ふたりのマエストロ

劇場公開日:

ふたりのマエストロ

解説

指揮者の父子が最悪の依頼間違いをきっかけに互いの心と向きあう姿をつづったフランス製ヒューマンドラマ。

パリの華やかなクラシック界でそれぞれ指揮者として活躍する父フランソワと息子ドニ。ある日フランソワのもとに、世界最高峰のミラノ・スカラ座の音楽監督への就任を依頼する電話が掛かってくる。ドニはライバルでもある父の成功を素直に喜べずにいたが、翌日、今度はドニがスカラ座総裁から呼び出しを受ける。実は就任を依頼されたのはドニで、父フランソワへの連絡は誤りだったのだ。父に真実を伝えなければならず葛藤するドニだったが……。

カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞し、アカデミー外国語映画賞にもノミネートされたイスラエル映画「フットノート」の設定を変えてリメイク。「ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール」のイバン・アタルが息子ドニ、「巴里の恋愛協奏曲」のピエール・アルディティが父フランソワを演じ、「読書する女」のミュウ=ミュウが共演。俳優としても活動するブリュノ・シッシュが監督を務めた。

2022年製作/88分/PG12/フランス
原題または英題:La Scala
配給:ギャガ
劇場公開日:2023年8月18日

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(C)2022 VENDOME FILMS - ORANGE STUDIO - APOLLO FILMS

映画レビュー

3.0父子という最も身近な理解者であり、ライバルでもあるふたり

2023年8月27日
PCから投稿

父子そろって人気と実力を兼ね備えたオーケストラ指揮者という特殊な立場のふたりを描きつつ、そのストーリーの基本軸は父子モノならではのシンプルな流れによって貫かれている。クラシック音楽好きにはこの設定、キャラクター造形、それに観客によって埋め尽くされた劇場の臨場感など、たまらないものが多いのではないだろうか。本作はイスラエル映画『フットノート』のリメイクにあたるが、実のところ設定は全く違っていて、よくもまあ、こうしてクラシック音楽の世界に応用したものだと、その脚色力には感心させられる。一方、物語の要である”人違い”は、コメディの典型として本来ならクスクス笑いすらこみ上げる部分だろうが、父役のアルディティのうまさゆえか、ちょっと気の毒になってしまうほど人間味と哀愁が浸み出している。結局のところ、二人は親子として、音楽家として分かり合えたのかどうか。落とし所に納得できるかどうかも評価が分かれそう。

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牛津厚信

3.5宗教学者親子のドラマを大胆にリメイク。クラシック入門的な楽しさは〇

2023年8月12日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:試写会

楽しい

幸せ

2011年のイスラエル映画「フットノート」は、ユダヤ教の聖典タルムードを専門とするライバル研究者の父と息子(共に大学教授でもある)が、名誉ある賞の受賞の通知ミスを巡り、もともと不仲だった関係がさらに面倒なことになって……というあらすじ。題名は論文や研究書の“脚注”を意味し、宗教学研究の文章表現が物語の鍵になるなど、かなりアカデミックな要素を含む原作だ。これをフランスでリメイクするにあたり、父子の職業をクラシックの指揮者に置き換え、ミラノ・スカラ座音楽監督就任の依頼電話が間違って父にかかったことから巻き起こる騒動に変えることで、名曲の数々とともに気軽に楽しめるエンタメ映画に仕上がった。

原作映画の方はカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞するなど、親子の確執や心の機微を伝える台詞のやり取りや賞選考と発表をめぐる物語構成が高評価されたが、フランス版リメイクは娯楽要素を重視するあまり、オリジナルにあった細やかな配慮がかなり損なわれた印象だ。一例を挙げると、イスラエル版では本来受賞するはずの息子がなんとか父に賞を獲ってもらおうと裏で尽力するのだが、本作では息子ドニがスカラ座の音楽監督の依頼が本当は自分に来たという真相を父フランソワになかなか打ち明けられないくらいで、どちらかと言えば恋人のバイオリニストをミラノに連れていくかどうかの悩みの方が深刻そうに映る。宗教学より音楽、学問研究より恋愛という具合に、大衆が好むわかりやすい要素に改変したのもフランスのお国柄か。

