怪物のレビュー・感想・評価
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邦画を代表する最高傑作のひとつ
いじめっ子といじめられっ子のいざこざが思わぬ方向に進んでいくヒューマン・サスペンス・◯◯映画。
あの賞で、大事な部分を知っていたから、序盤の伏線の何個かは分かってしまう。
ただこれが自然すぎて気づかない。見事な脚本すぎて驚く。
序盤の安藤サクラの異次元の演技は勿論のこと、鍵を握る(握ってしまう?)担任の先生役の瑛太もすごい演技。怒られているのに、なんで笑っていたのか?なんで飴なのか?あとで語られるその理由(しかも大したことはない笑)が演技に表れている。どちらともとれる、微妙な演技が上手すぎる。
※子役の二人も恐ろしく上手かった。演技力で言ったら怪物の域。
そーいえば、怪物は誰なのか?という観賞後あるあるのテーマはあまり気にならなかった。
人間誰しも怪物になり得るし,最初から怪物という稀有な人間はこの作品にはいなかったと思う。
個人的な1番の性悪は、あまり語られてないけど、とある人物の恋人だと思う。あーいう人は普通にいる。と思ってる😂
肝心な点。
核の要素が語られる後半に入ってから,少し泣いてしまった。勝手ながら自分は完全に親の立場として見て、自分の息子を想ったから。そして、エンドロールでは完全に泣いた。ただただ幸せを願う。その希望がある終わり方で感動泣きした。
いやーーー、ほんと良かった良かった😭
違和感
母親も教師も学校も子供たちも反応が極端過ぎる
死んだ夫を今も愛する良いお母さんの早織(安藤サクラ)、
母親にプレッシャーを感じて、だんだんと話さなくなる息子の湊、
「湊が大人になって、ちゃんと結婚して家庭を持つまで、
「お母さんは頑張る・・・」
その言葉を聞くなり走ってる車のドアを開けて飛び降りる湊、
担任の保利(永山瑛太)の苦情を言いに学校へ行く早織。
玄関で床のガムを削り取っている掃除のおばさん?
と思ったら校長先生(田中裕子)だった。
保利の手が湊の鼻に接触したと主張する学校側。
殴られたと息子から聞いている母親、
その暴力行為の有無の話し合いの話の途中で
飴を口に入れる保利、
違和感が半端ない。
小5の男の子が「大人になって結婚したら?」との言葉を聞いただけで、
自分はゲイだから・・・結婚なんて無理?嫌悪?
それで車から飛び降りる?
そんなにハッキリと、性的嗜好が分かっているだろうか?
(「レディバード」で、ソアーシャ・ローナンが車から飛び降りて
骨折してたな!)
校長が毎日床掃除をしていたら、
「校長!!やめて下さい、・・・」とならないだろうか?
それに65歳過ぎの校長先生って、とっくに定年している筈。
(田中裕子の校長役は怪物そのもので、凄かったが、)
暴力沙汰の本人の教師が父兄と先輩教師に囲まれて、
飴を口に入れる?
