イニシェリン島の精霊のレビュー・感想・評価
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ロバのつぶらな瞳
何とも不可思議な物語だ。思い出されるのは、血が滴る指、自然豊かな島の風景、吉兆•凶兆定かでない、天上から広がる光。そして何より、動物たちのつぶらな瞳が忘れがたい。美しさにおぞましさ、滑稽さ、悲愴感が無いまぜになった114分だった。
ある日突然パードリックは、旧来の友・コルムから絶交を言い渡される。何が何だか分からず戸惑うパードリック。コルムが他の村人たちと楽しげに過ごしている姿を見ると、居ても立っても居られない。しかし、コルムは頑なな態度を崩さず、無理に話し掛けるならば、会話するごとに自分の指を一本ずつ切り落とすと宣言する。
きっかけも、その後の展開も、コルムの身勝手のはず。とはいえ、彼がそのような行動に至るには、何か原因があるのではとパードリックは悩み、焦る。何とか修復を試みたものの、別の生き方をしたい(そこにパードリックはいない)と告げられ、彼は身も心も粟立つ。
パードリックは、別のやり方、別の生き方の術を持っていない。毎日決まったように家畜たちの世話をし、午後になったらパブで酒を飲む。それで満たされていたはずが、友の離脱で歯車が狂い始めてしまう。
習慣を守り日々を重ねるのは、単調ながら平和で、穏やかだ。一方、そこから踏み出すのは難しい。自他を傷つけ、周りの心もかき乱す。こんな季節だからかもしれないが、卒入学、就職に転勤と、半ば外因から人生が動くのは、変化を求めながらも踏み出せない、人の性が少なからず影響しているのかも、とふと思った。
おどろおどろしさが加速する人間たちのやり取りの一方で、変わらず自然は雄大で、音楽は美しく、心に沁みる。さらに印象的なのは、パードリックの飼う羊や牛、そしてロバたちだ。特にロバのジェニーは彼にとって家族同然たが、妹には「家には入れないで!」と戒められる。
動物の潤んだ黒目は、深みがある。人間たちの争いを達観しているようでもあり、呆れているようでもある。(もしかすると、人間には特段の興味さえ抱いていないかもしれない。)友と妹を失ったパードリックは、ことさらにジェニーを可愛がり、昼夜共に過ごすようになる。けれども、所詮はロバと人。彼らには越えられない壁がある。触れ合っても会話はできず、やり取りは一方通行で、距離は縮まらない。その瞳から何かを見出せるのは、受け手であるパードリック自身なのだ。
砲弾の音が響けば、本島の内戦で屍は増える。そして、島でも喪失が増殖していく。幾つもの死を乗り越え、パードリック、そしてジェニーの瞳には、一体何が映ったのだろう。
コリン・ファレルは眉毛で語る
アラン諸島は、地の果てという言葉がぴったりくる場所だ。石灰質の岩盤で土がほとんどない。貴重な土が強風に飛ばされないよう、あのような低い石垣を延々と築いている。そこで生きていくことの大変さや、ろくな娯楽もない集落の閉塞感が容易に想像できる。
いろいろヤバい警官、退屈を持て余して人の手紙まで開封する雑貨屋店主、「地獄に堕ちろ」と叫んでしまう神父……濃すぎる住人たちが田舎の集落の息苦しさを倍加させる。
そんな場所で、生きた証を何も残さず死んでゆくことに、壮年のコルムはにわかに危機感を覚えたのかもしれない。
ここまでは、共感の余地があるドラマだ。
ところが、彼がパードリックの家に指を投げつけた瞬間から、俄然サイコホラー味が増してくる。約束を破られたからといって自分の指を切っても、困るのはフィドル奏者のコルム自身だ。不条理な行動の恐怖。
また、本土での内戦を遠景に架空の島イニシェリン島で起こる二人の男の諍いは、争いがこじれる理由を示す寓話のようにも見える。
最初は単なる意見の違いでも、伝え方を間違えたり意固地になったり、手違いで相手の大事なものを傷つけたりすると、それは果てなき怨恨へと変わってゆく。感情がそのように変質すると、決着のため始めたはずの争いが復讐に変わる。
