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ホアキン・フェニックス/アーサーの肩甲骨がみたかった?
ファーストシーンはアニメーションで、本作の概略と共にジョーカーが戯画として描かれていた。だから、実写になってホアキン・フェニックス-アーサー-ジョーカーの痩せ細り浮き出た肩甲骨と肩の不均衡さがまざまざと映し出されたのは衝撃だった。
ただ本作をみた10人中の8人、いや9人がきっとこう思っただろう。
「そんなのみたくない…」
マジで誰も期待していないし、望んでもいない彼の肩甲骨。凄いのは分かるけれど、そんなのがみたいわけじゃない。あのジョーカーが、今回はどんな狂人ぶりで死体の山/丘を築くのかそれがみたいのだ。なのにアーサーはいっこうに監獄のままだし、故に裁判劇だし、妄想以外では全く加害行為に及ばない。本作の彼はいつまでも暴力に受け身で何もできない無力の存在だ。さらにミュージカル調でもある。頭を抱えざるを得ない。
観客の期待外れは興行収入や、いまいち盛り上がっていない様からも明らかだろう。
なんでこんな物語にしたんだ???
気になって監督をしたトッド・フィリップスを調べた。すると彼が1970年生まれであることが分かった。では他に1970年生まれの映画監督が誰か調べると、一人の監督が現れる。そうクリストファー・ノーランである。
その時、私は納得した。トッド・フィリップスは本気でアカデミー賞作品賞を獲りにいったのだと。単なるDCコミックスシリーズの一作ではなく、現代の批評性を備えつつ娯楽性にも富んだ作品にしようとしたのだと。そのことはジョーカーのファンの期待に背くことになる。けれど期待通りであれば、ジョーカーという「影」を追従するだけに留まるし、それではいけないと困難な道を選択したのだろう。
さらに私がしているようにトッド・フィリップスはクリストファー・ノーランと比較をされ続けたに違いない。ノーランは『ダークナイト』でジョーカーを描いているし、『オッペンハイマー』でアカデミー賞作品賞を受賞した。ではトッド・フィリップスは?『ジョーカー』で第76回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞しているけれど、作品賞は獲れてはいない。
なんだかトッド・フィリップスはアーサーその者に思えてきた。では彼がノーランと同格となるにはどうするか。
ノーランができない心理描写を『ジョーカー』以上に深化させる。そのことは悪のカリスマであるジョーカーをアーサーという一人の人間に近づけることを意味する。ノーランができないミュージカル演出を『ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』で第67回ゴールデングローブ賞作品賞(ミュージカル・コメディ部門)で受賞した彼は採用する。『雨に唄えば』や『ウエスト・サイド・ストーリー』、『ラ・ラ・ランド』、『ショーシャンクの空に』へのオマージュ/目配せもする。その選択の結果が本作の物語化に違いない。続編でアカデミー賞作品賞を獲ろうとするならば『ゴッド・ファーザーPARTⅡ』以来の快挙ではないだろうか。それほど困難な道をトッド・フィリップスはノーランと同等と認められるために、選択したのだ。そう考えると本作の物語化にも納得がいく。
ではその選択が功を奏したか。残念ながら私は全面的に肯定はできない。
ミュージカル演出においても、監獄や法廷を舞台化できたとは言える。けれど、レオス・カラックスの『アネット』をもう観てしまったからね…トイレ/排泄を舞台化したり、ミュージカルの本質を抽出してしまった『アネット』と比べたら見劣りしてしまうし、裁判劇で画変わりしないことをミュージカル調で補っているようにしか思えない。しかもミュージカルシーンは説明描写に留まるしーあえてそうしているのか?ー、典型的な感情の吐露や心理描写になってもいないのはどうかと思うーアーサーが弁護士を解雇するミュージカルシーンは見応えがあったー。
確かにジョーカーを人間に近づける描写はよかった。裁判に当たって、アーサーの担当医を登場させ、彼の殺意が精神疾患由来であることを導出しようとしている。それはジョーカーのパフォーマンスを狂人のカリスマ性から普通の人の精神疾患へと横滑りさせる描写だろう。けれどアーサーが本当に求めていることは精神疾患だと診断されることではなく、むしろジョーカーという影を纏い、その影に魅了されるリーと性愛的に結ばれることに見出すシニカルさは最高だと思う。
ただアーサーの責任能力についての描写はどうかと思う。彼の裁判劇は殺人の事実の有無ではなく、責任能力の有無が焦点ではある。そして彼の自己弁護も虚しく、有罪になってしまう。けれどその責任能力について彼のバックグラウンドや精神疾患の判定を考慮に入れた主文が述べられることもなく、法廷が爆破されて省略される。それを映画だからと、省略するのは構わないが、ヒューマンドラマに仕立てリアリティラインを上げたのならちゃんとみせてほしいと思ってしまう。むしろこの爆破はリーと再会するために準備されたもののように思えるし、精神疾患だと診断する以上の答えを映画≒フィクションが持ち合わせていないようにも感じさせる。この物足りなさが、現実やモッブのドキュメントとしては適当ではあるが、その乗り越えとしては不十分という印象をもたらしてしまっている。
さあ、本作の描写する現実はかなり厳しい。ジョーカーの存在は否定される。存在するのは、監獄に収監され、看守に虐められ、肩甲骨を浮かび上がらせるひ弱な白人中年男性・アーサーのみ。彼に惹かれるリーも、セックスのときはアーサーにジョーカーのメイクをさせるようにアーサーその人を決してみていない。ヒロインのリーもまたカリスマ的なジョーカーの「影」を追う一人でしかない。アーサーが自由になる爆破もリーが引き起こしたわけではない。しかも彼が外の世界で彼女に会っても、見放され、再び監獄に戻ってしまう。あげくには彼は監獄の中で物語で全く焦点が当てられないモッブの男に刺し殺されて死んでしまう。華麗な脱獄劇もヒロインの駆け落ちもない。ヒロインに殺されることも許されない。ひ弱な男はダークヒーローにもなれず、誰にも救済されず死ぬしかない。この残酷な事実を誰がみたいというのだろうか。
ノーラン作品にも裁判のシーンは多いから、きっと現代のアメリカは映画≒フィクションで真面目に残酷な現実を提示しないとどうしようもない世界なのだと思う。アリ・アスターの世界線を突っ走ったら崩壊するんだ。
本作は前述のようにジョーカーファン以外にも届くようにウェルメイドなつくりになっている。ただ良くも悪くも秀作の域に留まっている。それをアカデミー賞はどのように評価するのか。少しは楽しみになってきた。