この教師が「豚の脳ではないか?」
この映画は3者の視点から描かれている。
1、母親の早織から見た息子・湊への保利の虐待。
2、保利の目から見た湊の真実の姿。
3、港と特別な友達になる星川依理たちの視点。
保利の暴力も星川を虐める友達に苛立った湊が備品や持ち物を
メチャメチャに投げ飛ばしているのを止めた保利先生の手が
偶然、湊の鼻にぶつかって鼻血が出ただけだ。
血が出るほど、耳を引っ張った、
給食を食べるまで帰さない、
「麦野湊の脳は豚の脳」と保利先生に言われた、
この3つの場面は湊の証言の伝言である。
実際の行為のシーンはない。
「豚の脳」発言はそもそもが星川依理の父親の発言で、
「アイツは怪物ですから・・」と言い、
依理を嫌っている父親は依理を遠ざけるために祖母の家へ
預けようとしていて、転校するも知れないのだ。
仲良くなって廃バスを秘密基地にして遊んだり、線路やトンネルを
憧れを持って見つめたり2人は離れられないような密接な関係を築いて行く。
これがカンヌ国際映画祭の脚本賞を受賞(坂元裕二の脚本)
そして更にLGBTやクィア
(性的マイノリティや既存の性のカテゴリに当てはまらない人々の総称))を
扱った映画に贈られるクィア・パルム賞も、ダブルで受賞している。
そして売れっ子プロデューサーの川村元気もこの映画に企画から
参加している。
(川村元気と聞くと、だろうな?と感じる)
坂元裕二と川村元気の企画が先にあって、有名監督の是枝裕和が監督を
依頼されたとの経緯を聞いた。
それで是枝監督らしくない作品なのだな。
違和感と書いたが、確かに力のある作品。
永山瑛太、安藤サクラ、田中裕子の演技は「怪物=モンスター」を
体現している。
クラスの子供たちはリトルモンスター。
保利先生なんかの手に負える子たちではない。
この学級は近々、学級崩壊する予感・・・だし、
心の裏を読めない保利先生は多分教師に向いていない。
そして湊(黒川想矢)と星川(柊木陽太)の演技は小悪魔的に魅力的だった。
2人ともハーフ的中性的な美形。
星川は湊を完全に虜にしている。
2人がどんどん社会の枠組みからはみ出して行くようなラスト。
しかし坂本龍一)のラストを飾るピアノ演奏は煌めき、
何処までも生命感に溢れて輝く未来を予言している。
2023年No. 1
観客に委ねられるであろう、あのラストの意味に涙が止まらなくなる。
カンヌで脚本賞は喜ばしい。
でも正直、これがパルムドールじゃないの?ってくらいの大傑作。
2年前のカンヌは『ドライブ・マイ・カー』が脚本賞。
これと同じパターンでこれから世界中のたくさんの賞を席巻してほしい。
そして米アカデミー賞まで話題を振りまいてほしい。
うーん…
なんとも評価が難しい。
男らしくとか言う言葉がキーワードかなと思ったけど。言葉が少なすぎる。正直に話そうとは思わなかったのかな。そのせいで先生の人生めちゃくちゃになったのはどうなのかな?田中裕子の存在意味もいまいちよくわからず。安藤サクラの演技はほんま自然体やな〜すごい役者やなと思った。
最後は夢の世界なのかはたまた現実なのか…あのバスの中を覗いてたからあのとき発見できたと思うんやよね。現実ならね。
話題にはなったけれど、最後の解釈も丸投げしている感じがしてあまり好きな映画ではないなと正直思ってしまった。
余韻
怪物は今まで見た中で1番好きと言ってもいいくらい面白い映画だった。。!
登場人物によって事実のとらえ方が違うのがとても面白かった!最後のシーンも人それぞれの解釈ができて面白いし、何よりみんな主演の子役2人の演技が上手くて惹き込まれた
怪物を見終わった1週間は余裕で余韻に浸りまくりだった!!
思ってたものとは、ちょっと違ったかな…?