万華鏡のようにさまざまな角度の見どころを持った作品だ。
アイルランドの風景の荒涼とした美しさが目に心地よく、ユーモアと皮肉の込められた台詞が楽しい。田舎の人間関係は息苦しいが万国共通のものを感じて退屈しない。物語がだんだん重くなる中、かわいい動物たちが癒しをもたらしてこちらの心を支えてくれる。
そして、何と言ってもコリン・ファレルとブレンダン・グリーソンの表情が素晴らしい。コルムの静かな狂気とパードリックが見舞われる不安、孤独。コリンの眉毛の表現力よ。二人の仲がこじれるほどに、ただのいい奴だったパードリックが歪んでゆく。その流れの自然さ、リアリティがすごかった。
ちなみに、とても愛らしく物語のキーパーソンならぬキーアニマルにもなったロバのジェニーは、動物プロダクションの社員かと思いきや、輸送などの都合で現地調達したキャストだそうだ。なかなかの演技達者だったのでびっくり。
オッサンの痴話喧嘩が教えてくれるもの。
オッサン同士のかなりシュールな痴話喧嘩を通じて浮かび上がるのは、個人と個人のすれ違いだけじゃない。ひとつの社会の中で起きる分断、それぞれが常識だと思っていたものの相違とぶつかり合い、そしてこじれ始めると留まることのない社会不和。騒動の当事者であるパードリックとコルムは、知性に欠けた愚か者と、どこかで相手を見下している教養人として登場するが、それもパードリックの妹シボーンによって、所詮は五十歩百歩だと暴かれてしまう。果たして本物の知識や教養があれば、バカげた諍いは避けられたのか。変化を求めない島の住民たちは、緩やかに滅んでいくのを待つだけなのか。明るい未来を求めるなら、シボーンのように、故郷を捨てて新天地を目指すしかないのか。経済的にも世相としても停滞感が色濃い現在の日本と、いかに似ていることかと悄然とした。そしてこういう複雑でヘビーなテーマをコメディの枠で作ってしまえるマクナドーの知性とユーモアには今後も注目していきたい。
人間の諍いの愚かしさを突き詰め、神話の域にまで昇華
マーティン・マクドナー監督は、「セブン・サイコパス」や「スリー・ビルボード」など米国を舞台にした大作も撮ってきたので、その出自を気にかけない観客も多いのではと思うが、実は英国とアイルランドの二重国籍を持つという、メジャーな劇作家・映画監督の中ではかなり希少な存在だ。映画に進出する前はアイルランドのアラン諸島を舞台にした戯曲「アラン諸島三部作」(「イニシェリン島の精霊」の原型になった「イニシィア島のバンシー」を含む)を手がけており、自身のアイデンティティに関わるアイルランドについて並々ならぬ思いを抱いてきたことがうかがわれる。
本作の時代設定は1923年で、舞台となる架空のイニシェリン島から海の向こうに望むアイルランド本島ではまさに内戦が進行しており、大砲や銃の音が島に伝わってくる。昨日まで仲の良かった隣人同士、さらには親兄弟までもが、信仰や思想、主義主張の違いから仲たがいし、さらには殺傷し合う内戦の愚かしさと悲劇が、主人公パードリック(コリン・ファレル)と長年の友人コルム(ブレンダン・グリーソン)の関係に投影されている。
絶縁を宣言したコルムの異様なまでの頑なさ。それを受け入れられないパードリックの鈍感さは、彼が飼うロバのように哀れを誘う。傍(はた)から見れば愚かしい諍いが坂道を転がるように悲劇の谷へ向かっていくさまは、コルムがとる人間離れした行動や厳しくも美しい島の景観と相まって、神話のような聖性さえ帯びている。
「スリー・ビルボード」に比べるとゆったりした進行で派手な展開も少なく、やや地味に映るかもしれないが、重厚な見応えと、鑑賞後も人の諍いについて考えさせるようなインパクトの点では、決して引けを取らない。
喉越しがざらざらとする寓話的世界。その真意は?
ある日突然、親友と思っていた相手から「もうお前とは付き合わない」と言われたら、どうする?さらに、「自分に残されたわずかな時間を無駄にしたくない」とトドメを刺されたら!?
