怪物のレビュー・感想・評価
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韓国で公開されたので
いや、是枝監督、いったいどうやってあんなすごい子役二人を見つけてきたのか。あの二人で最終的に決定した是枝監督は良い意味で本当に狂ってる。子供を撮る上で彼の右に出る人はいないとおもう。なんかもうすごすぎて、変態的だよ、本当にうまく撮った。
担任の先生が受難過ぎw
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主人公の小学生がある日、怪我をして帰って来た。
他にも靴が片方ない、夜に近所の洞窟で一人で歌う、
走行中の車から突然飛び降りるなど奇行三昧。
母が問い詰めると、担任に侮辱され殴られたと言う。
学校に怒鳴り込むと、穏便期待満載の機械的な謝罪のみ。
担任本人も反省してる様子などまるで無かった。
そして主人公が星川くんをいじめてるとも言った。
やがてこの一件はマスコミに取り上げられる。
こうして担任は大勢の前で謝罪会見し、クビ。
これが原因で女にも振られた担任は主人公と話しに来る。
でも逃げられた末、担任に突き落とされたとか言われる。
担任は絶望し、自殺しようと屋上へ。
そこへトロンボーンだかの音が聞こえて来る・・・・。
で後から、カメ止め的な種明かしが始まる。
まず担任はいい先生だった。怪我も偶然で、殴る気も無し。
でも責任を認めないと保護者を怒らせるということで、
認めて謝罪するよう校長らから指示されただけだった。
星川君は主人公以外の生徒達からいじめられてて、
いじめっ子のいない所では2人は仲良しだった。
というか互いに恋愛感情を持ってた。
奇行と思われたことは、全てこの関係が故に起こってた。
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「怪物」なる黒幕がいて裏で糸を引いてるのかと思いきや、
決してそういう訳ではなかった。
「怪物」は単に、2人がやってた遊びに出て来る歌。
裏事情も、それによる主人公の奇行も大体分かったが、
全く分からんかったことがある。
それは何故、主人公や星川が担任を陥れたのか?
彼らのことを思ってくれる、いい先生なのに・・・。
同性愛を隠すためだけに、そんな嘘までつくかなあ?
主人公は賢く分別のある子供として描かれてたけど、
そこだけ異常に幼児性が高くない?って思った。
あと高畑充希が担任の彼女役で中盤に出て来て、
疑惑を晴らす重要な存在なのかと思いきや・・・
出番も少ないしストーリーにもほぼ関係がない。
しかも薄情。こんなの駆け出し女優がよくやる役やん。
出演者に名を連ねさせて集客狙い?と思ってもたってのw
ホラーかと思ってた🙂↔️
こんなに神作品なのに周り全然見てる人いないの🥲前情報ほぼ無しで予告だけ観てたんだけど、めちゃくちゃ良い意味で裏切られた〜。3人の視点から、っていうのも面白いし、だんだん真実がわかってくる感じ❕最高❕❕
怪物は誰なのか?そしてラストの解釈は観た人に委ねられている
是枝監督の最新作、楽しみにして観に行きました。 ネタバレを目にしないように気をつけながら観に行ったので、こういうテーマだったのかという驚きと、この映画を自分の中でどう咀嚼するかの答えがすぐに出ず、数日余韻の中にいた気がする。 怪物は誰なのか、すでに議論し尽くされていますが、その答えは観た人に委ねられており、ラストの解釈も同じく委ねられているのだなと思う。 私は希望を感じました。 是枝監督の起用する少年たちは、いつも目が印象的ですが、今回の二人もその期待を裏切らず、難しいテーマをよく演じていて、将来が楽しみ。 大人の俳優たちは、やや過剰な演技というか、ある種の型にはまっているような印象もありましたが、その描き方もあえてなのかもしれません。 「怪物」というのもまた、型のひとつであるから。
「怪物、誰?」のナゾときではなく…
「怪物は誰か…」解き明かしたくなる作りになっている。でも…う〜ん。誰とかではないのかな… 誰もが自分の目線でしか真実を見ることができなくて。そこからは見えていない死角がある。自分とは違う、欠けたモノをさして「アイツは怪物だ!」と言っている。みんなが真実のホントの部分を話しているけど、それは真実全体ではない。全体ではないから、ある意味ウソでもあるのだ。 子どもたち二人もBLという声もあるが、そこを強調したかったのではなく、同じ気持ちで遊んでいると思ったけど、まったく同じではないんだということをちらっと感じてしまった瞬間だったという表現かなと。
だから何?