前半はすごく面白かった。
久しぶりに観る是枝作品だと、身が震えるような感じで「この先どういう展開が待っているのだろう?」と、ワクワクしながら鑑賞していた。
しかし、中盤以降になってガキ2人の友情話にすり替わってしまった。ここでジュブナイルものが好きな人には申し訳なく思うのだが、当方は興味ないジャンルなので、正直なところ、だんだんウザく感じるようになってしまっていた。
そして途中から浮かび上がってくるBL色……相手役の子役を女の子っぽい外見と声にしていたのは、こういう同性愛が色濃くなっても下品に見えないよう最低限、観客に気を遣ってくれていたのかなとも思える。事実、BL系ドラマを苦手として避けてきた僕でも、何とか視聴に耐えられた。そういう節度を保ってくれていたのは、是枝監督の配慮ある采配なんだろうと感謝したい。
後半から僕はかなり興味が薄れてきて、どうでもよくなっていたのだけど、ラストシーンを観てハッとした。
子供2人は、すでに死んでいたのかと。
はっきりとした描写や演出的な明示もなかったが、そんなような美しさを感じさせるラストシーンだったのだ。
もし、これが2人が死んでいたとされるのなら、僕はもうちょっとBL色の表現にも許容できていただろうし、むしろ増やしても良かった。いや、もっと死の匂いを前半から伏線的にチラリズムさせても良かったのではないかと思う。そのほうが文学性も高まったし、2人が合い言葉のように「○○の夜」とか記念日のように指折り数えて待つような、その日に向かっていく高まりがあっても良かった。
それだけ死という表現は、生きてるときに生々しかった表現をすべて浄化させてくれる作用があるからだ。
子供たちは心身を「純化」させないと、2人同時に「死の夜」の高みにはいけないだろうから、それをお互いに守るため約束しようと誓いを立ててもいい。それを邪魔する同性愛的な性交への誘惑とかなら、僕もかろうじてBLシーンを許せる……。
「禁じられた遊び」的な感じで、性器の見せ合いっこから、互いに自慰のやり方を見せ合うなどのチラリズムも許せる。それは死という浄化が最後にあるから許せるのだ……。
こんなことを書いてしまうのは、ラストシーンで子供2人が死んだかどうかわからないような「観客の判断にお任せします」的な終わり方をしたからだ。正直、もうこういう終わり方は飽きたな。このパターン、そろそろやめませんか、と是枝監督にちょっと言いたい気分になってしまっていたので、こういう「死の匂い」をもっと出して欲しかったと書かずにはおられなかったのだ。
……というわけで、映画としては物足りなかった。
スクリーンから迫ってくるようなもの、心を抉ってくるような感覚、見てはいけないもの的な非日常の何かを覗いてしまった後ろめたさなど……求めていたものの何かひとつでも発見できれば良かったのだけど……拾えなかった。心には届かなかった。届きそうだったけど、そんなエグさは途中で消えていた。
とはいえ、映画としての節度は保てていた。
この映画を観たあとで、とある批評家のレビューを読んだが、まあ政治的にLGBT方面にこの映画を利用したくてたまらないといった内容で、非情にキモかった。
批評というより、政治系の活動家による印象操作、誘導、洗脳系で吐き気がした。
この映画が、そのようなプロパガンダに屈しなくて良かったと思う。それは映画の敗北だと思うからだ。
様々な視点から描かれるこの映画。いったい何が真実なのか、真実という...
様々な視点から描かれるこの映画。いったい何が真実なのか、真実というものがあるのか。
また坂本龍一さんの映画音楽がとても印象的でした。
韓国で公開されたので
いや、是枝監督、いったいどうやってあんなすごい子役二人を見つけてきたのか。あの二人で最終的に決定した是枝監督は良い意味で本当に狂ってる。子供を撮る上で彼の右に出る人はいないとおもう。なんかもうすごすぎて、変態的だよ、本当にうまく撮った。
担任の先生が受難過ぎw
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主人公の小学生がある日、怪我をして帰って来た。
他にも靴が片方ない、夜に近所の洞窟で一人で歌う、
走行中の車から突然飛び降りるなど奇行三昧。
母が問い詰めると、担任に侮辱され殴られたと言う。
学校に怒鳴り込むと、穏便期待満載の機械的な謝罪のみ。
担任本人も反省してる様子などまるで無かった。
そして主人公が星川くんをいじめてるとも言った。
やがてこの一件はマスコミに取り上げられる。
こうして担任は大勢の前で謝罪会見し、クビ。
これが原因で女にも振られた担任は主人公と話しに来る。
でも逃げられた末、担任に突き落とされたとか言われる。
担任は絶望し、自殺しようと屋上へ。
そこへトロンボーンだかの音が聞こえて来る・・・・。
で後から、カメ止め的な種明かしが始まる。
まず担任はいい先生だった。怪我も偶然で、殴る気も無し。
でも責任を認めないと保護者を怒らせるということで、
認めて謝罪するよう校長らから指示されただけだった。
星川君は主人公以外の生徒達からいじめられてて、
いじめっ子のいない所では2人は仲良しだった。
というか互いに恋愛感情を持ってた。
奇行と思われたことは、全てこの関係が故に起こってた。
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「怪物」なる黒幕がいて裏で糸を引いてるのかと思いきや、
決してそういう訳ではなかった。
「怪物」は単に、2人がやってた遊びに出て来る歌。
裏事情も、それによる主人公の奇行も大体分かったが、
全く分からんかったことがある。
それは何故、主人公や星川が担任を陥れたのか?
