怪物のレビュー・感想・評価
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ビッグバウンス宇宙と怪物
どうしてこうなってしまったのだろう。
昨日観終えた直後は、軽やかな疾走感と美しい緑、そして心に沁み入る音楽に包まれ、不穏な2時間を経て穏やかな気持ちになれた。けれども、一日経って日常の中で思い返すと、子どもたちは行ってしまい、大人たちは置いてけぼりにされたという思いが、じわじわと迫ってくる。朝ごはんを食べながら、小学生ふたりに尋ねてみたら、「…やっぱり、−−ということだと思う。」という返事。あまりにもあっさり反応が返ってきて、少し愕然とした。大人になってしまった私は、決定的な何かを見落したのかもしれない。
母親、先生、子ども。それぞれの視点で物語が語り直されるたびに、印象が反転する。後からは何とでも言えるのは承知だけれど、母親は押しすぎ、先生は流されすぎた、のかもしれない。とはいえ、その時々の焦りや軽々しさは誰にでもある。母親は、学校に行くために何度も仕事の折り合いを付け、深夜の通院の翌朝も日課をこなしたのだと思うと、何ともやり切れない。さらには、序盤では怒りさえ感じた校長先生に、終盤に至って救われる気持ちになるとは、思いもよらなかった。
誰かが意図したわけでもないのに、事態が絡まり悪化した大きな要因は、いくつもの噂や、無関心の連なりだろう。そして決定的な打撃になったのは、幾度となく繰り返された、手近な材料での辻褄合わせだ。彼らは、もっと何かあるかもしれない、何かを見落としているかもしれないと考えるのをやめ、あっさりと結論を下してしまった。すぐそこに待つ不吉な予感にさえ、目をつむって。
湖そばの公園の塔で、子どもたちがビッグバウンス宇宙について話すシーンが美しく、忘れ難い。宇宙が閉じた場であれば、いつしか宇宙は膨張から収縮に転じ、時間は逆戻りするという。創造と破壊が繰り返され、大きく循環するなかで、わずかなゆらぎから、銀河のもとととなる突起も無数に生まれ得る。ならば、映画に描かれた人びとの世界が、本作を観る私たちの世界と反転するのは、良くも悪くも、ごく当たり前のことなのかもしれない。そして、怪物もまた、自在に姿を変えながら跋扈し続けるだろう。
帰り道、「親に気を遣って大変だねー」「大変だよ、自覚しなよ」と子とやり取りできたのが、ちょっとした救いだった。
怪物という蜃気楼
ガールズバーの入ったビルの火災を起点に、教室での子供の喧嘩、子供による教師の暴力の証言、学校の謝罪、そして嵐の日に2人の子供がいなくなるまでを、3つの視点から描く作品。
最初の母親視点のパートでは、学校関係者の態度が絵に描いたようにひどく見える。あまりにテンプレ的な描写なので、これは何か物語としての意図があるんだろうということは察せられる。
一方、序盤こそ母親の早織に同調しつつ見ていて、教師たちに対し言葉が荒くなるところくらいまではこんな教師相手ならしょうがないと思っていたものの、取り上げたファイルを投げつけるあたりでちょっと気持ちが引いて、彼女が受難の親とモンスターペアレントの境界線にいるように見えた。教師たちの姿は、早織の主観が入った描写なのかもしれないと思えてくる。
湊との会話の場面で彼女が言った、「湊が普通に結婚して子供をつくるまでは……」という言葉の、聞く人によっては引っかかるであろうかすかな無神経さも、下味のように効いている。
ちなみに、早織のこの言葉が早々に心に引っかかったのは、本作がカンヌでクィア・パルム賞を受賞したことを映画.comの紹介文で読んでいたからだ(クィア=既存の性のカテゴリーに当てはまらない人々の総称)。このことに関しては最後に余談を追記する。
次の、教師の保利視点のパート(何の説明もそれらしい区切りもなく火事があった日に戻るので、ちょっとわかりづらかった)から、早織パートで点々と撒かれた謎が少しずつ明かされてゆく。早織を通した視界で一面に立ち込めていた靄が徐々に晴れていくような、ミステリにも似たエンタメ感があった。
実は保利先生は、最初の印象よりは熱心なよい先生で、そんな彼が周囲の嘘により追い詰められていった、ということなのだが、それがわかってもちょっと危なっかしくて怪しげな雰囲気が残るのは、永山瑛太の演技の絶妙さだ。