舞台は1923年。アイルランドにある架空の孤島、イニシェリン。人々はパブで飲むこと以外に取り立てて楽しみがない日々を過ごしていて、2人の男たちの仲違いは一気に周囲を巻き込んでいく。喧嘩の理由はこの閉塞感なのか、それとも、わざと突き放して相手を試しているのか。物語は方向性を教えないまま強烈な幕切れへと突き進んでいく。
その過程で、徐々に輪郭が見えてくる。諍いが見るも無惨にエスカレートしていく対岸の本島では、同じ民族同士が内戦を戦っている。親しいだけに際限がない男たちの喧嘩は、アイルランド内戦の比喩なのだと。
同じく狭いコミュニティで起きる争いを描いた前作『スリー・ビルボード』に比べると、マーティン・マクドナーの最新作はやや寓話的、戯曲的に過ぎて飲み込み辛い欠点はある。しかし、コリン・ファレル以下、魅力的な俳優たちが織りなす演技的アンサンブルや、ロケ地であるアラン島でのロケーションが、文句なしに映画的醍醐味を味合わせてくれる。何よりも、このざらざらとした喉越しは強烈で、飲み込むとファレルのように眉毛が八の字になるのだ。
「スリー・ビルボード」のマーティン・マクドナー監督作というのが重要だと思う作品。賛否は分かれそうな会話劇。
本作は第95回アカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演男優賞(コリン・ファレル)、助演男優賞(ブレンダン・グリーソンとバリー・コーガン)、助演女優賞(ケリー・コンドン)などで8部門9ノミネートという注目作となっています。
個人的には、【「スリー・ビルボード」のマーティン・マクドナー監督による作品】という点が重要なのだと捉えています。
前作の「スリー・ビルボード」もアカデミー賞を席捲した会話劇。こちらは個人的にはとても好きな作品で非常に良く出来ていたと思っています。
大枠の作風は2本とも似た雰囲気を持っています。
ただ、「物語の必然性」という点において、この2作品には大きな違いがあると考えています。
「スリー・ビルボード」の際には「物語の必然性」があり、「この先はどうなっていくのだろうか」というワクワク感のようなものが終始ありました。
一方の本作では、個人的には「物語の必然性」をあまり感じられず、いろんなものが唐突過ぎて、「どうしてこういう展開になるのだろうか?」という不思議さの残る会話劇でした。
ただ、その「物語の必然性」をそれほど重視しないで「そういう流れなのか」と割り切って見ていけば、コリン・ファレルなどの演技も上手く会話劇として集中力は途切れず作品に入り込んでいけます。
「人の死を予告するというアイルランドの精霊・バンシー」をモチーフにしている点がやや分かりにくく、「スリー・ビルボード」のような風格はあるものの「物語の面白さ」という点では割と賛否が分かれそうな作品だと思います。
見事な芸術作品
単純な話だ
退屈な日常に嫌気がさした隣人が日常を変えるために友達をやめた事で起きる人間関係の諍い
やることが少しだけ過激ではあるが、今どきの映画やドラマではもっと過激だったりする
田舎町にありがちな日常の、単純で少しだけ過激な諍いを、こんなにも芸術的で見事なスリラー映画に昇華させる監督の凄技に感服する
手を変え品を変え、意表を狙い、大きな音やその他の小細工で演出されるスリラー作品が多い中、小手先に頼らなず美しい映像と「イニシェリン島の精霊」の曲が作品を更に芸術的な上質スリラーに仕上げている
普通の田舎の良い人間だったはずの主人公が、毎日飲んでいた親友がいなくなる事でじりじりと変化していく様が本当にお見事です
退屈で平和な日常を取り戻すために、人間の持つだろう狂気が滲み出て、丸裸にされた主人公の悲しみと狂気
争う事の愚かさもひっくるめ、閉塞的な田舎町でのささいな事件でこんなにも精神的やられるとは思いませんでした
流石のアカデミーノミニー映画ですな
終始重く嫌な気分で二度と観たくないけどね
終始全編ト-ンが暗く、パンチがスゲ-弱い感じ、何でこんなのノミネ-トかと思う。
雪が降ったり止んだり。
映画終わって劇場出たら 外の世界が真っ白だったら
やだな~と思いながらも 今日も劇場へ。
今日は「イニシェリン島の精霊」ですね。
※初日に観に行ってたけど 遅れてコメントです。(^_^;)
真っ先に感想言うと、何でこんな作品がノミネ-トの思い。
(他にも良い作品一杯あるやろと感じるけども)
オィオィまた意識高い系の奴らの仕業かいな~と思うわ。
資金回収がままならないのを見越して