相対的に深みの足りない脚本にはなったものの、劇中で演奏される音楽は、ベートーヴェンの「交響曲第9番」やモーツァルトの「フィガロの結婚 序曲」をはじめ、耳馴染みのあるポピュラーな曲をかなり長めの尺でしっかり聴かせてくれるので、クラシック好きなら演奏場面だけでも相当楽しめそう。個人的には、女性歌手(フランス人メゾソプラノ歌手のJulie-Anne Moutongo-Black)の独唱つきで演奏されるモーツァルトの「ラウダーテ・ドミヌム」が美しくて聴き惚れた。ネットで歌詞を調べたら「父と子と聖霊に栄光あれ」という一節を含むようで、父と息子の物語にかけた選曲なのかもしれない。

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高森 郁哉

2.5音楽に救われた父と子の再生物語

2024年10月15日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

楽しい

単純

指揮者として互いに成功を収めた父と子の芸術家として譲れない対立と、それによる葛藤をシンプルに描いた音楽映画。父親フランソワは40年のキャリアを積んだベテラン指揮者で、息子のドニはフランスのグラミー賞にあたるヴィクトワール賞を受賞して将来を嘱望されるマエストロ。小さい時から意思疎通がうまく出来ず、父親は息子の栄誉に嫉妬し、息子は父親に認めてもらえず疎ましく思っている。この歪んだ関係を修復できず長く引き摺っていたのを一気に浮き彫りにするのが、ミラノ・スカラ座の音楽監督就任の依頼の人違い。世界三大歌劇場のひとつのスカラ座が、デュマールの姓だけで秘書が勘違いするというとんでもないミスをしてしまう。しかし依頼を受けたフランソワが疑問に思わないのがリアリティに欠けるためストーリーとして軽く、またスカラ座側も訂正と謝罪をしないのも無責任極まりない。40年第一線で活躍する指揮者なら、自分の実力も扱われ方も心得ているはずだし、息子に限らずどんな指揮者の才能というものにも敏感であるのが当然だ。これではフランソワのベテラン芸術家らしからぬ、ぬか喜びの一人芝居に終わってしまう。この時点で、この作品の脚本は評価出来ないと思った。

救いは役者の演技が良かったことと、美しいクラシック音楽を全編に効果的に配置した構成の丁寧さ。息子ドニを演じたイヴァン・アタルの知性的な佇まいが指揮者役に嵌り、父フランソワに直接真実を告げられないもどかしさにドンの人間味も感じられる。しかし恋人ヴィルジニの機嫌を取ろうと大太鼓を抱えて彼女のアパートを訪ねるエピソードの何たる陳腐さ。これでは役者が可哀想。父フランソワのピエール・アルディティは頑固で強権的な巨匠指揮者の貫禄は無いものの、何処か憎めない愛嬌があるフランソワの人間性を醸し出していて深みのある演技。でもこの作品で地味ながら最も良い演技を見せているのが、母親エレーヌのミュウ=ミュウだった。個人的には「夜よ、さようなら」(1979)の演技が忘れられない。片意地を張る夫と自立した息子の間に挟まりながら、問題が大きくならないように気遣うエレーヌの心の豊かさを的確に表現していた。キャロリーヌ・アングラーデが演じる恋人ヴィルジ二は、難聴を抱えたヴァイオリニストの設定の意図が意味不明。努力と才能の狭間で苦悩する音楽家で権限を持つ男性に媚びない生き方は、如何にもフランス女性を思わせるが一寸独りよがりにも見える。それに対してパスカル・アルビロが演じた元妻でエージェントのジャンヌが、一番生き生きしていた。仕事と私生活のバランスが取れた生き方は、女性に限らず誰もが望むもの。祖父と父が指揮者として対立するのを観てきた孫のマチュウは、家柄に拘らず料理人を目指すという。またルス・オトナン=ジラールの作為のない演技が自然で今風な趣もある。脚本上、祖父フランソワに宛てた父ドニの手紙を読む役割の人物設定でキャスティングされたものだろう。

