怪物のレビュー・感想・評価
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まったく情報を入れずに見に行きました。是枝作品は合うものと合わない...
まったく情報を入れずに見に行きました。是枝作品は合うものと合わないものがあるけど、これはよかったです。安藤サクラってほんとに不思議な魅力の女優さん。子役のお二人もとても上手で、やっぱり演技ができる人だけで作られた映画っていいなと思いました。
それぞれの見方
母親、教師、子供たち。
それぞれ、三者三様の描き方をしているため、それぞれが相手に感じる感情が変わってくる。
母親の視点では、教師の非道さはもちろん、子供の奇怪さも相まって、母親の不安を充分に煽っている。
また、一人の教師が子供たちの複雑な環境や親や他の教員との関係で窮地に落とされていく様も見事だった。
また、子供たちのそれぞれの家庭環境からの鬱屈した思いや不安など、是枝さんは相変わらず痛々しく、でも純粋に描いてくる。
最後、全てから開放された子供たちは、幸せに暮らしていけているのかもしれないと思うことが、この作品での唯一の救いになるのかもしれない。
主役をあえて子どもにする発想はさすがの一言。
今回、社会になげかけたのはセクシャルマイノリティについて。
是枝監督らしい生きることの美しさを感じた。
怪物は全員だとも思えるし、誰もいなかったとも思える。もしくは社会全体とも思える。
二人には幸せに生きてほしいな。
ただ学校のステレオタイプ感はちょっと古いかな。
面白かった!
ここ十年くらい観た映画の中では一番面白かった。
脚本には流石の感がありました。
少年二人、田中裕子さんの演技も絶品!
因みに私のこの10年ベスト3は、
①『怪物』
②『るろうに剣心 Beginning』
③『クルエラ』
後半になってやっと光るが…
前半は謎が謎を呼ぶ展開で、後半になるにつれ、その謎が一つ一つ解明されていく形式のストーリー。
(前情報ないまま見たとして)「怪物」というタイトルと、前半の折々に挟まれる、猟奇的なにおいのする描写を見れば、「酒○薔薇事件を扱った映画だろうか?」等と思わされるが、謎が解明されていくにつれ、全くの思い違いだったと気付かされる。
最後の方でやっと解明される本作の最大の謎は、少年たちが「同性愛を自覚し出していること」である。「怪物」というのは、少年の一人が虐待の加害者でもある実父に言われている事だった。
これは憶測だが、製作者側は「『酒○薔薇事件だろうか』等と思う私のような鑑賞者も同性愛に理解のない怪物なのだ」と言いたいのではないだろうか。自省を促すという面では効果的かもしれないが、考えてみれば、ビルの火災に始まって、学校での暴行事件、猫の死体等、猟奇的な描写の数々に加えて、「怪物」というタイトルなのだから、そう思っても全く不思議ではない。もし製作者の意図がそうなんだとすれば、「私は怪物です」と自己紹介しておいて、怪物と呼んだら「怪物なんかじゃない!」と言われるようなものではないか。まあこれは憶測にすぎないが。
この映画は、不穏な前半から、時系列を遡って少年たちのビタースイートなセクシャリティに帰結する物語だが、思い返せば、その前半が中々ご都合主義的である。
第一に、ありもしない暴行で辞めさせられる担任。辞めさせられるに至るまでのプロセスがかなりよくわからない。辞めさせられる原因となった生徒の母親との関係はかなり悪いはずなのに、後半になって、なぜか台風の真っ只中で彼女の家まで行き、なぜか車に乗せてもらって、突如行方不明になった生徒を仲良さそうに探しに出かける。これに関しては本当に「…なんで?」と思わずスクリーンに突っ込みかけた。
あと、子供に暴行を加えたとして、校長室で母親に謝罪するシーンがあるが、ここでの担任の印象が最悪。後々暴行自体が無いと観客は知ることになるが、事実関係は抜きにしても、謝罪の場で飴を舐めだすヤツは絶対頭おかしい。後々担任はいいヤツだと判明するが、前半の描かれ方は「ヤバいやつ」すぎて、無理矢理感が強い。