ただ、本質的にそこまで真面目なら、最初の母親との面談がいくら不本意だとしても、その場で飴をなめるか?そこはちょっとキャラのブレを感じた。それ以外の挙動も早織のパートとは若干印象のずれがあったが、それは早織から見た保利と保利自身の視点からの描写という違いのせいなのかもしれない。
女児が猫の死体について嘘をついたのはどういう動機だったんだろう?それだけがわからなかった。
最後は、湊のパートだ。ここで、細かい謎は概ね明らかになる。水筒の泥水や、片方だけのスニーカーから、それまで学校の場面で遠くに響いていた管楽器の音まで。
是枝監督はやはり子供の撮り方が上手い。今回は、従来のような現場で口伝えに台詞を伝える方法ではなく、事前に子役に台本を渡して覚えてもらったそうだが、子供たちの自然な姿を捉えていることに変わりはなかった。
廃電車の中で依里の転校の話をする場面などは、あの年代特有の色気まで感じた。
このパートでは、校長の善性も垣間見える。早織の目を通した校長の姿も、管楽器を介して湊を慰めた校長の姿も、同じ人間の一面だ。
最後に2人が楽しく駆けてゆくシーンは、どこかこの世ならぬ雰囲気もあった。彼らは嵐で命を落としたのかもしれない。
人間には多くの側面があり、そこには必ず善も悪もある。そしてその側面を見る者の置かれた状況によって、見え方も変わる。誰が怪物なのか、そもそも怪物は本当にいるのか、自分の主観だけでは真実が見えないことの方が、想像よりはるかに多いのだろう。
誰かの人間性を安易に決めつけること、自分から見える風景だけで善悪を断定することの危うさを思った。私たちが誰かを疑う時、卑近な例ではネットで炎上するような事案に遭遇した時、自分から見えているものが全てだと、つい信じたくなる。
その時立ち止まって、他の立場からの見え方を想像する。そうすることで初めて、この物語のように少しずつ、物事の本当に正確な姿が見えてくるのではないか。そんなことを考えた。
余談:
映画ライターの児玉美月氏のツイートによると、試写会の時の資料に「(クィアの要素がある作品であることは)ネタバレなので触れないでほしい」といったことが書いてあったそうだ。
一方、是枝監督は会見で、「性的少数者に特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話」と言っている。なので試写会資料の注意文はちょっと謎だが、クィア・パルム賞を受賞したことで、注意文を入れた製作サイドからしたら受賞の報道自体がネタバレのようになった形だ。
ただ個人的には、クィア要素があると事前に聞いていても物語の感動はきちんとあり、知ってがっかりするようなネタバレとは思わなかった。なお、児玉氏はクィア要素をネタバレ禁止のネタにすることを批判している。当事者性の高い観客への配慮に欠けるから、とのこと。
試写会資料の是非は置いておいて、やはりマイノリティ要素があると受け止められた作品は海外で賞を取りやすいという面があるのかな、とひねくれた私は思った。最近そういう作品が本当に多い(否定ではない)。
Japan's Burning Tire Pit of Adolescence
Just what Japan needs: another film to show the hardship of raising a child as a single-mother. Koreeda as one of Japan's best auteurs of the moment shows a perceptible disparagement to public education admins, perhaps something audiences understand all too well. The strongest point is the emotionally hypnotic soundtrack by Ryuichi Sakamoto, his final before his death prior to the film's release.