先手で関係者に手を打ったんではと勘ぐってしまう・・・なぁ。
(闇パワ-な仕掛けを感じるぞ)
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追記:
イニシェリン島の精霊:THE BANSHEES OF INISHERIN(原題)
イニシェリン島:架空の島とのこと。
BANSHEES:精霊ではなく 妖精が正解らしい。
監督マーティン・マクドナー:映画より舞台演劇がメインで
アイルランド出身で活躍。
THE BANSHEES OF INISHERINの元となる 舞台劇作は、
本国では人気が全く無かった出し物。
それがこの映画ベースになっている様です。
アイルランドの内戦当時、離れた孤島内でも本島と同様に
小競り合いがあった事を表現しているのだという事。
背景は昨日まで親友であった者同士が、内戦により
引き裂かれて対立していくことを表しているそうです。
価値観、思考違いを根拠に 急によそ者扱い、疎外感を創って
この内戦に乗じていく話(意味不明的に)がベースなのでしょう。
問題は、こういった説明や、背景を一切映画内に示していないことが
問題と思います。
事細かに説明しない事が 新しい芸術性??とか
勘違いして評価しているのが事の発端かもしれません。
解り切っているだろうと解釈なく制作してしまって
結局、映画関係者等が事細かく説明しに
各SNS通じて投稿しているのが現状でしょう。
結局そのやってる行為自体を この映画内に求めないと
誰からも評価されないと感じますが。いかかですかね。
最近思う この人変わってしまったなぁ~と思える人
ウラジーミル・プーチン氏 でしょうか。
彼を指して揶揄してるとしたら それは面白いかもですね。
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MC:
パードリック(兄):コリン・ファレルさん
シボーン(妹):ケリー・コンドンさん
コルム(友人):ブレンダン・グリーソンさん
ドミニク(隣人、のろま):バリー・コーガンさん
久しぶりにコリンを観たな。相変わらず元気そうで良い演技を
感じました。
話筋----
1923年頃、アイルランドの小さな孤島・イニシェリン島が舞台。
パードリックはある日、親友と思っていた音楽家のコルムから
突然避けられて 絶縁を告げられる。
長年の友だと信じていたが、何故彼が突然そんなことを
言い出したのか理解出来ないパードリックだった。
なんとか取り入れられ様とするがコルムから一方的に
「これ以上自分に無駄話をして関わってきたらオレは
自分の指を1本づつ切り落とす」と怖い脅しの宣言を
されてしまう。それは 意味不明なヤツ同士のけんかの
始まりだった~。
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まあ、あれだね、この作品は観ても観なくても
自分の人生に何のプラスにも成らない内容でしたね。
島に警官がいて(ドミニクの父) 虐げられたドミニクを
かばって一晩 主が泊めたら
息子を帰せと 何故か理不尽に暴力的に殴られたところが、
何でヤネン・・・の思いはしたかな。
観てても ハリが無く全編暗いわぁ。
田舎の海辺で景色は良さそうなのだが、
いかんぜん天気悪ぅぅぅぅぅぅい。
どんよりし過ぎ。
それが この映画を物語っている。
急にオレに近づくな~話かけるな~ みたいなヤツ
居るかもだけど、話しかけたら自らの指を切り落として
相手の家のドアに投げる~
そんな事する どアホは普通いねぇよ。
そんな奇行シ-ンで ノミネ-トしたんじゃ無いだろうね~
家を出て行くシボーン。
店のおばはんも異常者的で、 手紙読む?勝手に?
怖すぎな島の住人で、誰でも引っ越しするよね
本島の方へね。
隣人や住人と 心通って暮らしていたかと思えば
突然180度変わって 避けられる この展開。
本描いた人の体験が元の様に感じますね。
昨今、スマホ携帯ばっかりで 会話がメッキリ減ると
こんな友人関係になるんかな。
最後は、指食べた主の飼ってたロバが死んで
怒り心頭で絶交友人宅を事前宣言し放火。
(なんやそりゃ(=_=))
犬は出しとけって言ってたから 逃げてて、
本人は中に居たけど、最終的に海辺に居て助かってて
友人宅は 全焼!
そして 微妙に仲直り ・・・なんだろうか~この展開。
”疑心暗鬼” その言葉そのまま的な内容でした。
もうちょっと脚本をしっかりさせて欲しい願いかな。
お金と時間ある方は
劇場にどうぞ!
