怪物のレビュー・感想・評価
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人の目線には死角がある
長野の諏訪市を舞台にしているのだが、真ん中に湖のあるのがいい。特に夜、俯瞰で街の全景を何度か見せているが、夜には湖がぽっかりと開いた黒い大穴のように見えて、その闇に吸い込まれそうな気分になる。あの闇には何があるのかと考えたくなる。
「怪物、だーれだ」という問いかけがなされるこの映画は、誰かを怪物と思いたくなってしまうその心象こそが怪物であり、街にぽっかりと開いた闇のようなものだと、そう問いかけられているような気がした。
同じ事件を3つの視点から描き直すこの映画を観ると、一度信じたものを崩され、どんな人にも見えない死角があることを自覚させられる。視覚効果による表現である映画は、カメラの向きは一方向を向くので、どれだけ真実を透明に映し出しているように見えても死角が存在する。これは、その映画の弱点に自覚的だから作れる作品だと思う。あの街の真ん中の闇のように見ようとしてもなかなか見えないものが、社会にも人間関係にも必ずある。そのことを忘れずに世の中を見つめることの大切さと難しさが見事に表現されている。
是枝裕和監督と同時代に生き、作品に触れられる僥倖
坂元裕二氏が脚本を手掛けているだとか、今回は子役に脚本を渡して撮影に臨んでいるだとか、そういった部分はきちんと取材をしたインタビューをご覧ください。
ここでは多少の主観も交えながら……。これはいつからだったか、是枝監督と同時代に生き、作品に触れられる幸せというものを、噛み締めるようになりました。
黒澤、小津、溝口など、日本映画界に燦然と輝く名匠たちの作品にも数多く触れてきましたが、やはり同時代を生き、時には撮影現場で取材をしながら息をのむ瞬間を目の当たりにすることが出来るのは、幸せなことだと再認識しなければなりません。
ほかにもシンパシーを感じる同年代の監督たちとの出会いも含めて。
是枝監督は、「これが是枝監督の集大成」みたいな表現を嫌がります。当然ですよね。監督ご本人が「これが僕の集大成」と発言するのならばともかく、他者が決めつけることではありません。今回も「集大成」ではなく、是枝裕和という映画監督の通過点であると考えるべきです。この先、もっともっと世界中の映画ファンを楽しませてくれることを切に願いながら。
それにしても、田中裕子さんの演技にはたまげました。
是枝組の常連であった樹木希林さんとは対極の位置から仕掛けてくるアプローチに仰天させられます。安藤サクラ、永山瑛太の芝居も、堪能してください。
怪しくて やがて哀しき 藪の中
安藤サクラが演じるシングルマザー・早織が、小学生の息子・湊が担任の保利(永山瑛太)からモラハラと暴行を受けていると確信し学校側へ説明と謝罪を求める序盤のかなり早い段階から、心臓のあたりがぞわぞわするような、なんとも不安で不快な気分が長い時間続いた。
坂元裕二による脚本がカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したことを報じる記事などで言及されていたように、本作の物語構成は、芥川龍之介の小説「藪の中」、またその映画化である黒澤明監督作「羅生門」に似て、真相がわからない一連の出来事を複数の当事者の視点から語り直す手法が採用されている。この「怪物」においては、主に早織、保利、湊の視点の順で(ほかに田中裕子が演じる校長の視点も少し入るが)、学校での数日間に起きたことや、湊と同級生の依里(より)とのかかわり、台風の一夜の出来事が多面的に語られ、当初は不明だった事実が徐々に明かされていく。
だが、坂元の脚本と是枝裕和監督の演出は、“たった一つの真実”が存在しそれを明らかにしようとするのではなく、むしろ各人の考え方感じ方や立場によって事象のとらえ方が変わってくる、言い換えるなら“認知のゆがみ”が生じうることを示唆しているのではないか。たとえば序盤、早織に感情移入して観るなら校長や教員らの心のこもらない釈明や謝罪は役人の答弁のようで腹立たしいことこの上ないが、保利先生ら学校側から語り直すパートでは早織がモンスターペアレントのように映る。
得体の知れない存在や体験したことのない状況を怪しむ、恐怖する感覚は太古から受け継がれてきた自衛本能だ。自分の命やアイデンティティー、家族やパートナー、よりどころになる家庭や職業・職場が何ものかによっておびやかされると感じた時、その何ものかが“怪物”として映り、自衛のため必死に抗おうとする。だがそうして抗う自分もまた、自分のことをよく知らない相手から“怪物”に見えているのかもしれない。
認知のゆがみが「事実でないことを私たちに見せる可能性がある」という理解に基づくなら、ラストシーンも見た目通りのとらえ方とは別に、180度異なる解釈もありうるのではないか。その解釈に思い至ったとき、改めて坂元裕二脚本の深遠さに震えた。
是枝裕和監督作品の中で「テンポ」は最も速い。「深さ」についての感じ方は人それぞれか?