人の目線には死角がある
長野の諏訪市を舞台にしているのだが、真ん中に湖のあるのがいい。特に夜、俯瞰で街の全景を何度か見せているが、夜には湖がぽっかりと開いた黒い大穴のように見えて、その闇に吸い込まれそうな気分になる。あの闇には何があるのかと考えたくなる。
「怪物、だーれだ」という問いかけがなされるこの映画は、誰かを怪物と思いたくなってしまうその心象こそが怪物であり、街にぽっかりと開いた闇のようなものだと、そう問いかけられているような気がした。
同じ事件を3つの視点から描き直すこの映画を観ると、一度信じたものを崩され、どんな人にも見えない死角があることを自覚させられる。視覚効果による表現である映画は、カメラの向きは一方向を向くので、どれだけ真実を透明に映し出しているように見えても死角が存在する。これは、その映画の弱点に自覚的だから作れる作品だと思う。あの街の真ん中の闇のように見ようとしてもなかなか見えないものが、社会にも人間関係にも必ずある。そのことを忘れずに世の中を見つめることの大切さと難しさが見事に表現されている。
是枝裕和監督と同時代に生き、作品に触れられる僥倖
坂元裕二氏が脚本を手掛けているだとか、今回は子役に脚本を渡して撮影に臨んでいるだとか、そういった部分はきちんと取材をしたインタビューをご覧ください。
ここでは多少の主観も交えながら……。これはいつからだったか、是枝監督と同時代に生き、作品に触れられる幸せというものを、噛み締めるようになりました。
黒澤、小津、溝口など、日本映画界に燦然と輝く名匠たちの作品にも数多く触れてきましたが、やはり同時代を生き、時には撮影現場で取材をしながら息をのむ瞬間を目の当たりにすることが出来るのは、幸せなことだと再認識しなければなりません。
ほかにもシンパシーを感じる同年代の監督たちとの出会いも含めて。
是枝監督は、「これが是枝監督の集大成」みたいな表現を嫌がります。当然ですよね。監督ご本人が「これが僕の集大成」と発言するのならばともかく、他者が決めつけることではありません。今回も「集大成」ではなく、是枝裕和という映画監督の通過点であると考えるべきです。この先、もっともっと世界中の映画ファンを楽しませてくれることを切に願いながら。
それにしても、田中裕子さんの演技にはたまげました。
是枝組の常連であった樹木希林さんとは対極の位置から仕掛けてくるアプローチに仰天させられます。安藤サクラ、永山瑛太の芝居も、堪能してください。
怪しくて やがて哀しき 藪の中
安藤サクラが演じるシングルマザー・早織が、小学生の息子・湊が担任の保利(永山瑛太)からモラハラと暴行を受けていると確信し学校側へ説明と謝罪を求める序盤のかなり早い段階から、心臓のあたりがぞわぞわするような、なんとも不安で不快な気分が長い時間続いた。
坂元裕二による脚本がカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したことを報じる記事などで言及されていたように、本作の物語構成は、芥川龍之介の小説「藪の中」、またその映画化である黒澤明監督作「羅生門」に似て、真相がわからない一連の出来事を複数の当事者の視点から語り直す手法が採用されている。この「怪物」においては、主に早織、保利、湊の視点の順で(ほかに田中裕子が演じる校長の視点も少し入るが)、学校での数日間に起きたことや、湊と同級生の依里(より)とのかかわり、台風の一夜の出来事が多面的に語られ、当初は不明だった事実が徐々に明かされていく。
だが、坂元の脚本と是枝裕和監督の演出は、“たった一つの真実”が存在しそれを明らかにしようとするのではなく、むしろ各人の考え方感じ方や立場によって事象のとらえ方が変わってくる、言い換えるなら“認知のゆがみ”が生じうることを示唆しているのではないか。たとえば序盤、早織に感情移入して観るなら校長や教員らの心のこもらない釈明や謝罪は役人の答弁のようで腹立たしいことこの上ないが、保利先生ら学校側から語り直すパートでは早織がモンスターペアレントのように映る。
得体の知れない存在や体験したことのない状況を怪しむ、恐怖する感覚は太古から受け継がれてきた自衛本能だ。自分の命やアイデンティティー、家族やパートナー、よりどころになる家庭や職業・職場が何ものかによっておびやかされると感じた時、その何ものかが“怪物”として映り、自衛のため必死に抗おうとする。だがそうして抗う自分もまた、自分のことをよく知らない相手から“怪物”に見えているのかもしれない。
認知のゆがみが「事実でないことを私たちに見せる可能性がある」という理解に基づくなら、ラストシーンも見た目通りのとらえ方とは別に、180度異なる解釈もありうるのではないか。その解釈に思い至ったとき、改めて坂元裕二脚本の深遠さに震えた。
是枝裕和監督作品の中で「テンポ」は最も速い。「深さ」についての感じ方は人それぞれか?