忘れないように
譲らないとか、
許さないとか、
変わらないとか、
なんかよく分からない価値観決めて生きるの馬鹿みたい。
そうゆうこと忘れないようにしようと思った。
死神が見てる
これは反面教師にしなきゃ。
犬とロバの迫真の演技
静かな映画やなあ。大自然が美しい。
内容としてはこれは解説を読みたい。ドミニク一番気の毒。島の中で一番性格がよかったでしょう。
それにしてもなぜあそこまでしなければいけなかったのか…宗教的ななにかなのか?よく分からなかった。指痛すぎるし、ジェニーがかわいそすぎて…
家を燃やす時の犬とロバの演技すごかったなあ。え!そんなことしたらあかんのちゃうん!?っていう顔をしてるのがなんとも。
いさかい
教会(=宗教)は現在でも続くいさかいの種で有り、度々映る十字架はいさかいから聖人を張り付けにし、島の向こうの本土では大きないさかいの真っ只中。
そして島では小さいが終わる事の無いいさかいが発生。
いさかいはその大きさにかかわらず、発生の理由は極めて些細な事なのである…
ちなみに、"ロバ"は海外で"うすのろで間抜け"と例えるそうな。
コリンファレル最高やな
アイルランドの小島での話。主人公は突然友達と思ってた男から「お前の話はつまらん、残りの人生充実させるため、お前と絶交」と言われストーリーは天海していく。
映画はずっとクスクス笑え、かなり馬鹿げて面白い。仲違いから始まる映画は最終的に大事な親友までも失う。
賛否分れるだろうが、キャストの演技が素晴らしい。特にコリンファレル馬鹿に徹し、眉毛も強調しダメさ加減画面一杯にあふれだす。バリーコーガン役所短いながら記憶に残る演技でした。
典型的な「Not for me」な映画
評価がやたら高かったので観てみたが・・・
アイルランドの辺境の島で繰り広げられるいい年したおっさんと爺さんの些細な諍いごとがやがて狂気を帯びて・・・というのはわかるが、自分にはハマらなかったな。
撮影の美しさとバリー・コーガンの演技が印象的だった。
破局から始まる、深淵なる愛の物語
上映が終わって、なんだか涙が止まらなかった。多分劇場で泣いているのは私ぐらいだったと思う。
自分でも、なんでこんなに涙が止まらないのか、悲しいのか、嬉しいのか、辛いのか、泣いている理由さえわからないまま、ただ猛烈に心が揺さぶられていることだけは確かだった。
BGMのように、本土で繰り広げられるアイルランド内戦は、この映画の表層的なストーリーが戦争の暗喩であることを明確に訴える。
絶縁宣言という宣戦布告をきっかけに、手を打つ場所を探りながらも互いの感情が擦りあわず、泥沼の諍いに突入していく様は当に内戦だ。
元々友達だったから、尚更タチが悪い。
「昔は単純だった。敵と言えばイギリス人だったから」と警官は言うが、コルムとパードリックの訣別も同様である。
敵でもあり同胞でもある。相手の大切なものは自分にとっても大切で、相手が傷つけば自分も傷つき、どんどん取り返しがつかなくなっていく。
パードリックにとにかく黙っていて欲しいんだ、というコルムの主張を聞いて、パードリックの妹・シボーンは「イニシェリン島に無口な男を量産する気なの?!」と突っ込むが、ある意味それは当たっている。
中身のない与太話と下世話な世間話、退屈な会話しかないイニシェリン島に文化をもたらす。
音楽を愛し、考えることを愛し、思想について語り合う。その為に本土から来た音大生とパブで生演奏を行い、その為に一番の親友を絶縁するところから始めたのだ。気が良くて優しいだけの、馬の糞の話を2時間平気で続ける男だから。
これはコルムの革命で、コルムの独立戦争なのである。
パードリックが「優しくすること」の価値を猛烈に主張し、コルムの態度を批判し、「モーツァルトなんて俺は知らねぇ!」と啖呵を切ったとき、初めてイニシェリン島に信念を競う議論が生まれた。互いの信ずる道標を賭けて主張をぶつけ合った。
はっきり言って主張の論拠はメチャメチャだったが、「今までで一番面白かった」とコルムが認めるほど、対等な意見のぶつかり合いが萌した瞬間だったが、それはほんの一瞬垣間見えた奇跡だった。
根本的な土壌のないこの島で、議論は萌芽しても育たない。
舞台は1923年、「自分らしく生きること」より社会通念や世間の「そういうもんだから」の方が強い時代。
無口で愛想がなく、世間話をしないコルム。いい歳で結婚していない女のシボーン。島の中で浮いている2人のうち、コルムは己の生き方を貫くために革命という戦争を選び、シボーンは本土へと「亡命」した。
戦争(おっさん2人の絶縁)の中で、パードリックに失望しシボーンを失い、失意の中でドミニクは若い人生の幕を閉じた。
息子を失って初めて、警官は人の死は娯楽として消費されるような軽いものではないと知った。
