正欲のレビュー・感想・評価
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その先を見せてほしい
言ってることはその通りだけど、しかしこんな初歩的なことから語って教えてあげないといけないくらい、他者が他者であることをみんな理解できないのかなと思わざるを得なかった。
最後に次のステップへのヒントでもあればよかったけど、多数派に「あんた方は間違ってる」と言って映画は終わってしまう。
たとえば、新垣結衣が徳永えりに「嫉妬してんだろ」と言われるシーン、それは「嫉妬」ですらない、とにかくあんた方多数派の「普通」が限りなく関係のない事象でしかないから、それをうるさく言われたり、当然の前提として話されたりするのが鬱陶しいってみんなわからないってこと??
まあ、そんなか。
「みんな違ってみんないい」の本当の意味をわかってる人の方が少ないですよね。
Wガッキー(言わねーよ)初共演だが・・・
2023年映画館鑑賞70作品目
11月23日(木)フォーラム仙台
会員料金1500円
原作未読
原作は『桐島、部活やめるってよ』『何者』の朝井リョウ
監督は『あゝ、荒野 前編後編』『前科者』の岸信幸
脚本は『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。』『あゝ、荒野 前編後編』『宮本から君へ』『MOTHER マザー』『とんび』『アナログ』港岳彦
期待外れ
群像劇
寺井の息子がYouTuberになる話はまだマシ
桐生中心の話と神戸中心の話が脚本として完全に破綻しているように感じた
まるで下北沢の下手な演劇を観ているかのようだった
ご立派な御託の数々も言葉が全然入ってこない
しかもマシな方だった小学生YouTuberの件も尻切れトンボ
原作は高い評価のようだがそうなると脚本家が酷いのか
どうしたの港岳彦
行き詰まってぶっとび系のクッキーやグミを食べながら脚本を書いたのか
ぶっとぶのは若い頃の宮沢りえだけでいい
多様性をテーマにしたらしいがテーマがデカすぎて消化しきれずそのまま表現してしまった吐瀉物みたいに思えてならない
多様性はいいがLGBTQと不登校YouTuberと少年愛を一緒にしてはいけない
それらを材料にごった煮を作ったら闇鍋みたいになったよう感じ
多様性がテーマなら子供からお年寄りまでなるべくわかりやすい言葉や表現でより多くの人たちに理解してもらえなければ映画を作る意味はない
2023年自分が映画館で観た作品の中では最低最悪の駄作である
テーマの良さで正当化できるものではない
新垣と磯村が着衣で正常位の真似事をするシーンがある
1500円払って自分はなにを観せられているのだろうか自問自答した
ひとりぼっちで可哀想だから声をかけたって大人同士の会話でありえるだろうか
それなら自分にも声をかけてほしいな徳永えり
声をかけるのは犬とカラスくらいだよ
配役
息子のYouTuberとしての活動に反対する地方検事の寺井啓喜に稲垣吾郎
イオンモールの寝具店で働いている桐生夏月に新垣結衣
夏月の中学時代の同級生だが3年生の時に転校し再会後結婚することになる会社員の佐々木佳道に磯村勇斗
ダンスサークルのトップダンサーの諸橋大也に佐藤寛太
男性恐怖症の大学生の神戸八重子に東野絢香
啓喜の妻の寺井由美に山田真歩
啓喜とコンビを組む事務官の越川秀己に宇野祥平
夏月と佳明の中学時代の同級生の西山修に渡辺大知
夏月の同僚で妊婦の那須沙保里に徳永えり
少年愛のため逮捕されてしまう矢田部陽平に岩瀬亮
ダンスサークルのリーダーに高見優芽に坂東希
夏月と佳道の中学時代の担任に山本浩司
小説は前に読んでいた
ガッキーがキラキラしてなくてあんな何してもかわいくなっちゃう人が愛想が悪いとあんなにも可愛くなく見えるのかとビックリ。ガッキーの努力は凄い。
内容は映画向きではなかったかな。
活字の方が伝わってくるものあったかも。
毒にも薬にも成らない正論映画。
いろいろ自分と重なる
人生なんか生き辛えなって思ったことがある人は共感できるけど、人生それなりにハッピーに生きてきた人には合わんかも。
世の中はその人にとっては普通でも誰かにとっては普通ではない。それでも世の中には一般的といわれている感覚や習慣、概念などいろいろあると思う。
世の中の所謂「普通」ではないと感じている人が一番その「普通」を理解して縛られながら他人と比較して生きていると思う。「普通」になれるのならそう生きていきたいと思っている。
この物語では自分が「普通」でないことを理解し、生き辛さを感じながらもそれを共有できる仲間に出会えている。そこがとても羨ましく感じた。
私は今まで男の人も女の人も恋愛的な意味で好きになったことがない。友人以上の関係を求めたいと思ったことがなく、ずっと友人でいたいと思っていた。でも世の中は当たり前に誰かを好きになって結婚して子供を産んで、それが「普通」の人生の歩み方なんだと思う。これからの未来を考えると自分が孤独になり、取り残されていくような感覚になるのかなと思う。映画のように自分の思いを共感して理解してくれる人と出会えたらいいな。
タイトルなし(ネタバレ)
ふつうって何だろう?
