映画が始まってしばらく経っても意味が解らない。これはいったい何を描いているのだろう?
「エキストラだけでは食べていけないからロープウェイの仕事もしている」主人公の「宮松」の目的とは何か?
様々なシーンが入り乱れるので、時代劇以外のシーンでは「現実」との区別が面倒くさい。
しかし、宮松を訪ねてきたかつてのタクシードライバー時代の同僚「谷」によって、宮松は山下であり、タクシー会社を失踪後の記憶がないことがわかる。
これは本人に記憶がないので、認識もないことになる。だから記憶がないことは本人にとっては、現時点で何か問題になることはないということだ。つまり彼にとっては目的など存在しない。物語は逆に、「失った記憶」に焦点が当てられることになる。
このあたりのリアルな描き方はなかなか素晴らしい。
谷は、12歳下の妹「愛」がいることを伝え、妹に連絡する。そして新横浜にやってきた「山下」を、実家傍まで送迎した。
妹を見ても、実家に戻っても記憶はよみがえってこない。
妹はそんな兄に、昔よく吸っていた煙草のことを話す。
兄は外に出かけタバコを買い、その場で吸う。
やがてじっくりと昔の出来事がよみがえってきた。
記憶を失った理由。
喧嘩の動機。
誰と喧嘩したのか。
彼が言った言葉。
実家に戻ってからもタバコを吸い続けながら、山下は過去をたどりながら自分自身どうあるべきか思案する。
その様子を帰宅した妹が見つめ、そしてベランダの隣に座る。
兄は相変わらず他人行儀な口調で話すが、妹には記憶がよみがえったことが、彼の眼つきから察知する。
兄は元の職場へと帰ってしまった。
「エキストラ」
記憶をなくした「宮松」が選択した職業がエキストラだったのは、彼が無意識ながらも「誰かの人生の良きエキストラになろうとしたからではないのか?」と、記憶が戻った「山下」は考えたのだろう。誰とは愛のこと。
そうであれば、それこそが「私」のいる場所だ。
この作品は、
両親の事故死によって、血のつながっていない12歳離れた妹の父親代わりと称しながらも妹を好きになってしまう兄。
そのことで近づく男をすべて蹴散らしてきた兄に、会社の同僚が「いつまで経っても愛ちゃんは幸せになれない」と突っかかってきたことで頭を打って記憶がなくなり、そのままどこかへ行ってしまった。
そして記憶をなくした男が無意識で始めたエキストラこそが、本当は愛に対してしなければならなかったことだったと気づく物語だ。
本心ではそれに気づかぬふりをしていた。いみじくも同僚にそれを言い当てられ、同時に頭を打ったことで記憶をなくした。
「本当はそうであってはならなかった」主人公は当時大きな悩みと葛藤していたのだろう。
記憶をなくしたからこそ、「それ」が行動に出たのだ。「エキストラ」
山下にとって、再開することになったエキストラの仕事は、きっと以前よりも素晴らしいパフォーマンスになるだろう。
タイトルには、記憶のあるなしが隠されている。同じエキストラ 山下にはきっと「夢」が芽生えたのではないだろうか?
しっかりと考えさせてくれるいい作品だった。