コルムは音楽という文化を失い、家を焼かれ、パードリックはかけがえのない家族を失った。
革命から始まった内戦の後、休戦の海辺にコルムのハミング、イニシェリン島の精霊のメロディが流れる。
死を予告する精霊だけが、この戦争の意味を知っているかのように。
アイルランド内戦のメタファーとしてのストーリーはこんな感じだ。
一方で、「イニシェリン島の精霊」は破局の物語だと、監督マーティン・マクドナーは語っている。これが裏に隠されたこの映画のテーマだ。破局は愛のない場所には生まれない。
愛しているからこそ、愛だけではどうにもならなくなった時に、破局は訪れる。この破局の物語を理解するためには、コルムを理解することが必要なのだ。
コルム曰く、パードリックと絶縁する理由は「ヤツのくだらないお喋りに時間を取られて、人生を浪費したくないから」だ。
コルムは自分の芸術性を、思考の時間を、共に分かち合うことを求めている。それは即ち「自分を理解して欲しい」という欲求だ。
対して、パードリックが求めるのは「ただ側にいて優しく接して欲しい」という欲求である。
「悲しい時はロバを家に入れるんだ」と、ジェニー(ロバ)に寄り添われながらパードリックは言い訳する。言葉なんて、意思なんて通じる必要を求めていないのだ。
長年の友人でありながら、コルムとパードリックは求めるものが全く違う。コルムは大勢の人に囲まれていても、誰も自分を理解してくれないなら孤独を感じる。パードリックは例え動物でも側に居てさえくれれば孤独を感じなくて済む。
親友として、ずっと一緒に過ごしてきたからこそ、大切な人であるからこそ、その存在が自分の孤独を深めてしまうなら、それはコルムにとって絶望的なことなのである。
寄り添うことは出来ても、相互理解することは既に諦めている。だから、いっそ構わないでくれというコルムの願いは、信念を違えるパードリックには届かない。
よせば良いのに性懲りもなくコルムに近づき、結果コルムは宣言通り指を切り落とし、二人の諍いは温度差を保ったまま決定的となった。
この二人の関係性は、色んな人物の関係にスライドすることが出来る。パードリックとシボーンにも当てはまる。妹さえ側にいてくれれば孤独を感じないパードリックと、両親を失った孤独感や本の内容を分かち合えないシボーン。
ドミニクとシボーンもそうだ。ドミニクは優しくしてくれたシボーンに「付き合って欲しい」と告白するが、シボーンは「それは無理だと思う」と断る。
助けたり、親切にすることは出来る。だが、シボーンが求めているものもコルムと同じ、自分の気持ちや考えを理解してくれることだ。
兄やドミニクに「ただ側にいること」だけを求められる人生は、コルムが「退屈なお喋りで時間を無駄にする」ことを拒否したように、彼女にとってももう限界なのである。
この映画のストーリーが巧妙で素晴らしいのは、この救いようのない拒絶を生み出したのが、深い愛情である点だ。
思えば、コルムは「俺に構うなら、俺の指を切り落とすぞ」と脅す。普通は「お前の指を切り落とす」のハズ。なのに、自分の指なのだ。
パードリックを傷つけたくない、それはコルムの本心なのだろう。それと同時に、この脅しはこう言い換えることも出来る。
「俺に構うなら、お前の親友の指を切り落とす」
コルムとパードリックの間に、深い結びつきがあることは、本人たち自身が良くわかっている。口をきかないままでも、殴られたパードリックを馬車に乗せ、帰路の手助けをする。
話さないと決めたままでも、手綱を握らせ、その手を包んで励まし、そして別々の道へと別れていく。
側にいる孤独、誰も残らない孤独、どちらが悲しいのだろう。
愛する人と理解し合えない絶望、愛する人と一緒に居られない絶望、どちらが深いのだろう。
突き放すのもつきまとうのも愛で、コルムの愛情はパードリックがジェニー(何度も言うけどロバ)を失って絶望の淵に墜ちた時、暴力という形を取りながらも、最も強く現れていた。
パードリックの愛情は、全てを失い憎しみに燃え、諍う相手となってもなお、側にいて優しく親切にするのが自分の道なのだと訴えていた。
破局から始まり、どうしようもなく相容れなくて、どうしようもなく愛おしい。
そのあまりに大きな愛のうねりが、色んな感情をごちゃ混ぜにして、ただ涙となって溢れたのだと、今は思う。
皮肉な笑いを散りばめながら、葛藤と反復を詰め込んだ脚本は精巧で緻密で野心的。全編キッツいアイルランド訛りの英語も味わい深い。
原題は「THE BANSHEES OF INISHERIN」。死を予告する精霊は複数形だ。ひょっとするとイニシェリン島の島民は皆バンシィで、彼らが予告した魂の死に抗い続ける為に、コルムは生き延びたのかもしれない。
中年男二人の喧嘩だろうと、国同士の争いだろうと
突然、親友から絶交を。
思い当たる節ナシ。俺、何かした…?