これまで脚本も全て書いてきた(確か)是枝監督だけど、こちらは違う。 だからなのか、撮り方というか、編集というか、ちょっとチグハグな感じがする。 シーン展開のテンポが早いと言われているけど、言い得て妙。 役者さん達の演技、監督の演出ともども良いのだけれども、スゴく良いかと言われれば、そうでもない。 最近新文芸坐で万引き家族とか是枝作品をいくつかスクリーンで観たからか、比較してしまい、過去作と比べるとちょっと落ちるかな、という印象。 と、色々考えてみると、テーマというか、だから何? というオチがイマイチなことに、尽きるかな。 20231125 TAMA映画祭
白石監督の「ひとよ」の田中裕子をいじりまわす脚本にはニヤリ
上諏訪温泉のホテルを燃やした??? 上諏訪温泉のホテルに泊まって 諏訪湖でワカサギ釣りをしました。全然、釣れなかったです。ヘドロで臭いし。 「君の名は。」の聖地、立石公園もすぐ近く。 モモセクリーニング店で働くシングマザーの安藤さくら。長野には百瀬姓が多い。 公開当時は予告編で子役が主役のいぢめ映画だなと思って、観たいと思わなかったのですが、友達に是枝裕和監督の怪物観た?って聞かれ、観てないと言ったら、感想や内容には全く触れないままスルーされたのが気にかかっていて、新文芸坐の是枝裕和監督の作品特集で観てみました。 校長先生をはじめ、集まった教師たちの態度には口あんぐりでした。田中裕子の映画出演作品は昔よりもよく観ています。まるでゾンビ集団。教育委員会に早く行け行け。 永山瑛太のヘラヘラ教師の演技が上手すぎ。 ガールズバー行ってたんか。アウトやろと思ったら、本や雑誌の誤字、誤植をあら探しするのが趣味の変なオタク。でも、恋人役が高畑充希。なによ、 充実してるじゃん。 男の「大丈夫、大丈夫」と女の「じゃ、また連絡するからね」はアウトだそうです。ちょっと、こころが痛みました。大丈夫、大丈夫は若い頃口癖でした。マスコミの女性レポーター役で片山萌美。 偶然と先入観による悲劇の連鎖の種明かしが繰り返される脚本。 しかし、ねぇ。 なんで、息子は走ってる車から飛び出る? 親に心配かけたくなくて、嘘ついていたんじゃないの? 担任は飛び降り自殺したの? 九州の台風で諏訪で大雨? 最後の子役ふたりが若葉の中を走るシーンはすでに黄泉の国? 最後、柵がなかったよね。 事故があったから、後で柵ができた? 生まれ変わったらカメムシは絶対嫌。 でもさ、これ、意味ある? 一秒先の彼でも出ていたかわいい男の子は家でも学校でもいじめられて、抵抗することもせずヘラヘラ状態。人格崩壊、過剰適応の悲しさよ。 でも、ミナトのほうが壊れてた。 カタルシスはゼロでした。 お金を払って胸糞な気持ちに浸るなんて、ドMじゃん。 君の名は。の聖地も汚れてしまった感じ。 悲しい。楽しくない。知的なのかどうかもわからない。 いじめ肯定してるの? この世に正義はないのは世界を見ればわかるけど、せめて長野の諏訪湖にはあって欲しいじゃないですか。 予告編の怪物だーれだ。 映画館に足を運ぶ人間を馬鹿にしてないか? と、思いました。 映画に対する印象や意見は人それぞれですが、こういう気持ちになった人もいることを言いたいと思いました。 ちなみに、ベィビー·ブローカーには☆5ですが、なにか? できる子役が可哀想と思った映画はダメなんじゃないの。 ヨーロッパから日本も中国もおんなじと思われたくないよなぁ。 不気味なホルンの音はサスペンス的には良かったけど、あの校長が子供のミナトに優しくしながら一緒に吹くのも作為的に感じてしまった。
内なる光
何の情報も用意せず観ると、理解するのが難しい映画。 題目と内容、内容そのものは単純なのだが、理解するのが難しい。題目はなぜ怪物? ただ感想を一言で言うとするならば、現代日本の縮図を観た気がした。 誰が怪物=モンスターなのではなく、誰もがモンスターの要素を持っている、それを表に出すトリガーが、あるかないか。
真実とは事実の一側面であり、全てではない
