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マンティコアとは、人を喰らうとして恐れられる伝説の人面獣だ。そんな剣呑なタイトルの印象に反して、物語の大半は淡々と語られる。序盤で、主人公のフリアンが隣人の少年の3Dモデルを作ってよからぬ妄想をするシーンはあるが、そこでチラ見せされたヤバさが加速度的に明らかになってゆくわけでもない。ビジュアル的にエグいシーンもない。
これは、普通の人間が抱いたアンチモラルな妄想が、現実との間の障壁を破る瞬間を描いた心理スリラーなのだと思う。その壁はフリアンの場合、社会との繋がりだったのではないだろうか。
クリスチャンとの出会いの後、少年っぽさがありどこかクリスチャンに似たディアナに一目惚れするというのも、フリアンの性癖が漏れ出ている感じだが、そういった点を除けば彼は終始真面目で常識的な青年として描かれる。クリスチャンの母とのやり取りも、ディアナとの男女としての付き合い方も、映画としては退屈になるほど普通で、どこにでもいそうな善良な人間だ。クリスチャンに抱く感情は3Dモデルの世界に閉じ込め、理性でひた隠しにし、行動に移すことなどない。本作の尺の半分以上は、フリアンが基本的には観客側(の大半?)と同じ普通の人間であることを示すために費やされているような気さえする。
物語の終盤に、彼の勤務先はPCのログからクリスチャンに似せた3Dモデルを発見し、私的かつ社会的に問題のある用途に社用PCを使ったということで、フリアンからPCを没収する。その3Dモデルを見た恋人のディアナは、フリアンから離れてゆく。そういった周囲の反応はやむを得ないものだが、結果的にそれらの出来事がフリアンに与えた衝撃が、彼の内なる怪物を現実世界に解き放つ引き金になってしまう。
会社の対応結構厳しいな、と思った直後にクリスチャンの家直撃で、観客もドン引きするほどのあっけない理性崩壊。
フリアンがプラド美術館で足を止めて見入るゴヤの絵画「我が子を喰らうサトゥルヌス」は、ゴヤが晩年に一般公開を目的とせず描き、自宅「聾者の家」に飾った「黒い絵」14点のうちのひとつだ。当初サトゥルヌスは勃起した姿で描かれていたが、のちにその部分は黒く塗りつぶされたと言われている。人目を避けて表現された性的ニュアンスを帯びた絵画、そんな作品のオーラに共鳴したフリアンの欲望のタガが外れた。常識やモラルという圧力を持った社会との繋がりがなくなってしまうと、個人の理性など無力なのだろうか。
表向きは完全に普通の人だったフリアンがあっという間に堕ちてゆく最後の30分、特にクリスチャンの家でのシーンは、そこにいたるまでの淡々とした雰囲気とは対照的な緊張感に満ちている。
気を失ったクリスチャンを手にかける直前にマンティコアの姿をした自分の絵が目に入り、鏡を見たかのようにフリアンは我に返る。彼にとって、それは本当の絶望の瞬間だった。
アンチモラルな嗜好の有無は別にしても、人の理性の脆さを描く物語として見ると、少し背筋が寒くなる。
あとこれは解釈次第なのだろうが、父をかいがいしく介護したディアナが、一度はきっぱりフリアンを拒絶したあと、彼が半身不随になってから戻ってきたことにもかすかに性癖を感じた。監督いわく「彼女自身も秘密を持っている」とのこと。
キャラクターデザインの勉強のためということなのか、フリアンが「ファンタスティックプラネット」を映画館で鑑賞している場面が出てきて、思いがけず嬉しくなった。
伊藤潤二の名前が出てきたり、北海道の話題やお寿司、招き猫など、ちょいちょい監督の日本オタクぶりが垣間見えるところはチャームポイント。