是枝裕和監督作品と言えば、大きな特徴として「何気ない日常を切り取る」というのがあります。
そのため、物語はゆったりと流れていくような傾向がありますが、本作では矢継ぎ早に物事が動いていきます。これは、デビュー作以外では監督自身で手掛けてきた脚本を、「花束みたいな恋をした」などで知られる坂元裕二に任せた面が大きいと思います。
もしかしたら、これまでの「是枝裕和監督作品を見る」という姿勢でいると違和感を持つかもしれません。
それは、何の予備知識もなく作品の世界に身を置くという姿勢でいると、珍しく「時系列」が行ったり来たりするため頭が混乱するからです。
親切な作品であれば「(安藤サクラが演じる)母親目線の場合」「(永山瑛太が演じる)担任教師目線の場合」といった切り替えのタイミングを明示してくれますが、本作では似たトーンで映像が続いていきます。
要は「コンフィデンスマンJP 英雄編」などと似た構造にあり、様々な視点から眺めると物事の見え方が変化していくといった手法で、私たちに「種明かし」をしていきます。
「今は誰の目線で、どの時間を描いているのか」を的確に探り当てる、シーンの切れ目を自分で見つける必要があります。
これのヒントの1つはビルの火事でしょうか。
近頃ニュースでは似たようなビル火災が続きますが、本作では「ビルの火事は1回の出来事」なのがポイントです。
さて、そのような映像上のトリックを見極めた後は「結局、どのような全容なのか」を把握するために、組合せを頭の中で行う必要があります。
その結果、どんな物語が見えてくるのか?
私は、結局のところ「是枝裕和作品」という印象でした。
ただ、本作では「理由のない嘘」が少なくなく、これを連発すると「真相は藪の中」となり、やや気になる点でした。
良い点は、クセの強い人物が多く登場し、「この人物はどういう人なのだろうか?」と気になる独自性があり、その優れた「人物像構築」などで第76回カンヌ国際映画祭で「脚本賞」を受賞したのは納得できます。
2人の子役が素晴らしい
敷居高そうだったから見るの敬遠してたけど、結構シンプルな構成で面白かった。
最初はいじめの訴えを学校側が無視して逃げる感じで物語が進められていくのかと思いましたが、中盤からキャラ視点が変わって物語通して様々な視点でストーリーが進む映画だったので、あのシーンこういう理由かみたいな感じで飽きなかったのとテーマが怪物だったので何が誰が怪物なのだろうかと見ながら探していてキャラの言動や行動の意味を理解しようとしたので個人的には物語に惹き込まれました。あと個人的にはテーマの怪物って意味は主人公たちが豚の脳と揶揄されるので、テーマを怪物にしたのかと思いましたが、どちらかというと片方の視点から見た相手の行動、言動を切り取って見て異物感を感じるいわゆる相手が怪物っぽく見えてしまう、見てしまうのが物語を通してあったと思うので、そういう意味でテーマが怪物になったんじゃないかと個人的に思っています。
フィクションと分かっていても嫌やわぁ〜🤢
見ていて思ったエトセトラ
◯いろいろな視点から物事を捉えて
描いてゆきましょう。
そうしたら、いろいろな事情がだんだん
ぼんやり見えてきました。
なるほどねぇ〜
◯自分がもしあのような親の立場なら
やっぱり学校へ乗り込んで行くと思います。😤
短絡的ですみません。🙇
自分もある意味カイブツ?