人間は複合的な情報分析によって事象を認知する生き物だ。五感をフル稼働させ知覚を得て、神経を通して情報が脳に届き、分析・精査され認識する。 そしてその感覚は「見えないもの・聞こえないもの」「ある筈のないもの」にも適応される。ある事象Aとある事象Bが連続して認知されたとき、AとBの間に連続性や共通性を見出そうとし、Bの原因をAに求めたり、未来に起こる事象Cを予測したりする。 「怪物」の特報は印象的な声から始まる。「怪物だ〜れだ?」と問いかける声。歌うような調子、走る少年の映像に子どもの遊びなのかなと思う。そして映し出されるキャストのアップ、「だ〜れだ?」という言から、この中に怪物がいるのかな?と思う。 両足の間に落ちる赤い液体に血を連想し、白地に赤く浮かび上がる「怪物」の二文字。 特報一つとっても、与えられた知覚と与えられなかったはずの情報と、それらを吟味して導き出される映画への期待という、人間らしい認知の仕組みが発揮されているではないか。 映画「怪物」は、3部構成のストーリー全てでこの「人間の認知」が引き起こす軋みを見せてくれる。 もっと正しく言うなら、「実際に起こった出来事」と誰の視点ではどう見えて、どう感じて、どう考えたのか、を見せてくれるのだ。 例えば安藤サクラ演じる麦田早織は、当初「豚の脳を移植した人間」の話にフラットに対応している。そこには嫌悪も敵意もなく、「最近の学校は妙なことを教えるね」と、至って落ち着いた様子だ。 それが「息子の涙」や「担任の先生から言われた」という息子の言葉によってその話は一気に当事者性を帯び、攻撃的な言葉に変化する。 早織の中で担任の保利先生は「普通の先生」から「危険な先生」に変化し、クリーニングの受付で聞いた噂話も保利先生の教師としての資質を疑問視する行為に変化していく。 当然だが、永山瑛太演じる担任の保利先生自身が変化したわけでは無いし、噂話が事実であるかどうかを早織に確かめる時間はない。 この場合、息子が泣いているという事象の原因を別の事象である保利先生の行動と結びつけ、それを排除することで「息子の幸せ」という結果が期待できる、と判断しているのだ。 映画の中で早織はごくごく普通の母親であるし、色々口やかましいタイプでもなく、何なら物事の決めつけには注意を払っている方だと思う。それでも日常に潜む「認知の仕組み」の中で、無意識のうちに考えや感じ方が変化させられていくのだ。 こう書いていくとまるで人間の認知の仕組みが「悪」であるように感じられるかもしれないが、膨大な情報を処理し、最善手を決断するためには不可欠な機能である。この仕組みがなければ科学の発展は無いし、犯罪の捜査は無理だし、短歌も俳句も成立しない。 アニメーションは誕生せず、広告は直接的な言葉の羅列で、生活のために記憶しておかなければいけないことは膨大な量になる。 この便利な認知機能なしでは人間は生きていけないし、無意識に行われるからこの事を忘れがちなだけだ。ただ、忘れてはいけないのは、私には私の認知があるように、他人には他人の認知があるということだけなのである。 何か一つの事実が、たった一つの認知による真実であるとは限らない。例えば、スーパーで走り回る子どもに、足を引っ掛けて転ばせる行為は普通に考えれば悪意だ。だが、子ども自身が転ぶことで少なくとも巻き込まれて転倒する人はいないし、陳列が崩れたり倒れたりして事故になる可能性はなくなり、親にも「だから走るなって言ったでしょう!」と大義名分が与えられる。 足を引っ掛ける行為は、褒められたものじゃないが論理的に最小限の労力で今起こっている事象を止める効果がある「必要悪」で、それを行う人間の考えがどんな根拠に基づくものなのか、他人には知る由もないことなのだ。 この映画の中に「怪物」はいない。もしいるとしたらそれは特定の個人ではなく、「何かを正さなければ」という意識に駆られた暴走のことだ。 その暴走を引き起こしたのは、誰か一人の他愛ない一言だったのかもしれないし、愛や正義からくる「必要悪」かもしれないし、この世界に受け入れてもらえない孤独さなのかもしれない。 