ドボルザークの「母が教えてくれた歌」、ベートーヴェンの交響曲第九番第二楽章、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、“カッチーニ”の「アヴェ・マリア」、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第五番と「ラウダーテ・ドミヌム」そしてクライマックスは「フィガロの結婚」序曲で、エンドロールにシューベルトの「セレナーデ」。美しいメロディの音楽の饗宴でした。
驚きは約5分の「フィガロの結婚」序曲をカットせず父子鷹の指揮で通し切ったことです。正式のコンサートで2人の指揮者が同時にタクトを振るのは有り得ないし、オーケストラ奏者も戸惑う事でしょう。これはあくまで映画の大団円としてのサプライズの演出でした。望むなら息の合った指揮のやり取りの演出が欲しかったと思います。

(クラシック音楽について)
今年亡くなられた小澤征爾さんがミラノ・スカラ座で指揮した映像が使われています。日本の指揮者がクラシック音楽の本場の欧米で活躍することが如何に難しく、大変な事であるかをこの作品で再認識しました。パリ音楽界のそのハイソサエティーな豪華で贅沢な生活様式を見ても、音楽の溢れる才能だけでは通用しないことが解ります。小澤さんは、若くしてフランスで認められたご縁もあってか、フランス音楽を得意にしていたように見受けられました。ドイツ音楽が好きな小生は、一度だけ小澤さんのコンサートでベートーヴェンの「田園」と「運命」の美しくバランスの整った演奏を聴くことが出来ました。その「田園」では余りに美しい音色に睡魔に襲われて、珍しく寝てしまいました。その代わり「運命」では感動的な名演を堪能したのはいい思い出です。
指揮者は巨匠の時代が終わったとも言われます。ベーム、カラヤン、バーンスタインの時代を少しでも共有出来たのは幸せでした。本当は、その前のトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーの時代に生きて生の演奏に触れたかったと思ったこともあります。現代では独裁的で強権な指揮者は社会が許さなくなり、よく言えば演奏レベルの高い奇麗な音楽に溢れて、悪くいえば個性のない均一的な音楽が増えてしまった。これはクラシック音楽だけではないかも知れません。
フランソワが憧れるミラノ・スカラ座は、小生が敬愛するカルロス・クライバーの来日公演で2度ほど経験しました。今思うととても贅沢な事でした。幕間にステージの前のオーケストラピットを覗きに行くと、緞帳の裏で大道具のイタリア人スタッフが大きな声で作業指示するのが聴こえてきました。その雰囲気にも酔えたことが今でも深く印象に残っています。

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Gustav

4.0二人の確執の本当の意味

2024年3月25日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

<映画のことば>
話すのは、いいものだ。
洗いざらい話すのは。
すっきりする。

父子の確執は、お互いがお互いを認め合っていることの反面だったように、思えてなりません。評論子には。
お互い、お互いに認め合っているが故に、お互いに「素直になれない」ということは、あり得るのではないでしょうか。
これも、ハリネズミのジレンマ」の一種なのかも知れませんけれども。
(ハリネズミは、離れているとお互いに寒いのだけれども、さりとて身を寄せ過ぎると、針のように鋭い体毛で、今度はお互いに痛いーというジレンマ)

そして、父親は子(息子、娘)に対しては、いつまでも子供を導く「親」でありたいと願う反面、いつかは自分を乗り越えて欲しいとも思っています。
(子の男親でしかない評論子には、母子関係にも同じような気持ちがあるのかどうかは、分かりませんけれども。)
本作でも、自分に音楽監督の話が来た(と思い込んだ)フランソワは、息子ドニに対して、自分がまだまだ「親」であることに安堵したでしょうけれども、反面、その話がドニに来たものでなかった(と誤解したこと)には、一抹の寂しさも覚えたはずです。
しかし、結果が分かって落胆した部分よりも、ドニが自分を乗り越えてくれたことに、むしろ大きな喜び・満足を感じていたはずです。フランソワは。

ラストシーンで、ドニの指揮に、わざわざフランソワが割り込んだのも、親子の「引き継ぎ」という心情があってのことでしょうし、その時のフランソワの満足そうな表情も、上記の意味で、評論子には、理解・納得ができました。

そういう点も含めると、秀作といえる一本だったと思います。
評論子は。

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talkie