◯小さい頃はノーマルじゃないことにも
もちろん悩み苦しむんだろうなぁ。
◯あんな密かな場所や秘密基地(遊び場)があるといいなぁ〜 うらやましぃ〜
◯それにしても、教室でクラスの子たちが
あんなことを特定の子に平気でしてたらたまりませんわ。😱
見終わってすぐ、子供に学校でおかしなこと変なことが起こっていないか聞いてみました。
フィクションと分かっていても、嫌やわぁ〜🤢
◯『誰も知らない』もきつかったけど、
本作もなかなかきつかったぁ〜〜😨
◯ちなみに、是枝監督の以下作品はスキです。
『歩いても 歩いても』
『そして父になる』
『海街diary』
『万引き家族』
※一部修正済 2025.8.17
世界はそれをLGBTとゆうんだぜて話
中、高と自分に置き換えてもそれらしき同級生はいたなあと。
個性なのか、病気なのか
作品では怪物と表現され
私としては病気
だからこそ向き合っていかなあかんのでは無いかと感じた。
切なくて美しい話でした
主人公二人の笑顔に胸が締め付けられました。私にも、子どもが二人いますが、ただただ自由に生きて、幸せになって欲しいと思いました。
ラストシーンは映画史に残る美しさを感じました。主人公二人が、幸せに生きて行ける世界に変わったと信じたいです。
素晴らしい映画でした。
怪物=思い込み
安藤サクラ演じる、夫と死別したシングルマザーは、お母さんになんでも言わなくなってきた小5の息子の湊と全身全霊向き合って生きている。
その湊に不可解な鼻血や怪我や物の紛失などなどが起こりはじめ、母は学校での先生からのいじめを疑う。
状況から、まぁわかる気もするけれど、
児童がいる=先生が授業をされている時間帯に何度も通い詰め、口調も教師を信用できないのはわかるが、タメ語。非常によろしくない。なぜ、先生が意味もなく体罰をするはずがないので、まずうちの子がどんな言動をしたからなんだろう?という発想にならないのか見ていて非常に不可解だった。
信任教師の保利先生もまた、作内では噂で先に、火事があって全焼した建物に入っていたガールズバーに保利先生がいたという先行情報を基に保利先生が登場するため、母親は一層保利先生への先入観不信感を強めて接し、保利先生が息子に暴力をふるったに違いないと断定的に罵倒する。
ミスリード役、湊と同級生の母親役野呂佳代に、どこからそれ聞いたの?と聞かない母親がまた、不可解。
それでも、安藤サクラのクリーニング店員役は万引き家族でも非常に板についていたし、ラグビー選手だった夫に顔向けできるように息子を真剣に育てようとクリーニングの仕事を夕方までこなしながら育児に奮闘している姿は応援したくなる。
その応援に含まれた、
「湊が普通に結婚して子供を持つまではお母さん頑張るってお父さんと約束してるんだ」
が、湊の苦しみの元凶だとは。
息子湊はチャッカマンを部屋に持っていたり、山に入ったり、車から転がり落ちて耳を怪我したり、様々おかしな行動を見せ、それは先生のせいだとは思えないものの、実は保利先生が勘違いしていたように湊がいじめっ子側なのか?チャッカマンで放火までしているのか?豚の脳と人間の脳の入れ替えと称して猫殺しまでしているのか?なんせ表題が怪物なものだから、頑張ってるお母さんの心子知らずで、実は息子は少年Aのような闇を抱えてしまっているのかと考えながら見進めていく時間には脅かされた。
どうか母親の知る湊像と著しく乖離、逸脱した本性ではありませんようにと願う。
それでも、湊から、凶悪な感じはしてこない。
真相はなんなのか?