是枝裕和監督作品と言えば、大きな特徴として「何気ない日常を切り取る」というのがあります。
そのため、物語はゆったりと流れていくような傾向がありますが、本作では矢継ぎ早に物事が動いていきます。これは、デビュー作以外では監督自身で手掛けてきた脚本を、「花束みたいな恋をした」などで知られる坂元裕二に任せた面が大きいと思います。
もしかしたら、これまでの「是枝裕和監督作品を見る」という姿勢でいると違和感を持つかもしれません。
それは、何の予備知識もなく作品の世界に身を置くという姿勢でいると、珍しく「時系列」が行ったり来たりするため頭が混乱するからです。
親切な作品であれば「(安藤サクラが演じる)母親目線の場合」「(永山瑛太が演じる)担任教師目線の場合」といった切り替えのタイミングを明示してくれますが、本作では似たトーンで映像が続いていきます。
要は「コンフィデンスマンJP 英雄編」などと似た構造にあり、様々な視点から眺めると物事の見え方が変化していくといった手法で、私たちに「種明かし」をしていきます。
「今は誰の目線で、どの時間を描いているのか」を的確に探り当てる、シーンの切れ目を自分で見つける必要があります。
これのヒントの1つはビルの火事でしょうか。
近頃ニュースでは似たようなビル火災が続きますが、本作では「ビルの火事は1回の出来事」なのがポイントです。
さて、そのような映像上のトリックを見極めた後は「結局、どのような全容なのか」を把握するために、組合せを頭の中で行う必要があります。
その結果、どんな物語が見えてくるのか?
私は、結局のところ「是枝裕和作品」という印象でした。
ただ、本作では「理由のない嘘」が少なくなく、これを連発すると「真相は藪の中」となり、やや気になる点でした。
良い点は、クセの強い人物が多く登場し、「この人物はどういう人なのだろうか?」と気になる独自性があり、その優れた「人物像構築」などで第76回カンヌ国際映画祭で「脚本賞」を受賞したのは納得できます。
二つ目の視点までは面白かったけれど
三つ目の視点がダラダラと間延びした感じで少しさめた。
終わり方もいろんなものの捉え方できるでしょ?といえば聞こえはいいが、何かすっきりしない。
綿密に作られてそうな分、なんで飴食った?や少しの違和感に引っ張られてしまう。
坂本龍一さんの曲素晴らしかったし、演技も、撮り方もすごく良かっただけに
ちょっとなーが後をひいた。
3本の軸による物語
シングルマザーの沙織は息子の湊がある日、
担任教師に暴力を受けたと思い学校へ問い詰めに行く。
その後、担任の保里の物語へバトンが渡され
息子の湊へ受け継いでいきストーリーの本筋が明らかになる。
「怪物」だーれだ、と語る二人の子供。
思春期になる彼らは大人や周りの同級生たちに
知られたくない事実を大人を巻き込んで隠していく。
ラストシーンがどうなったのか、という部分が
この物語のキーになっているが湊がその答えを答えていると考えている。
ミスリードの多重構造として綴られ、途中までは
こうなんじゃないか、と思う部分が全て覆される。
ある意味、タイトルさえもミスリードを誘う文言であり
2時間という時間内で同じ軸の物語を3層で描くが
退屈することなく見事な演出力で進みきる。
人は自分でない誰かを悪者にして社会を生きていく。
決して一方向からの視点で判断してはいけないのだと考えさせられる。
アイドルタレント起用や漫画映像化の多い邦画の中において
今一番光り輝く監督である。
わからなかったです。
雰囲気でカバーしてる感じ。
視点を変えることで、見え方が変わる…
っていうのをいいことに好き放題やってる感じがした。
いやいや、さすがにそうはならなくないか?