第二に、校長先生。この方、担任以上にサイコな描かれ方をされている。自分の孫を車で轢いて殺してしまったのに、その罪を夫に擦りつける(これだけでも相当ヤバイ)、スーパーで走り回る子供の足を故意に引っ掛けて転ばす、保護者に謝罪する場で、保護者の席から見え易い位置に死んだ孫と一緒に写った写真を置く等、かなりサイコパス。な割に、最後の方では少年と音楽室で二人きりになって、「幸せは絶対来ないから幸せなのよ」みたいな、最もらしく、いかにも校長的な事を突然言い出し、一緒に思いっきり管楽器を吹いて「いい人感」が演出される。さすがに校長の印象はもう、その程度のことでは拭いきれなかった。この人の役割は、終始迷子になっていた印象が強い。
担任とその恋人との会話で「小学校の先生の名前、覚えてる? 覚えてないでしょ、そんなものよ」というセリフが印象に残った。ある意味、観客の記憶力が試されている事を示すようなセリフだった。(というか、少なくとも一人や二人ぐらい覚えてないか? 小学校の先生の名前)
時系列がぐちゃぐちゃな映画なので、確かに記憶力は試される。
ただ、このぐちゃぐちゃ時系列は少しやり過ぎな印象で、普通に追っていくのが疲れる。それなりのペイオフはあるが、そのためにここまで時系列をかき混ぜる必要はあったのかというと、疑問だ。
ここまで不満点しか述べていない気がするが、二人の少年に焦点が当たる後半からは光る画がいくつもあった。少年たちが廃列車や廃トンネルでただ遊び回るシーンは素晴らしい。それが友情から、恋愛感情だと気付かされる描写は圧巻だ。
ラストの駆け出していくシーンも、ジーンと来るものがある。先行きはあまり明るくはないが、とにかく「今」が嬉しい! というような、幸せでいっぱいの名シーンだ。
前半をグッと減らして、その分、後半の少年たちのシーンを増やした方が絶対良かった。前半の不穏さがあってからこそ後半が効くのだ、みたいな意見もあろうが、どうしてもご都合主義感が勝る。例えば、星川少年と実父とのやりとりは中々リアリティがあったが、それでも、父の行ってるキャバクラ燃やすかね、いくらなんでも… という風に思わさられる、無理矢理感の強い描写がありすぎた。
あとは個人的にどうしても安藤サクラの演技が苦手だ。なんというか、彼女個人のエゴがプンプン漂ってくる演技。瑛太の演技はとても良かった。
根本的な問題として、同性愛者ではない人間が、こういう風に同性愛を描いても良いものだろうか? という倫理的問題もある気がする。脚本家も監督も同性愛者ではないだろう。問題はないような気もするが… あるような気もする。とにかく、モヤモヤはする。ここを深掘りするとかなり長くなりそうなので、辞めておく。
後半、「終わりよければ全て良し」的な感じで、力技的に持って行かれた気がするが、思い返せば「アレなんだったんだ?」「アレおかしくない?」と思うことばかりの惜しい映画だった。
本当の怪物は誰なのか
話題作なので観てきました。
坂元裕二さんの脚本も好きなので楽しみでした。
それぞれ違う目線でストーリーが進む「羅生門」「最後の決闘裁判」(←最後の決闘裁判は胸糞映画)スタイルの映画でした。
基本が「ビルの火事」ここから話が始まります。
違った目線で観ることでこんなに印象が変わるなんてー。
坂元裕二さんぽいな、と思ったところが安藤サクラさん演じる母親が校長に言い寄るシーンで
校長「‥はい。」母親「はい、じゃなくて!」校長「えぇ。」母親「はいをええに変えたらいいんじゃないんですよ。」っていうところ。こういう言い回しが面白い。
校長が怪物だなーと思ったけど、
ラスト付近の楽器を吹きながらの一筋の涙。田中裕子さんの演技も素晴らしい。
結構なチョイ役だった高畑充希さん、中村獅童さんもなかなかの怪物でしたよ。
子役の二人はほんとに凄くて。
ラストシーンは泣きそうになりましたよ。。
安藤サクラさんの演技もさすがやなぁ。
是枝裕和監督作品嫌いじゃないわ(なぜか上から目線w)
坂本龍一さんの音楽もとても良かったです。
鑑賞動機:坂元裕二4割、カンヌ3割、是枝裕和3割
なるほど、そういう作りにしてあるのか。構成自体はそれほど複雑ではないけれど、いつ誰の視点で何をどんな風に見せるか、そして何を見せないか、を考えて考えて考え抜いてつくられたのだろうか。
無責任な立場で後出しでならいくらでも好きなこと言える。
『悪人』(原作)を連想する。「悪人は誰?」ってね。何気ない「怪物だーれだ」というセリフがどんどん大きくなってこちらに重くのしかかってくる。
ありのままを受け入れられない人間のサガ
怪物とは誰なのか?