学級内には、鏡文字を書く、おそらく発達障害の依里くんがいた。依里くんはいつもにこにこしていて感じの良い優しい子だが女の子にも見間違うかもしれないくらいあどけない可愛い雰囲気。
しかし、中村獅童演じる父親は酒にだらしなく、実は母親は依里を置いて出て行っており、父親は依里は豚の脳だと担任の保利先生にも言うほど息子を人間の脳にしなければなどと傷つける発言をするだけでなく、依里に激しいDVをしている。
息子は浴びた言葉を素直に信じて自分はそういうものだと思い、クラスの中ではエイリアンなどと呼ばれいじめを受けているが、笑って対応していた。
湊はそのいじめにできるだけ加担したくないと感じていた。学校の中で依里と仲良くすると、キスキスなどと囃し立てられて自分もいじめの対象になるから学校では依里に話しかけないでなどと子供ゆえの残酷すぎるお願いをしたりするが、実は下校後お互い親の帰りが遅いため、2人で仲良く遊んでいて、おそらく3.11で土砂崩れにより使われなくなったと思われる旧列車を秘密基地のようにして、「怪物だーれだ」の合言葉で人狼ゲームをしたり、列車を宇宙に飾り付けたり、2人だけの世界で将来の夢を話したり、友情を育んでいた。
湊は学校では依里へのいじめを止めるために、他の子達の防災頭巾を散らかして暴れたり、感情コントロールが効かない素振りを見せるが、優しく止めようとした保利先生の手がたまたま当たって鼻血が出ただけで、湊も誰もいじめていないし、保利先生も誰にも体罰をしていないのが実態だった。
湊の怪我は全て、依里くんを公に守りたいのにそれはできない葛藤と、なぜできないかというと依里くんに恋愛感情が芽生えている自覚があり、同性愛では子を持てないとわかるので、母親が軽く発した結婚や家庭を持つまで湊のために頑張るという言葉から、自らを幸せになれない存在と思い、悩んでいた。
学校では、母親の言葉を発端に保利先生が体罰教師として謝罪して新聞に載り辞職、校長先生その他先生は母親を刺激しないようとにかく本質よりも謝罪を繰り返す対応に走る大事態となっていたが、5年生の湊には保利先生が全てをかぶり湊の将来を思い周りの思惑通りに謝罪し仕事を失い、記者に追われ、結婚したい彼女にも逃げられている深刻さを知らない。
それでも保利先生が悪いと嘘をついてしまった罪悪感はあり、校長先生に打ち明けた。
校長先生もまた、孫を亡くした経緯を、実は校長が轢いた等と噂されて先入観のもと教師達から見られたりしていたが、幸せになれないと話す湊に答えをくれる。
「誰かにしか手に入らないものは幸せとは言わない。みんなが手にできるものが幸せ。」
抱えていることは楽器を吹いて吹き飛ばしてしまいなさいと助言してくれる。
ある日暗くなるまで秘密基地に依里といた湊には、血相を変えて母親が車で迎えに来たが、依里を心配し助けに行くべきと車から転がり落ちて怪我していた。
その後依里を心配して家に行くと、依里の父親は依里に、「祖父母のもとに好きな子がいるから転校するので今まで遊んでくれてありがとう」と玄関先で嘘をつかせるが、もう一度出てきて、「実は嘘!」と話した依里が家に引き摺り込まれお仕置きの暴行を加えられている声を耳にする。
嵐の前の日には、家では母親と窓に段ボールを貼ったり準備が進むが、依里を心配して家に行くと、依里は全身に暴力を振るわれ浴槽でぐったりとしていた。
助け出して2人で山に向かい、列車内に台風が近づくのを、生まれ変わりへの出発だ!と称して遊んでいた。
豚の脳と親に言われクラスでも虐められる依里も、植物好きなため品種改良の夢を持ちながらも、死んだら生まれ変わる輪廻転生に希望を感じていた。
父親を亡くし、母親を心配させたくないが、同性愛の悩みを抱えた湊もまた、輪廻転生に希望を感じていた。