みたいなシーンが多かったな。
時系列に全部並べ替えたら違和感を覚えたことの原因が究明できる気がする。
というわけであまり好みではありませんでした。
「すごい」と感じさせるほどの普通の演技は映画の邪魔になるかどうか?...
「すごい」と感じさせるほどの普通の演技は映画の邪魔になるかどうか?
なぜなら、そういうことを考えながら観てしまうから。
クセがあるのも一周回って普通(リアル)になる。
ものごとの背景はカラフルでクセがあって怖い。
いつも目に入る人々やありふれた景色にも、きっと、なにか幸せや悲しみ、狂気も存在するんだろう。
誰から観て?
ここからの後半か。
すごいです。
映画、面白いなぁ
そしてそのセリフを校長に言わせる。
その人にとっての真実は、その人にしかわからない、なのだとしたら、
「誰にでも手に入る幸せ」とはなんなのか。
もとのまんまで、そして生まれ変わったよ!
是枝監督、坂本先生、全演者、スタッフの皆さん、今回も映画作ってくださってありがとう!という気持ち。
前半と後半の振れ幅
まるで産道かのような暗渠を抜けた先で生まれ変わったかと問われ、「そんなことないよ、元のままだよ」と答えるところ、そのまま美しく走り出すところ、その先に存在していたはずの行き止まりがなく線路が続いているところ、
分かりやすい形で丁寧に紡いでくれている
最初はサスペンスかと思った
飛び降りを試みるシーンで響く場違いな管楽器の音、そこの連なりも好きだった
怖っ!
予備知識無しで鑑賞。
えっ、イジメの映画なんだ。教師の無表情怖っ!と思っていたら、途中から母親の表情も怖くなった。教師の態度おかしいだろと思ったが、途中から視点を変えて、時間も巻き戻しになると、母親にはあぁいう風に見えてたって事?
最後はやっぱり死んだんだろうなぁ。
しかし、なんでクラスメートの女子は嘘ついたんだろう?湊にむかついてたんだろうけど、教師を嵌める必要は無いだろうに。
田中裕子の校長には全然共感出来ないが、田中裕子の演技怖っ!
脚本が緻密すぎる
①麦野早織・湊の母(安藤サクラ)の視点、
②永山瑛太(保利先生)の視点、
③麦野湊の視点、
④星川依里の視点、
⑤田中裕子(伏見校長)の5つの視点を、
⑥是枝監督の6つめの視点で紡いでいく。
①は、③を見ている。次に②を見る。
湊が火事を眺めながら母親に投げかけた何気ない質問、「ブタの脳を移植した人間は…人間? ブタ?」。この情報は、星川依里が虐待するクソな父親から言われていた言葉の暴力だったが、母親にとってこの情報の出どころは、息子の湊が「先生が言ってた」とつぶやいたことで『情報源→星川の父親×、保利先生○』になった。ここで、「①→②を見る」状況が出来上がった。
②は、③④(生徒)を見ている。
保利は、蒲田のイジメから星川を救おうと湊が暴れたら星川も一緒に暴れたところ・トイレに星川が閉じ込められたとき湊とすれ違ったところ、『星川のそばに蒲田がいる』という状況より『星川のそばに湊がいる』状況にだけに出くわす。「蒲田と星川」ではなく「湊と星川」をセットで見る場面に遭遇することが多いから、湊がイジメに関わっているという印象を持つ。
③は、④を見ている。
④は、③を見ている。
⑤は、⑤を見ている。校長だけは、自己保身が強い気がする。学校のためといえば聞こえはいいが、孫の写真を自分にではなく来客用ソファに向けて見せるところ、教師に弁明の機会を与えず、親の意見をのらりくらりかわす姿勢は、世間体第一の利己的な一面しか感じられない。音楽室で湊に吹奏楽のレクチャーをしたところで(なんで自分はこんなになったんだろう)という悲哀は感じられた。
まさに劇中にある「怪物ゲーム」。
①が「私はモンスターペアレントですか?」と尋ねたら、②は「正解」というだろう。しかし①にとっては不正解。
②が「私は暴力教師ですか?」と尋ねたら、①は「正解」というだろう。でも②にとっては不正解。
③と④は、まだ何者かがわからない。だから電車の中で怪物ゲームをして遊ぶシーンがほのぼのしている。