似たような経験ある人もいるだろう。
若い時や子供だったら、絶交して仲直り。
でも、これが中年だったら…? 私情や相手の感情が複雑に絡んで、拗れに拗れ…。
1920年代のアイルランド。小さな島・イニシェリン島。島民誰もが顔馴染みで、これと言ってニュースも無い平和だが退屈な毎日。
牧羊家のパードリックの唯一の楽しみは、親友で演奏家のコルムとパブで酒を飲みながらお喋りする事。
だがその日突然、コルムから絶交を言い渡され…。
昨日まではいつも通りだったのに…。
それが、今日いきなり突然。
身に覚えないけど、何か気に障る事したっけ…?
ああ、そうか。これ、何かの悪戯か。
ところが、マジ絶交。
一体突然どうして…?
理由も分からなきゃ腑に落ちない。
理由らしい理由は言わないが、強いて言うなら、
お前が嫌いになった。
馬だかロバだかの糞の話で2時間。お前の退屈で下らない話にうんざり。
人生は限られている。老い先も長くはない。自分の思想や音楽に時間を費やしたい。
だから俺に近寄るな。話し掛けるな。
もし話し掛けたら、自分で自分の指を一本切り落とすとまで…。
幾ら何でもそんな異常な事しないだろう、ただの脅しだろうと思っていたら…((( ;゚Д゚)))
それくらい決心は変わらない。
理由は一応分かるような、分からないような。納得いくような、いかないような。
自分の貴重な時間、自分の好きな事やりたい事に捧ぐのはいい。私も日々の生活の中で、もっと映画鑑賞出来る時間が設けられたら…。
でも、友人らと会食して他愛ないお喋りするのも好き。
だから、どっちの言い分も…。
なので尚更、う~~~~~ん……………。
主にパードリックの視点から語られる。
突然親友に絶交を言い渡された彼の情けなさや哀愁と言ったら!
それがコリン・ファレルの八文字眉毛にドンピシャ!
何か同情もするけど、滑稽に見えてくる。それとちょっと鬱陶しさも。
色々言われたのに、その都度その都度コルムの前に現れたり、話し掛ける。
未練たらたら。元カレか!
コルムが他の人と親しげに話しているのを見たパードリックの何とも言えぬ表情(八文字眉毛がますます絶好調!)とその哀しい背中。
親友が自分じゃない誰かと楽しげに話しているのを見たら、誰だってジェラっちゃうわな。
情けなさ、滑稽さ、男のジェラシー、哀愁…コリン・ファレルにこんなにもだめんず役がハマるとは!
冷たく感じるコルムだが、一概にそうとも言い切れない。
彼の側から見れば…、確かにパードリックってちと面倒臭そう。馬だかロバだかの糞の話を2時間なんて、そりゃあコルムでなくとも聞きたくない。
自身のオリジナル曲“イニシェリン島の精霊”を奏でている時の安らぎ。
パードリックは気のいい男かもしれないが、コルムは思慮深い大人なのだ。
一切何もかも拒絶という訳じゃない。
あっちがしつこく話し掛けてきたら、仕方なく話してやる。勿論その後は…((( ;゚Д゚)))
パードリックが暴力クソ警官に殴られる。その場を助ける。
絶交を言い渡したけど、相手が困ってたら手を差し伸べる。
近寄りがたいような、情滲み出すような…。ブレンダン・グリーソンの名演。
何だよ、やっぱ友達じゃねぇか!
でも、それはその時だけで、変わらず絶交。
もう、訳が分かんねぇよ!