自分が懐妊して一方的に幸せアピールして、不躾に恋人がいるか聞いて独り身なことを「かわいそうな人」って言うことは「ふつう」?
同級生が結婚してクラス全員に声かけて、全員揃うことが大事だよね!って身元探し回って、みんなでよろこびあって、また独り身に恋人をあてがおうとしたり同性愛者かと聞くことが冗談だと思ってることが「ふつう」?
大多数が感じること選ぶことに何も違和感なく乗っかれる人間は、とても生きやすいだろうと思う
いろんなことに違和感を感じて、共感できないだけで仲間外れみたいな気持ちになるのはなぜだろう
正常位のポーズをマネするシーン、みんながふつうにやってる姿がいかに滑稽かが伝わって、本当にね、みんな変態だよね
だけど、性的嗜好が人とは違っても、ひとりは寂しいと思うし、誰かといると安心するんだよ
(もちろんひとりで平気な人だっているけど)
ひとりでいる寂しさと、誰かを想う気持ちと、誰かと繋がる安心感に涙がでた
初めはマイノリティでも性的対象は人間なのかと思ってた
それすらも無意識の偏見なのかもしれない
世の中にはいろんな人がいて、たまたま自分が大多数とされる性的嗜好を持って生まれただけで、どうなるかは選べないし、もし自分がそうだった時、それだけで人間として破綻してるとか、そんなことないのに
誰かを「変態」だと言って笑える側に生まれてきてよかったね
それをしても咎められない世界に生きててよかったね
たまたまそうじゃないだけなのにね
誰かのことを理解しようなんておこがましい
理解できるわけないんだから、わからないからって「いるわけない」なんて言っちゃだめだ
とても皮肉がきいてるのは、マイノリティでふつうじゃないとされる2人が「いなくならない」と繋がっていて、マジョリティである夫婦がお互いを理解しあえず離れようとしていること
そういうこと実際たくさんある
正しさとは、ふつうとは何だろう
「普通」を自認する人と、それ以外の人たちの居場所をめぐる争い
「普通」には幅があります。その幅をどこまで許容するか考える作品です。
稲垣吾郎演じる検事は、「普通」を自認し、身の回りの人にも「普通」を強要します。でも、その「普通」は相当幅が狭く、創造性や想像力を感じません。こんな「普通」がはびこったら、多様性がなくてつまらない社会になるでしょうね。
一方、稲垣吾郎以外の主たる登場人物は「普通」じゃないとされる人なので、「普通」を求められる社会での生きにくさ感じています。生きにくさに対抗するために、同じ「普通じゃなさ」を持つ人同士で連帯して、人生に明るさを作ろうとします。
新垣結衣や磯村勇斗は水を性癖とする設定でしたが、これはありとあらゆる個性や性癖、趣味、趣向を当てはめて考えを巡らせるというのが観客に求められているんでしょう。
世の中色々な個性や性癖、趣味、趣向があるので、「普通」の幅はけっこうあるはずなんですが、創造性や想像力が無い人はそうした幅が分からず、自分の基準のみを「普通」だと考えてしまい、結果として他人に対して手前勝手な「普通」を強要することになるという警鐘を鳴らす内容だと思いました。
児童をターゲットにする性癖の持ち主が逮捕されるシーンがありましたが、これは性癖を理由に逮捕されたのではなく、子供に対して危害を加えたり、人権を侵害したから逮捕されたのです。しかし、それにしても現行法では罰が軽すぎます。
最後、「普通」を自認する検事稲垣吾郎が家族に見放されたことを聞いた水フェチ新垣結衣は、逮捕状態にある同じく水フェチの磯村勇斗への「いなくならない」というメッセージを「普通」のこととして伝達を依頼します。
家族にいなくなられそうになっている検事に、お前は「普通」ではないと暗に伝えてイジワルしたわけです。
スカッとしました(もちろん水フェチ新垣結衣は、家族に見放されるのも「普通」の幅の中の話だと思っているとは思いますが、あくまでも検事稲垣吾郎に対する嫌みとして)。
いわゆる男女の結婚だけでなく、生きにくさに抗うためのパートナーというのもアリだよなだと感じられました。
自分は何者か
正しさとは。
2022.01.08に原作を読了。原作の感想は「読み進めるにつれ、加速度的に他者と他者が繋がっていく群像劇。マジョリティに属さない、彼岸にいる、目立たぬよう、日々の生活を紡いでいる人々。多様性の受容が謳われる昨今、それでも受け入れられない選択肢がやはり存在するのは皆が気付いている。陽の当たるところ、当てても大丈夫なところだけにスポットが当たり、ヌメッとした得体の知れない何かは、多くの者に見えないまま。私自身も仕事はしているが、彼岸に生きていることを自覚しているので、かなり胸締め付けられた。」というものだった。