猫の死体を学校で見つけた時も、依里から場所を教えて貰い見ていた湊を、女子は目撃して保利先生に報告しているが、その後依里と湊は猫の死体を山に運び、生まれ変われるように依里の持っていたチャッカマンで燃やして、山火事にならないように湊が水筒の水を川から運び火消していた。
チャッカマンはおそらく、依里が父親に火傷の虐待をされた時に手に入れたと思われる。
駅前の建物の火事は、父親がガールズバーに通うのをよく思わない依里が、知的判断がつかずにチャッカマンで放火した模様。
提出した将来の夢の作文を休職中に添削した保利先生が、2人の作文にある横文字、みなととよりに気が付き、過去に依里やみなとに、男らしくないなどと軽く発した言葉など全てに気がついて湊の家に台風の中謝罪に来た時、母親は怒っていたが不在の湊を探しに行くところだった。
保利先生と母親が山にたどり着くと、土砂崩れは既に起きて封鎖されていたが、無理やり中に入り列車に湊と依里がいるか探しに行く2人。
泥まみれの窓からなんとか中を覗くと、2人の姿はないが、2人の着ていたレインコートが見えた。
作中では、2人は列車の車体の下の線路の下に潜り込んで雨風を凌ぎ、生まれ変わりなんてないと湊は言いつつも、台風一過後、転生完了として2人で晴れてから山を駆け回る描写がある。
果たして湊も依里も本当に助かったのかはわからない。発達障害や同性愛の自我を受け入れて、子供達だけの世界の一瞬だけを切り取って判断するしかない先生や親が真相に気付いたとしても、依里の父親は変わらないだろうし湊の母子家庭も変わらない。
子供達は時に親に気を遣いながら、大人の言葉や環境で浴びる辛辣な言葉ひとつひとつを、大人が思うよりはるかに真剣に心に溜めて、傷付き悩んでいる。
5年生の、親とは異なる自我の尊重を求め秘密を持ったりもする月齢への接し方の親の揺れ、
親ではなく断片的に子供を見て責務に支障がないようにするのが仕事の教師、
親の言葉の影響を受けてものの見方が変わってしまう子供達、
その全てに居場所を見出せない時、子供の毎日は地獄である。
子供が話してくれる大人で居続けるためにも、先入観で話をしたり広めたりしないこと、それをよくわかっているからこそ、校長はスーパーで躾なき親が店内を走り回らせている子供の足を引っ掛け転ばせたのかもしれない。
是枝監督の、子供が大人に理路整然とは説明できないが日々感じている心情や時系列で出来事と整理すると子供が日々起こる事象に対して大人や周囲の影響を受けながら思考し判断し行動している様子の描き方がとても丁寧でリアルで好きだ。
作文のとこ
先生が作文の横文字で2人が仲が良かった事に気付いたとされるシーン。
あれ見てる側置いてけぼりで展開早すぎて意味不明でした。
観客に理解してもらうつもりならもぅ少しゆっくりのコマ回しかセリフが欲しかった。
女生徒が猫に対して先生からの再確認では知らないと言い張った所ももぅ少し分かりやすく伝えて欲しかったなぁ。
先生のセリフは猫を殺しただとかの言い回しに対して女生徒は猫をいじってただと言っただけだったので先生の言う殺した、とは言ってないと言った形だったらしい。
後はまぁラストはそれぞれ2パターンで観客の好きな方を選べばそれぞれに値する作品には仕上がってたと思う。
私は2人ともダメだったんだと解釈しましたが。
何を伝えたいかはそれぞれの視点で理解はしたけど先生ターンの時に飴を舐めたシーンは取り入れるべきだったとは思う。
既に彼女が落ち着くために飴をって伏線も張ったんだからと。
まぁそんな感じで私は生徒2人の気持ちには遠い昔すぎて感情移入も出来なかったのでイマイチな感じになりました。
誰が怪物だったのか、誰にも決められないと思う
あらすじ
郊外の町で暮らすシングルマザーの早織は、息子の湊の様子がいつもと違うことに気づく。
学校で何かあったのではと問いただすが、担任の説明と子どもの言葉は食い違い、何が真実なのか分からないまま事態はこじれていく。