誰が怪物を作るのか?
子供同士の他愛もない遊び、カードを額に充てて書いてあるものを予想させるゲームも、上手く伝わらないことが面白味になるゲームだが、生活の中で些細なすれ違いから疎遠になることもある。
疎遠になりそうなあの人に、今度こちらから声をかけてみよう、と思わせてもらった。
最後にいじめっ子の家が新聞配達をやっていて、ただの子供であることがわかる。
誰も怪物じゃないんだな。ちゃんと話そう。
誰が彼らを批判しているのか、我々は怪物か
怪物だれだ。
恐ろしい言葉である。
これほど鑑賞前後で感想の変わる言葉はない。
無邪気さを孕むだけでなく、芯にある大人への強い思いをぶつけられた気がする。
言葉は苦しい、その奥にある思いの方がもっと苦しい。
その思いに寄り添い、気づかずとも動くことができない我々はいずれ怪物となる。
怪物とモンスター
「怪物」ってタイトル日本語では重く、どれ程凄い主人公かな?と思いましたが、見るとナルホド・・納得。 全ての配役さんが素晴らしく、凄く楽しめました。特に子供達(オーディション)!!(良かったです)また、構成や展開(特に脚本)今までに無い是枝作品で進行変化が特に良かった。個人的には凄く面白い映画でした。
暗からはじまり明へ。徐々に明るい兆しが見えてくるようだ。
出だしから中盤辺りまでミステリー的な要素があり、一体なにか起きたのか、起こっているのかという謎に引き込まれた。
その後、陰湿な人間の性を見せつけられるようなシーンに心が沈むが、中盤辺りから、それら人間の陰湿さが誤解であったことが次第に分かってくる。
『怪物』という題名だけに、登場人物にただならぬ悪人が出でくるような予感がしたが、そうではなかった。
ストーリーは、多角的視点で進行するが、それらが進行するに連れて、不安な心の緊張がときほぐされて、終盤にあっては、この少年二人に、希望のようなものを感じる爽快な気持ちとなった。
また、それと同時に人間社会の複雑さ、辛辣さを感じさせた。
言わば、こうもうまくいかない社会の辛辣さのなかで、少年二人の同性愛的な友情が際だって綺麗に見えた。
鑑賞し終えたところ、実はみんなよい人であったことが分かる。
では、題名にある怪物とはなんだったのか、疑問が残っている。
いい親、いい先生、いい子供
すべり込みで劇場鑑賞。
ドラマで見たかった気もするけどまあ無理なんだろうな。。
正直、ネタ的に坂元裕二のカマトト節に絆されるのをなんだかんだ待ってしまったとこはある。からの子供パートで、まんまとキター!と。。
いやわかってる。そんなことだろうと思ってた。それでもすでに何も学ぶ必要がないほど賢いし、そのままでいいよ教えたくて仕方ない。永遠に見ていたいと思う反面、美しいと感じることそのものが後ろめたい。
しかしモヤモヤする。映画的にオチてない気がする。
安藤サクラ演じるあの健全そのものの母にすら自分をごまかすための嘘はあり、そのために弱い人間に不要な圧をかけたりする。
「人は見かけによらないから、一面的に断罪するのはやめるべき」というなら、逆に一見どんなにひどい行為にも一定の留保をするべき、となる。
ならば、あの悪ガキたちにも、教員にも、中村獅童演じる父にも、高畑充希にも、しかるべきバックグラウンドがあったんだろうか?