彼らのことを思ってくれる、いい先生なのに・・・。
同性愛を隠すためだけに、そんな嘘までつくかなあ?
主人公は賢く分別のある子供として描かれてたけど、
そこだけ異常に幼児性が高くない?って思った。
あと高畑充希が担任の彼女役で中盤に出て来て、
疑惑を晴らす重要な存在なのかと思いきや・・・
出番も少ないしストーリーにもほぼ関係がない。
しかも薄情。こんなの駆け出し女優がよくやる役やん。
出演者に名を連ねさせて集客狙い?と思ってもたってのw
怪物は誰なのか?そしてラストの解釈は観た人に委ねられている
是枝監督の最新作、楽しみにして観に行きました。
ネタバレを目にしないように気をつけながら観に行ったので、こういうテーマだったのかという驚きと、この映画を自分の中でどう咀嚼するかの答えがすぐに出ず、数日余韻の中にいた気がする。
怪物は誰なのか、すでに議論し尽くされていますが、その答えは観た人に委ねられており、ラストの解釈も同じく委ねられているのだなと思う。
私は希望を感じました。
是枝監督の起用する少年たちは、いつも目が印象的ですが、今回の二人もその期待を裏切らず、難しいテーマをよく演じていて、将来が楽しみ。
大人の俳優たちは、やや過剰な演技というか、ある種の型にはまっているような印象もありましたが、その描き方もあえてなのかもしれません。
「怪物」というのもまた、型のひとつであるから。
「怪物、誰?」のナゾときではなく…
「怪物は誰か…」解き明かしたくなる作りになっている。でも…う〜ん。誰とかではないのかな…
誰もが自分の目線でしか真実を見ることができなくて。そこからは見えていない死角がある。自分とは違う、欠けたモノをさして「アイツは怪物だ!」と言っている。みんなが真実のホントの部分を話しているけど、それは真実全体ではない。全体ではないから、ある意味ウソでもあるのだ。
子どもたち二人もBLという声もあるが、そこを強調したかったのではなく、同じ気持ちで遊んでいると思ったけど、まったく同じではないんだということをちらっと感じてしまった瞬間だったという表現かなと。
だから何?
これまで脚本も全て書いてきた(確か)是枝監督だけど、こちらは違う。
だからなのか、撮り方というか、編集というか、ちょっとチグハグな感じがする。
シーン展開のテンポが早いと言われているけど、言い得て妙。
役者さん達の演技、監督の演出ともども良いのだけれども、スゴく良いかと言われれば、そうでもない。
最近新文芸坐で万引き家族とか是枝作品をいくつかスクリーンで観たからか、比較してしまい、過去作と比べるとちょっと落ちるかな、という印象。
と、色々考えてみると、テーマというか、だから何? というオチがイマイチなことに、尽きるかな。
20231125 TAMA映画祭
白石監督の「ひとよ」の田中裕子をいじりまわす脚本にはニヤリ
上諏訪温泉のホテルを燃やした???