色々小難しい感じの話を書いたけど、とにかく構成も含めて見事なストーリー展開。特に音で各パートがつながる展開図のような仕掛けは、ストーリーという軸にキャラクターという面が突き刺さっているような、そんな感覚。 さらに疾走する自転車の爽やかさ、各シーンの光の美しさ。特に天井窓の泥を拭い続けるシーンは、闇の中に光がいくつも瞬くようで、ドキドキハラハラのシーンでありつつも、その表現に見惚れてしまい「このままエンディングでも良い!」くらいに惹き込まれてしまった。 実際にあそこで映画終わったら「何じゃそりゃ」って絶対に言うと思うけど。 個人的には、是枝監督史上最高に面白かった一本。
良い意味で裏切られた
普段、邦画はあまり観ない なんとなく先が想像できてしまうから。 この作品に関しては、少し思ってたのと違う展開だった。 誰もが怪物である可能性があり、 誰も怪物でない可能性がある。 というのが率直な感想 自分が見ている世界だけが 世界の全てではない 当たり前だけど 誰もが自分が大切で 自分の大切なものを守ることに必死で 見失いがちなものだなと思う。
やだ、私だけっぽい
後半の長い子役パートで、やらされてる感に見ていられなくなったのは私だけ❓💦💦 バスを飾ったり、木の枝パチンコとか昔のおじさんが書きそうなシチュエーション。それを体現させられる子役達が楽しそうじゃなくてさ。野山を走る時のはしゃぎ声も後づけだったよね。 大人パートは面白かった。 演技力ってつくづく職人技、
somewhere
ウエストサイドストーリーの秀逸なナンバーのひとつにsomewhereがある。スピルバーグ版ではオリジナル版のアニタ役のリタ・モレノが唄うが、マリアとトニーがデュエットする前作のナンバーの方が、行き場のない愛する二人の切なさに涙せずいられない程、感動的だ。このナンバーは、実は男女になぞらえて、当時はひた隠しにしなければならなかった同性愛者の心情を表現したと言う逸話がまことしやかに語られていた。しかし、スピルバーグ版の新作のメイキングでスピルバーグはこの映画に携わった主要スタッフが同性愛者だったことを公言した。ウエストサイドストーリーが、半世紀経っても今なお色褪せないのは、人間そのもののアイデンティティーの問題と言う永遠のテーマを訴えているからだ。(映画の中でジェット団に入りたがるボーイッシュな女の子の存在は、今なら多くの人が理解出来る)
怪物のラスト、二人の少年が台風一過の清々しい晴天の中を閉鎖されていた線路を駆け抜けて行く。これはあくまで自分の解釈だが、やはりこの二人の少年はこの世にはいない。台風の日に自宅の浴室で自殺しようとした少年を助けて、二人が唯一呼吸の出来る森の中の廃車へと逃げ込む。映画では、二人の少年が死の覚悟をしながら亡くなったのか、そんな暇もなく死んでしまったのかは、観客に委ねれている。
この映画が多くの人に評価されたのは、「怪物だれーだ」と言う問いかけに、単純な回答を用意しなかったからだろう。人間は誰しもその中にモンスターの要素を内蔵していると言うことなのか、それとももっと究極を極めれば、そんな人は誰もいないと言う事なのか?後者を信じたい自分がいるが、昨今の世の中を見ると、前者なのかと疑ってしまう自分がいるのも否定出来ない。
切ない
確かにそこにあったはずの愛情や友情が悪意や思い込み、立場によって歪められなかったことにさえなってしまう。 切なくて苦しくて、虚しいような感情が残ったけど、虚無ということではなく、重くしっかりとした満足感もあった。 ドラマPICUでも素晴らしい演技を見せてくれていた子が今回もいい!
穏やかで力ある作品。脚本がうまいので途中からミステリを読み進めるよ...
穏やかで力ある作品。脚本がうまいので途中からミステリを読み進めるような感じで観てしまったのだが、それが果たして成功なのかどうかはわからない。
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