モスト悪質なピープルに見えた田中裕子ですら見方によっては…てことは、答えは言わずもがなだよね?
そしてああいうラストだと結局、贖罪のために努力したり、赦しを請う必要もない、というメッセージにならないか…?それ以前に、下手すると知るための努力すら無意味な場合がある=知る必要もない、となりかねないこんな世の中じゃ。
最終的に2人は行き止まりにぶつかって、生まれ変わった後でその柵を乗り越えた先へたどり着く。彼らの見た景色は画面には映らない。
だけど私は彼らが互いを知った時点で救われたと思ったので、1人でも現実の時間に帰ってくるべきだったんじゃないかと思う。なにしろ彼らの彼らとしての人生は今がスタート地点だし、画面のこちら側にいるたった1人を応援したいんだ、というならなおさら。
こちとら「ムーンライト」とか見てるしさあ。やっぱり余韻の深さが違うじゃん。。
うーん…「万引き家族」の時とはまた状況が違うんだろうけど、やっぱりオチをつけないのがいいオチだ、とは思えないんだよな。
子供には子供だけの世界がある
大きな湖があるとある街(劇中で諏訪とは特定されない)で雑居ビルで火事が起こる。
その火事を家のベランダから眺めるシングルマザーの早織(安藤サクラ)と小学生の息子の湊(黒川想矢)のシーンから物語が始まる。
映画はこの火事のシーンを起点に1つの出来事、時間軸を3者の視点で描く。
黒澤明監督が「羅生門」で用いたことが有名で、映画や小説でもよく用いられる手法だ。
今作品は是枝裕和監督では珍しく、自身の脚本ではなく、今作品でカンヌ国際映画祭で脚本賞に輝いた坂元裕二氏の脚本による。
第一幕は冒頭のシングルマザー、早織の視点で描かれる。
息子の不可解な行動から学校でのいじめを疑い、学校に乗り込んでいく。
そこでの校長の伏見(田中裕子)や担任の保利(永山瑛太)、教務主任の対応は誠意が感じられず、早織は不満を募らせていく。
ところが保利に息子がいじめの加害者だと言われるあたりから潮目が変わる。
第二幕で担任の保利の視点に変わると事は単純ではなく問題は多層的であることがわかってくる。
第三幕は当事者の子どもたちの視点に移る。
湊といじめの相手とされている依里(柊木陽太)の関係性が描かれるが、思春期の少年の危うさ、儚さ、瑞々しさが丁寧に描かれ、出色の出来。
特に依里役の柊木陽太の繊細な感情の表現には驚いた。
終盤は宮沢賢治の幻想的かつ謎めいた童話を想起されるような子供達の世界が描かれる。
1点気になったのは、視点の違いを分かりやすくするためか、第一幕でかなりのミスリードがあること。この映画ではその描き方はしなくていい。
音楽は坂本龍一が手がけ、1998年に発表されたピアノ曲「Aqua」が流れるエンディングの光景の美しさが脳裏に焼きつき余韻に浸った。
意味合いが変わっていく怖さ
自分だったらどうだったのか。
その時どう行動するか、してしまうか。
立場で、瞬間で、全てが変わってしまうのだな。
「怪物、だーれだ」の意味合いが
どんどん変わっていく怖さ。
自分が正しいと思っている怖さ。
誰にでも当てはまる一瞬があると思えた。
潜在怪物。
さて、どういう視点で受け取ろうか。
はて、どういう角度で語ろうか。
家庭、学校、社会、人間関係、ジェンダー、仮想社会、世の中の問題が全てこの2時間の作品に詰まっているといっても言い過ぎにはならないほど、盛りだくさん。
おそらく多くの人は、この作品を見ながら、「誰が怪物なのか」と思いながら、、「怪物」を探していたのではないだろうか。
担任の先生?校長先生?学校の先生?