⑤と⑤は、自問自答。もはや生きる意味を見出せない。下駄箱の下で掃除をして汚れを取る自分は、何者なのか。「校長」としての役割を持っていなければ、死にたい気持ちになる。だから、校長という役割を担うことで「自分」を保つ、職場復帰の早さも自分を失いたくないから。
怪物ゲームにカードの山のなかに、かたつむりやその他動物の他に「怪物」というカードがあった。多分このカードは、「あなたはコンクリートを食べますか?」「高いところに行けますか」「火を吹きますか」など、全ての質問に対して「はい」と答えられるカード。怪物ならなんでもできるはずなので。
つまり、『すべてに「はい」』とこたえられるのが、怪物。
という仮説を立てると、
①の質問『すべてに「はい」』と答えた校長は、怪物。
息子の話『すべてに「はい」』で応えた母親は、怪物。
ほぼ強制的ではあるが学校側の内容『すべてに「はい」』で応えた保利は、怪物。
子供たちは、抗っている。湊が星川の家にいったとき父親同伴で「引っ越す」「気になる子がいる」「もう大丈夫」と、星川依里が湊に強がるも、一度閉まったドアを開けて「嘘!」と告白する。その後、父親からおそらく折檻を受けている。
③と④は、互いに肩書きを見ていない。「モンスターペアレント」「孫が死んだ校長」「ガールズバーに行った先生」「同性愛」といったフィルター、怪物ゲームの札のようなものはなく、湊と星川として付き合っている。人間同士の付き合い。人間同士。
怪物とは、「人間同士ではない」だから「じゃあもう怪物だ」という意味なのだと思う。
ただ、保利先生が飴を食べるシーンは違和感があった。よっぽど学校のいいなりになっていて心底嫌気がさしていたのか、②の視点で物語が進むほど違和感が残った。(こんな人があそこで飴食うかな?)と思った。
目には見えないものと闘う
「視点」の違い
「同調圧力」の恐怖
「親の愛情」とは何か
人の口から出た言葉というものは、これほどまでに信じられないものになっていくのか
最後に流れるピアノの音色が美しくて救われました
あのラストをもってハッピーエンドと受け取りたい
もう、思い出しただけでも泣きそう。エンドロールが終わっても泣きっ面が直らなくて、油断すればまた泣きそうで…。とにかく素晴らしいの一言。是枝作品の中でも断トツの傑作かなと。
坂元裕二氏がカンヌで語っていた「自分が加害者だと気づくのは難しい」視点、それを秀逸な点で浮かび上がらせる。奇妙な会話と不気味な輪郭におどろおどろしく感じていたはずが、その渦の中心から見える景色がこんなにも違うとは。足りない想像は簡単に創造出来ない。だからこそ、広がった景色に驚くのだと思った。
やはり今回も、というべきなのは、子供が持つ未熟を是枝監督は愛している点だと思う。小学生特有のイジり、といえばそれまでで、大人は年々それを拒む。それはきっと、単純化を求めすぎた大人故の弊害だ。それを3つの視点を繊細に描くだけでなく、三原色が重なった時に色が変わるように、その真実も変えてゆく。矛先に伸びた影はあまりにも残酷で美しく、圧倒されるばかりだった。
安藤サクラさん、永山瑛太さん、そして子供2人の視点から描きながらも、それぞれが抱えた正義も共鳴する所がまた突き刺さる。張り詰めた糸をそっと撫で下ろして観ていた分、涙腺となって溢れたのかもしれない。
ラストシーン、絶対に忘れることは無いと思った。怪物とは何か、カンヌの賞がこの作品に与えた意味も含め、僕はそれをハッピーエンドだったんだと受け取りたい。
子どもが傷つくのがただただ辛かった作品
とにかく技巧的な脚本が印象的。事実を複数視点から時系列も混ぜて見せられることでこちらの受け止め方が随時揺れ動く。わからないシーンが後から見えてくる、とか。
怪物に焦点をあてたことでセンセーショナルな面が際立った気がする。それが描きたかったことなのかな。子どもの揺れ動く感情、好意、悲しみが、見ていてしんどい作品だった。ホルンなど音の使い方はすごく面白いと思ったけど、校長の台詞が全く響かず、そこが個人的に残念。相性の問題なのだと思うけど。
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