上諏訪温泉のホテルに泊まって 諏訪湖でワカサギ釣りをしました。全然、釣れなかったです。ヘドロで臭いし。
「君の名は。」の聖地、立石公園もすぐ近く。
モモセクリーニング店で働くシングマザーの安藤さくら。長野には百瀬姓が多い。
公開当時は予告編で子役が主役のいぢめ映画だなと思って、観たいと思わなかったのですが、友達に是枝裕和監督の怪物観た?って聞かれ、観てないと言ったら、感想や内容には全く触れないままスルーされたのが気にかかっていて、新文芸坐の是枝裕和監督の作品特集で観てみました。
校長先生をはじめ、集まった教師たちの態度には口あんぐりでした。田中裕子の映画出演作品は昔よりもよく観ています。まるでゾンビ集団。教育委員会に早く行け行け。
永山瑛太のヘラヘラ教師の演技が上手すぎ。
ガールズバー行ってたんか。アウトやろと思ったら、本や雑誌の誤字、誤植をあら探しするのが趣味の変なオタク。でも、恋人役が高畑充希。なによ、
充実してるじゃん。
男の「大丈夫、大丈夫」と女の「じゃ、また連絡するからね」はアウトだそうです。ちょっと、こころが痛みました。大丈夫、大丈夫は若い頃口癖でした。マスコミの女性レポーター役で片山萌美。
偶然と先入観による悲劇の連鎖の種明かしが繰り返される脚本。
しかし、ねぇ。
なんで、息子は走ってる車から飛び出る?
親に心配かけたくなくて、嘘ついていたんじゃないの?
担任は飛び降り自殺したの?
九州の台風で諏訪で大雨?
最後の子役ふたりが若葉の中を走るシーンはすでに黄泉の国?
最後、柵がなかったよね。
事故があったから、後で柵ができた?
生まれ変わったらカメムシは絶対嫌。
でもさ、これ、意味ある?
一秒先の彼でも出ていたかわいい男の子は家でも学校でもいじめられて、抵抗することもせずヘラヘラ状態。人格崩壊、過剰適応の悲しさよ。
でも、ミナトのほうが壊れてた。
カタルシスはゼロでした。
お金を払って胸糞な気持ちに浸るなんて、ドMじゃん。
君の名は。の聖地も汚れてしまった感じ。
悲しい。楽しくない。知的なのかどうかもわからない。
いじめ肯定してるの?
この世に正義はないのは世界を見ればわかるけど、せめて長野の諏訪湖にはあって欲しいじゃないですか。
予告編の怪物だーれだ。
映画館に足を運ぶ人間を馬鹿にしてないか?
と、思いました。
映画に対する印象や意見は人それぞれですが、こういう気持ちになった人もいることを言いたいと思いました。
ちなみに、ベィビー·ブローカーには☆5ですが、なにか?
できる子役が可哀想と思った映画はダメなんじゃないの。
ヨーロッパから日本も中国もおんなじと思われたくないよなぁ。
不気味なホルンの音はサスペンス的には良かったけど、あの校長が子供のミナトに優しくしながら一緒に吹くのも作為的に感じてしまった。
内なる光
何の情報も用意せず観ると、理解するのが難しい映画。
題目と内容、内容そのものは単純なのだが、理解するのが難しい。題目はなぜ怪物?