2人の子ども?クラスの男子たち?クラスの女子たち?
麦野くんの母親?星川くんの父親?
自分の中に潜んでいる怪物
他人の中に潜んでいる怪物
誰の中にも怪物はいて、それを呼び起こすのは、身近な人だったり、社会だったり、関わる人や環境。
仮に「潜在怪物」と呼ぶが、この潜在怪物は、個々人の中にもいるし、社会全体が潜在怪物といっても良い。
様々な視点で描かれるわけだが、この映画を見ながら、初めは担任や校長に対して、「クソだな、バチ当たれ、やめてしまえ」などと思ったりしたわけだが、そんなふうに思える心をもっている自分こそ「怪物」なのかもしれない。
見ている観客の中の「潜在怪物」さえも呼び起こされる作りに感服した。
本当に「大人」という無自覚な怪物というか、「良かれと思っている時点で、正義感丸出しの偽善怪物というか、そんな怪物にいつからか自分もなってしまったなと感じた。
自分のやっていること、思っていること、考えていることは、自分の立場だからこそ、見えてくることで、照らす位置を変えると、他人からは不可解で理不尽な怪物しかなくなる場合もある。
自分は他人の「潜在怪物」を呼び覚ましてしまう怪物である自覚も必要だし、
関わる他人は自分を壊し得る怪物であるということも忘れてはいけない。
「誰が怪物なのか」がレベル1の見方(個人)だとしたら、
レベル2は「すべての登場人物が怪物で、誰によって怪物にされたのか」(人間関係)になるのかな。
となると、レベル3の見方は、「社会全体が怪物そのもので、どんな社会の影響によって登場人物は怪物になってしまったのか」(社会)
レベル4は、「自分の中にも怪物はいて、どんな人や環境によって潜在怪物を呼び起こされる可能性があるのか」であるとか、「自分のどんな面が他人を怪物にしてしまうのか」(自己反芻)であるとか。
というか、観客によってももつ感想は変わる。これほど、今置かれている状況次第で、見え方が変わる映画もないだろうから。
見る人によって印象は変わる
作品の中の主題でもあるし、この作品そのものを観て観客が感じること。両方の意味に取れるなぁと思いました。
主役の男の子、母親、担任教師、校長。それだけ誰もが色々な仮面をつけて生活している。それが過剰なまでに描写されているのが、瑛太演じる担任の保利先生だったかなぁという印象でした。「自分」だと思って何気なく振る舞っているところが、他人のフィルターを通して「怪物」に見えることがある。
今回は学校を主な舞台にしてますが、自分の職場なだけに振る舞いには気を付けんとなー、と肝に銘じました笑
多くの方が指摘している通り、考える余地を残している描き方ですね。
冒頭から何度も(視点を切り替える意味で)出てくる、ガールズバーのあるビルの火災。火をつけたのは星川くんなんでしょうけど、なぜなのか?お父さんが常連客だったのでそれが気に食わなかったことは言及されてましたけど、明確には描いてないですよね?
それから、ラスト。麦野くんと星川くんは死んだのではないのか、そうではないのか。レビューを拝見したところ、どちらも頷ける理由だったのでこれまた観客の解釈に委ねるってことなんでしょうね。
観たいと思いつつ仕事が忙しくてなかなか機会に恵まれず諦めてましたが、ようやく観られてよかったです!
もう一度観たら、また感じることは違うんでしょうね〜。
流れるような伏線回収
素晴らしい、ただセリフでの遊びが邪魔してるところもあったような…
演出では母親パートとそれ以外での先生のキャラが違いすぎた感はあった
でもメインテーマといい、様々なテーマを盛り込んだ脚本は凄すぎる
やっぱり愛なんでしょうね
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