映像となった「正欲」を拝見し、普通を語る者の無自覚さ、能天気さに絶望的な気持ちになる。と同時に、なんやかやで日常生活を営めている私も、所謂普通さの何割かは有しており、無自覚に世間の常識を振りかざし、無意識に他者を傷つけているかもしれない。いや、おそらくそうだろう。
「普通」「常識」という言葉で一般化して理解しようとすること全てが悪いとは思わないものの、そのことに自覚的であるべきだな。そんなことを思う。
そして、一人じゃないって尊いし、大事なことだな。一人でも理解してくれる人、パートナーさえいればどれだけ心強いか。「いなくならないから」と言ってくれる人が、私も含めた全ての人の傍らにありますように。
あと、演出だとは思うのだけれど、検事がカチャカチャとスプーンで音を立てながらオムライスを食べる様がかなり気になった。
あなたにここにいてほしい
恋愛映画
原作は見ていません
緩急のない落ち着いた恋愛映画のように感じた。多くの人が持っている他者に理解してほしい気持ち。お互いに理解しあう形で、共に過ごす行為は恋愛のように思えた。
恋愛映画として考えた時、もっと緩急が欲しいと感じた。なぜ、緩急が欲しいと感じたのか?疑問に思った。多分、私の恋愛の緩急は性欲が要因だと思う。そしてそれを当たり前に求めていた。それがない恋愛であったら緩急もないのだろうと思った。
ストーリーは、最期の場面で気になる部分があった。映画だと当たり前であるが、現実的に繋げて考えると難しい場面だと思う。物語としては良いものであった。また、繋げることは出来なくない。その部分を丁寧に描いて欲しかった。
映画としては、水の音の表現は素晴らしいし、映像的にも素晴らしかった。何かしらを考えさせる内容はその手の気持ち良さを感じた。総じて面白い映画であった。
是非多くの人に見られる映画になってほしい。
思想のように
ぼくは小さな頃、碁石で遊ぶのが好きだった。
その碁石で囲碁をする訳では無かった。
碁石を並べ、人に見立てて、キャラクターとして動かして遊んだ。
母がぼくに言ったのは、「安上がりな遊びを見つけてくれてよかったわ…」ということだった。
ぼくは、ぼくの世界にとても満足していた。
という訳で、若干でも〝石遊びフェチ〟であったのかもしれない。…。
「正欲」は、変わったフェチズム、〝水フェチ〟の人々が、社会に受け入れられない自分たちの生き辛さを思いながら、繋がりを求める物語だ。
そしてその人々と関わる人々の話である。
ぼくは、劇中の人々が、どうして生き辛いのだろう、と、とても思った。
というのは、〝水フェチ〟ってとても安上がりじゃないの?という思いだ。
それはぼくの母が、石遊びに熱中しているぼくを見て言った言葉のその気持ちと、ほぼ同じであるように感じる。
ぼくには、その〝水フェチ〟さえも、作品作りにおける道具のひとつのように感じた。
屁理屈をもって理屈を語らないで欲しい。
〝水フェチ〟ならば、ふたりのベッドシーンも水を介するべきではと思う。
そうでなければ、じゃあ、あのふたりのとてもいい思い出として映っているのは、公園で水と戯れていること、そのシーンのみになる…。
まあ、それでいいのかもしれないけれど、観客としては物足りない気もしてしまう。
というのは、そのあえてしてみたかった〝普通〟の方が、劇中としても、変わったフェチズムより良いものに見えてしまっており、扱われていた多様性というテーマについての説得力が弱くなってしまう感じをもった。
そういう意味でも、見ていて、何だかなあ、と思ったけれども、多様性とは、というメッセージと、Vaundyの「呼吸のように」はとても心に残る曲だったと思う。
こうして思うと、いつしか、ぼくは〝石遊び〟をやめてしまっている。
それは〝その程度のもの〟であったのかもしれない。
しかし、それを本当に、逃れられないかのように、行い続けていたらどうだったのだろう。どうなるのだろう。
それでも他者への繋がりを求めるのだろうか。
ぼくは他者への繋がりの為に、いつの間にか〝それ〟も、放棄してしまったのかもしれない。
そう思うと、〝水が好き〟というもので人との繋がりを持とうとすることは、とてつもないことにも感じる。
