり「俳優が動く時だけカメラが動く」という法則によって撮影されているのだ。それゆえ、観客はこの場面が長回しで撮影されていると、後になって気づくことになるのである。
<音>に対する演出も秀逸だ。例えば、冒頭の対談場面。会場は静まり返り、リディアとインタビュアーのやりとりしか聞こえない。声の反響によって、聴覚的にも会場の広さを感じられるような音響効果が施されていることも判る。そして、リディアがレナード・バーンスタインとの思い出を語った刹那、意図的に聴衆の小さな“咳”が対話の隙間から漏れ聞こえてくるような音響効果も施している。バーンスタインが1990年に亡くなっていることから算出すると、リディアの経歴に対して疑念を抱かせるのである。つまり、小さな咳という<音>へ、虚飾(嘘)を示唆させるスイッチのような役割をサブリミナル的に担わせている。これは、聴衆が静聴しているからこそ成せる技だ。
さらに、リディアが自身の人生をコントロールできなくなると、周囲の<音>もコントロールできなくなると描いている点も重要だ。ペンをカチカチさせるような音や冷蔵庫のモーター音。普段は聞こえないような繊細な<音>にはじまり、リディアの耳には心理的な不安が高まってゆくにつれて、奇妙な<音>が聴こえはじめる。音楽家にとって聴覚のバランスを欠くことは死活問題。不思議なことに、筆者はリディアがランニング中の公園で耳にする“悲鳴”に聴き覚えがあった。気になって検索してみると、世界には同じ感覚に陥った人たちがいることを知る。この悲鳴は、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999)ラストシーンからの引用だというのだ。空耳の悲鳴は心理的不安の表れであり、いつかどこかで観たであろう、リディアの無意識な<音>の記憶というわけなのである。(松崎健夫)
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