親、教師、学校、それぞれの思惑が絡まり合う中で、大人には見えない子どもたちの世界が少しずつ顔を出す。
誰が「怪物」だったのかははっきりしないまま、問いだけが残される。
感想
いろんな問題が詰め込まれていて、どれも誰かにとっての正しさで、誰かにとっての苦しさだった。
親は子どもを守ろうとして、担任の先生は自分を守ろうとして、学校は学校を守ろうとしていたんだと思う。
子どもたちは、分からないまま、不安なまま、それでも最後にはお互いの気持ちをちゃんと大事にしていた気がする。
全部がはっきりとは見えないままだったけど、大人の正しさでは触れられないものが確かにあった。
誰が怪物だったのかは分からないけれど、それぞれが守りたいものの形だけは残っていて、そこにこの映画の問いがあったように思う。
片時も目を離せなかった
惜しいなあという思う作品
まず、自分は「視聴者のご想像にお任せします」的なエンドは嫌いです。
それがいいんだよと反論をくらうと思いますが。
それするんだったら、本編以外で何も語らないで欲しい。
理解できなかったところを後から、
監督やら出演者やらのインタビュー記事などで補完されて、
わかった気になってもね、と。
物事の見方は一つではないという事は当然なんですが
各人物の印象的な言動が、各エピソードを強調する為のもので、
人物像として一貫性がないというか描写が不十分ではないかと感じました。
時系列が前後する作品って、何度も見返して理解しようとしてしまいがちですが
逆にツッコミどころが増えてしまいそうなので止めておきます。
出演者の演技力や全体に流れる不穏な空気感は良かったので中盤までは楽しめたのですが
最後まで楽しめたかというと、この点数かなという印象です。
善悪は単純に判断することはできない
良い脚本で、よくできた映画だと思う。でも、プロモーションが的外れじゃない?
「怪物」とは、(映画の中の)悪者ということだろう。映画の前半では、保利先生が問題教師で、「こいつのせいで、子供がつらい想いをしている」と思わせる。そして、「ラスボスはこの校長か」と思わせる場面もある。でも、映画が進むと、その考えは修正を迫られる。
この映画で伝えたいのは、『「この人は悪い人」と簡単に決めつけてはいけない』ということかもしれないと、見終わってしばらくしてから思った。
映画だけじゃなくて、普段生活していても「あいつが悪い」と、人格を否定してしまうことがある。事件などのニュースを見ても、「犯人をきちんと罰してほしい」と思う。でも、その人に怒りをぶつける前に、ちょっと立ち止まって「実は誤解かも」「特別な事情があるかも」と考えてみた方が良いよ、ということなのでは。
映画の中に出てくる「怪物、だーれだ」という遊びは、限られた情報だけで本質をつかむのは難しいということを象徴しているように思った。映画「羅生門」とこの映画を比較する人もいるが、少し違うと思う。「羅生門」は、どの人が嘘をついているかがわからず真相は藪の中、という話だが、この映画は情報が断片的なだけで、嘘は入っていないと思う。その意味でよくできた脚本だと思う。ラストが明るく終わるのも良かった。
この映画のプロモーションには、『それは、よくある子供同士のケンカに見えた。・・・そしてある嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消した―。』『怪物探しの果てに、私たちは何を見るのか―』などとある。これを読んで「観たい」と思った人は、期待外れと思うのではないか。
この映画は、「子供のケンカ」や「子供が姿を消す」ところは見どころではないし、「怪物探し」が行われる映画でもない。プロモーションが的外れで残念に思う。
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