パブでコルムが他の人と話している所へ、酔った勢いに任せて…。
しっかり者の妹シボーン(ケリー・コンドンが印象的)や“新しい友達”のドミニク(バリー・コーガンが巧演)の手助けを借りて、丸く収めようとするのだけれど…。
突然拗れ、さらに複雑に拗れた人間関係ほど修復難しいものではない。
中年男二人の絶交ブラック・コメディが、ヒリヒリするような展開へ…。
未だ『スリー・ビルボード』が強烈インパクト残るマーティン・マクドノー監督。
『スリー・ビルボード』ほどの強烈インパクトは無く、ましてやメチャ地味な内容だが、視点や人物描写などハッとさせられるものも多く、語り口も不思議と引き込まれ、またまたその手腕に唸らされる。
島の風景が美しい。だが絶景というより、何処か寒々として、主人公二人の関係性を表しているかのよう。
作品のモチーフに、アイルランドの精霊・バンシーがあるという。人の死を泣いて叫んで予告する。
次第にその影が忍び寄るのは、うっすら肌で感じる。
が、日本人からすればいまいち分かり難く…。
結局絶交の理由も曖昧なままで、ちとモヤモヤ感が…。
きっと本作は、それを求める話じゃない。
てっきりドミニクがキーパーソンとなり、島でバカ扱いされるドミニク。パードリックもちとバカ思考があり、彼と友達になりたいドミニクが、仲を引き裂いて…。
なんて退屈で下らない話を予想した私こそバカの骨頂。
終盤にもなって、ようやく本作の真意が分かった気がする。
島から自由になりたいシボーンは本土へ。
ドミニクとは親友になれなかった。
親友を失った事をきっかけに、どんどんどんどん身の周りが寂しく…。
極め付けは、愛ロバの死。その死因は…。
もうそこに気のいいパードリックは居なかった。
コルムに言い渡す。明日の2時、お前の家に火を付ける…。
端から見れば中年男二人の些細な痴話喧嘩かもしれない。
が、当人たちにとっては大問題。突然の不和から、修復不可能な諍いへ…。
それは暗示されている。作品内でも何度も挿入。この島にも砲撃音聞こえてくる本土の内戦。
諍いや争いなどは、何がきっかけで起こるか分からない。
あっちには是でもこっちには否で、その逆も。
世の中、当人たちにとっては信念基づくが、不毛な争い続く。
絶え間なく続く国と国の争いだろうと、内戦だろうと、男二人の喧嘩だろうと。
分かり合う事は出来ないのだろうか…?
話し合う事は出来ないのだろうか…?
ラストシーンの二人の会話が、それら問題を提起する。
そこまで頑なになる訳が全く理解できないが・・・。 狭い島で、広い世...
そこまで頑なになる訳が全く理解できないが・・・。
狭い島で、広い世界から隔絶された環境で生きていると、人間は色々と理解不能な行動をする様になるという寓話なのかな?
日本の話?😅
もうすでに遅かったこと。
美しいが、どんよりと雲の下で、そして閉鎖的でとても退屈なイニシェリン島。
突然付き合いを断れれた男、付き合いを断った方はとてもかたくなで友だちと口を聞かないために多大な犠牲を生み出し続ける。
対岸のイギリス本島では戦争、内戦。
雰囲気は伝播して、なにかに加担させられる。
退屈な日常、ずっと単調で退屈だったが急に音楽を、曲を残そうとする男。彼はそこに留まりなにかを成し遂げることを口実に友達をかたくなにこばむ。
これまでの自分の人生を否定するために友達を拒むように見える。
純朴で2時にパブに行く以外さして用事もない毎日に疑いも不満もなく朗らかに暮らす男。友達に拒まれはてと考えたりするがそこには問題は見られない。
島で最下層のバカ扱いされてる若い男も親父に虐げられているが二人の男の諍いに自我や自意識が生まれてくる。
ファンタジーなのか。大きな世界の縮図を小さな島に小さなサークルに置き換えるとこのくらい馬鹿馬鹿しいということか。
妹は本を読み本から外界、島の外、海を渡ったその先と繋がりを持っており、この流血の事態の中兄をおいて爽やかに毅然と島を出る。船を見送る兄も迷いもなく淡々と。ちょっと寂しいけど。
自由も未来も自分で行動し勝ち取るもの。妹は誰も非難せずに我が道を行く。
そしてこれからも男たちはパブに集まり善意も悪意もない噂話をするだろう。
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