ただ感想を一言で言うとするならば、現代日本の縮図を観た気がした。
誰が怪物=モンスターなのではなく、誰もがモンスターの要素を持っている、それを表に出すトリガーが、あるかないか。
真実とは事実の一側面であり、全てではない
人間は複合的な情報分析によって事象を認知する生き物だ。五感をフル稼働させ知覚を得て、神経を通して情報が脳に届き、分析・精査され認識する。
そしてその感覚は「見えないもの・聞こえないもの」「ある筈のないもの」にも適応される。ある事象Aとある事象Bが連続して認知されたとき、AとBの間に連続性や共通性を見出そうとし、Bの原因をAに求めたり、未来に起こる事象Cを予測したりする。
「怪物」の特報は印象的な声から始まる。「怪物だ〜れだ?」と問いかける声。歌うような調子、走る少年の映像に子どもの遊びなのかなと思う。そして映し出されるキャストのアップ、「だ〜れだ?」という言から、この中に怪物がいるのかな?と思う。
両足の間に落ちる赤い液体に血を連想し、白地に赤く浮かび上がる「怪物」の二文字。
特報一つとっても、与えられた知覚と与えられなかったはずの情報と、それらを吟味して導き出される映画への期待という、人間らしい認知の仕組みが発揮されているではないか。
映画「怪物」は、3部構成のストーリー全てでこの「人間の認知」が引き起こす軋みを見せてくれる。
もっと正しく言うなら、「実際に起こった出来事」と誰の視点ではどう見えて、どう感じて、どう考えたのか、を見せてくれるのだ。
例えば安藤サクラ演じる麦田早織は、当初「豚の脳を移植した人間」の話にフラットに対応している。そこには嫌悪も敵意もなく、「最近の学校は妙なことを教えるね」と、至って落ち着いた様子だ。
それが「息子の涙」や「担任の先生から言われた」という息子の言葉によってその話は一気に当事者性を帯び、攻撃的な言葉に変化する。
早織の中で担任の保利先生は「普通の先生」から「危険な先生」に変化し、クリーニングの受付で聞いた噂話も保利先生の教師としての資質を疑問視する行為に変化していく。
当然だが、永山瑛太演じる担任の保利先生自身が変化したわけでは無いし、噂話が事実であるかどうかを早織に確かめる時間はない。
この場合、息子が泣いているという事象の原因を別の事象である保利先生の行動と結びつけ、それを排除することで「息子の幸せ」という結果が期待できる、と判断しているのだ。
映画の中で早織はごくごく普通の母親であるし、色々口やかましいタイプでもなく、何なら物事の決めつけには注意を払っている方だと思う。それでも日常に潜む「認知の仕組み」の中で、無意識のうちに考えや感じ方が変化させられていくのだ。
こう書いていくとまるで人間の認知の仕組みが「悪」であるように感じられるかもしれないが、膨大な情報を処理し、最善手を決断するためには不可欠な機能である。この仕組みがなければ科学の発展は無いし、犯罪の捜査は無理だし、短歌も俳句も成立しない。
アニメーションは誕生せず、広告は直接的な言葉の羅列で、生活のために記憶しておかなければいけないことは膨大な量になる。
この便利な認知機能なしでは人間は生きていけないし、無意識に行われるからこの事を忘れがちなだけだ。ただ、忘れてはいけないのは、私には私の認知があるように、他人には他人の認知があるということだけなのである。
何か一つの事実が、たった一つの認知による真実であるとは限らない。例えば、スーパーで走り回る子どもに、足を引っ掛けて転ばせる行為は普通に考えれば悪意だ。だが、子ども自身が転ぶことで少なくとも巻き込まれて転倒する人はいないし、陳列が崩れたり倒れたりして事故になる可能性はなくなり、親にも「だから走るなって言ったでしょう!」と大義名分が与えられる。
足を引っ掛ける行為は、褒められたものじゃないが論理的に最小限の労力で今起こっている事象を止める効果がある「必要悪」で、それを行う人間の考えがどんな根拠に基づくものなのか、他人には知る由もないことなのだ。
この映画の中に「怪物」はいない。もしいるとしたらそれは特定の個人ではなく、「何かを正さなければ」という意識に駆られた暴走のことだ。
その暴走を引き起こしたのは、誰か一人の他愛ない一言だったのかもしれないし、愛や正義からくる「必要悪」かもしれないし、この世界に受け入れてもらえない孤独さなのかもしれない。
色々小難しい感じの話を書いたけど、とにかく構成も含めて見事なストーリー展開。特に音で各パートがつながる展開図のような仕掛けは、ストーリーという軸にキャラクターという面が突き刺さっているような、そんな感覚。
さらに疾走する自転車の爽やかさ、各シーンの光の美しさ。特に天井窓の泥を拭い続けるシーンは、闇の中に光がいくつも瞬くようで、ドキドキハラハラのシーンでありつつも、その表現に見惚れてしまい「このままエンディングでも良い!」くらいに惹き込まれてしまった。
実際にあそこで映画終わったら「何じゃそりゃ」って絶対に言うと思うけど。
個人的には、是枝監督史上最高に面白かった一本。
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