それは最早、性癖というよりも思想のように、ぼくは思うんだけど。
惜しい、今年公開じゃなければ。
新垣結衣を中心に、「普通」ではない感情をもった人間たちが描かれる。
名前のない欲望を持つ彼らは、それを共有するコミュニティの形成すら困難になってしまう。だからこそ、誰よりも一人でいることに恐怖する。誰かと居られることに安堵する。
欲望を共有できる喜びを、映像を通して観客に訴えかけてくるようだった。
ただ、いくつかの描写の甘さはある。まず劇中ではYouTubeだとかYouTuberだとかの単語が頻出するものの、実際のページで表記されているのはnowtubeなので一々違和感がある点。加えて、群像劇の割にはいまいち展開の起伏がないという点。あと、ちょっと新垣結衣は可愛すぎて、一人ぼっちの役には合ってないんじゃないか、という点である。
そして、この映画最大の問題点は同年に「怪物」という名作が公開されている事だ。
常識・既成概念で差別する「普通の人々」
原作を読んでないからあくまでも映画からの印象ですが。
ガッキーと磯村勇斗くんの「水フェチ」は、ある種の性的マイノリティであり、と同時に誰にも理解されない孤独に悩む人間。
彼らが、自分を理解してくれる人と共にいたいという感覚を表現したものとして、『流浪の月』に近い内容でありました。
ただ、『流浪~』と違うのは、主人公が被害者・容疑者側(ガッキーたち)ではなく、吾郎ちゃん演じる検事の寺井なんですよね(クレジットの順番的に)。
この検事を通して、常識・既成概念と言われる一般性にがんじがらめになっていることに自覚がなく、自分の考えと違うもの全てを「嘘」「まやかし」と切り捨て、理解しようとしない、「普通」の人間を描くことが主眼なのかと。
「普通」って実は、最も他人を理解しようとしない概念と思考法ではないか?
「他人の自分との違いを知ろうともしない」態度を、「常識」「普通」「良識」だとするなら、家族という一番近い存在すら理解できず、失うことになる。
この「普通」の残酷さ、無能さ、許容力の無さにより、世の中の不幸を招いているのではないかという提示をしているように思えました。
さらに踏み込んで、(ベストセラーとして話題になったときに目に入った書評で触れていた)容疑段階で佳道(磯村勇斗)を関係のないネットやマスコミが叩く、検事側に立った「正義の娯楽」をする人の悪意までを描くかといえば、それはなく。
たぶん、俳優陣からいって、マイルドな表現にしつつ、その「人の愚かさ」を一人に託したのかなと。
結果……
映画賞狙いっぽくて、エンタメからは遠い感じの"文芸作品"臭が強かった印象。
海外、特にフランスとかには受けそう。
付け加えると、不機嫌で無愛想なキャラなので、起用した意味がないだろう、どうなるんだろうかと思いきや、後半で横浜に移ってからはもうガッキーの美しさ全開。
その点は安心して観にいってもらえればと。
多様性と性欲と正しさと
まず原作は未読です。
多様性が叫ばれるなか、マイノリティが如何に「普通」という概念と向き合う息苦しさを描いた……最近はなどと書かれるのでしょう。
しかし、この物語の登場人物たちは「普通」に適応しているように見せて暮らしている『MIB』の「宇宙人」のように描かれます。
その戦わなければいけない「普通」は年齢の普通、地方都市の普通、学校の普通、職場の普通など様々な「普通」が壁となり立ち塞がる。
その対局として徹底的に社会常識と「普通」の守護者として稲垣吾郎演じる寺井。
『MIB』で行ったらエージェント側。
しかし、信じる普通を突き進むあまり破滅に向かう家庭。
仮初めの夫を同好の士として信じて待つといった新垣結衣演じる夏月。
「あなたはどっちが幸せに見える?」と喉元に刃物を突き付けられた様な作品でした。
個人的にはR-18にしてもっと全てをエロティックに描いても良かった気がします。
興行を考えると全年齢をにしなければなかったのでしょうし、俳優陣がR-18では無理だったでしょう。
ただもっと突っ込んで深く登場人物たちを絵描けたと感じました。
久々の邦画でしたが、個人的には好きなテイストでした。
またヨーロッパ受けしそうだなぁ……などと思いながら、観終わった後、喉に魚の小骨が引っ掛かったような気分のまま帰路につきました。
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