ヴィレッジのレビュー・感想・評価
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横浜流星の代表作
ゴミ焼却炉を巡って過去に起きた事件と、現在その焼却炉によって村の暮らしが成り立っている。その事件の犯人とされる人物の息子、優が必死に生きる姿と彼を支えようとする人物、引き摺り下ろそうとする人物、村の活性化を考える長老らが引き起こす新たな事件。なかなか面白い構成。 昔から優と仲の良かった美咲は久しぶりに村に戻って(美咲が東京で何があったのかがもう少しわかると良かった)優に優しく接する。同級生で焼却炉の責任者の同級生の息子透は優に敵意むき出し、嫌な仕事をさせ、何かと引き摺り下ろそうとする。観ていてとても不愉快で嫌な奴。焼却炉で働く人たちをきっと小馬鹿にしているんだろう態度や、喧嘩をさせたり、不法投棄の闇仕事をさせたりと、とにかく悪い奴。その親父は優の努力を認めてくれているようにも見えるが、どうも腹黒であり。 美咲と優と透の間で起こる事件、予想通りの結末だけど、確かにあんな奴はゴミとして捨てられてもしょうがない。でも、そりゃあ見つかるよね。 最後、美咲はどうしたのか?弟が街を出ていくところがラストって、とても上手い演出。 櫛木理宇の「鵜頭川村事件」。wowowでドラマになったが、村、ゴミ焼却炉をめぐってのいざこざ、不法投棄、村の伝統など少し似ていると思った。松田龍平主演。 今作、横浜流星がとても良かった。ゴミで汚れ汗に塗れて働く佇まいから、ネクタイ締めてこざっぱりした佇まい、どちらも素敵。悲しげな表情も、憎しみの表情もとても上手い。今後とても楽しみですね。
家庭は荒れ社会に居場所なく無理筋な理由で弾圧され気持ち塞ぎ込んでる...
家庭は荒れ社会に居場所なく無理筋な理由で弾圧され気持ち塞ぎ込んでる主人公がオシャレでイケメンすぎる、「イケメンだからって…」的な難癖がでてこないと不自然に思えるくらいの
難しいところ
閉鎖された村を舞台に自由とは、何か?問いかけている作品なのかなと感じた。
この作品が作れる前には、爆発的なコロナウィルスの感染の影響で架空の村では、あるのだけど、今の世界に生きる人達がそれぞれ孤独で閉鎖された社会に生きているんじゃないの?と言われてるような気がした。
狭い社会だからこそ自分達とは、違うという事だけで自分の都合のいい言葉や人達を集めて、自分達が正しいと誇示しているなと感じた。
リアルな世界というよりももっと内面の部分を投影しているような気もする。
スマホの普及によって、誰かとコミュニケーションを取るのも目と目を合わせて、対話するのではなく、スマホでのやり取りばかり。
主人公の父親は、村社会の為に反対の行動に出ていたのにも関わらず村八分にされてしまった。
それによって、事件を起こして、犯罪者になる。
その事がきっかけで主人公も地元では、村八分にされている。
これは、ちゃんと向き合うべき事を誤魔化して、生きていけば都合よく生きていけるのに余計な事をしやがってみたいな感じを思われているのだろうと感じた。
なので、最後の主人公の行動もどんどんそれが正しいと言わんばかりに、今までの自分とは、全く違った行動に出るようになってしまったんだろうなと思った。
この作品は、村社会を忠実に描いた作品というよりも比喩的な見方をすると色んな見え方のする作品だと思って面白いなと思いました。
横浜流星さんの演技で成り立ってます…かね
脚本への評価は残念ながら。
横浜流星さんの演技は、素晴らしかったです。ストーリーに疑問を持ちつつも目が離せなく、最後まで見てしまいました。
残念な部分ですが、私には能と面の重要さがよく理解できませんでした。
最後のシーンで面をつけて…?と期待していたけどそうでもなくて、アイテムの重要性も低かったですね。
この様な環境で起こりえる人間の本性というか醜さのような部分が、表現としてはちょっと浅いなぁと思いました。人間味を感じるまでキャラクターを深掘りできてないというか。
観に行っといてなんですが・・・
観に行っといてなんですが、 邦画のドロドロはリアルに感じすぎて、嫌な気持ちになるなあ……。 それにつけても 黒木華、出すぎ! 一体何本出てんの?! 黒木華の位置って、他の女優では替えがきかんのか? 黒木華 佐藤浩市 柄本明 この3人はほんまによく映画で観るし、替わりが居なさそう。
逃れられない運命
4月21日公開の「ヴィレッジ」が6月16日からNetflixで世界配信になりました。
(興行収入が2億円ほどで振るわなかったそうです)
観ました。
娯楽性は殆どありません。
「能」の舞台や舞(まい)、
薪能(たきぎのう・・・夜に薪をたいて野外で能を行う)
能面の行列、
伝統芸能の美しさ、
謡曲の調べも聴き惚れました。
(外国人視聴者には、新鮮に映りそう)
内容は暗いです。
片山優(横浜流星)の父親は、かもん村のゴミ処理場の建設反対派で、
賛成派の住民を殺して、自らは家ごと火をつけて自殺した。
優は犯罪者の子と罵られ、母親は酒とギャンブルに溺れて
多額の借金がある。
能の演目に「邯鄲(かんたん)」があるそうです。
意味は、
「栄華を極めたと思っても、ほんのひとときの夢」
優にも栄華の時が、訪れるのです。
幼馴染の美咲(黒木華)との、肩の荷を下ろす憩いの時。
もちろん長続きせずに、悲劇が・・・
横浜流星の演技のギャップが、驚くほどでした。
血走った眼と鬱屈を抱えた前屈みの無口な男。
美咲の愛で見違えるように闊達に話す好青年に。
大した役者です。
目の演技に惹きつけられる。
山の上に聳えるゴミ処理場。
かもん村の厄災の根源にもなるその施設。
利権と悪の温床。
村の利益のためなら交付金詐欺的裏仕事も厭わない村長。
黒木華が透(一ノ瀬ワタル)に襲われるシーン。
透はオートロックもない家にずかずか上がり込む・・
田舎ならではの怖さ。
一ノ瀬のニヤケ笑いが心底怖い。
「サンクチュアリ聖域」でブレークを果たした一ノ瀬は、
ある意味で流星より悪目立ちをした。
ここでも血生臭い殺人事件。
100キロもある大男をどうやって移動する?
そして更なる惨劇。
まるで、金閣寺炎上のように燃え盛る金色。
逃れられない運命の果てには破滅しかなかった。
ムラ意識、因襲、閉塞感、
かもん村が日本の縮図だとしたら・・・
暗澹とした気持ちで見終えました。
重い。ひたすら重い…
2023 52本目 この手の映画は昼間には見られない輩です… 23:30から鑑賞。 この時間からはどっぷり浸かれるんです。 で、どっぷり浸かりました。 疲れた… 誰も幸せになれないのか…負の連鎖は誰が生み出すのか…この2時間の中に嫉妬、強欲、脆さ、儚さが詰まっています。 村長息子(一ノ瀬さん)が表面的に1番悪い。 ただ、優(流星さん)に詰め寄るシーンで目から儚さと脆さが見えた。悪と脆さを演じられる一ノ瀬さんに脱帽。 村長(古田さん)も同様で私利私欲に見えながらも村を1番に考えている?…または母の承認欲求なのか。 主人公である優に対しても悪人とゆう一つの感情ではない何かを感じる事ができる。 とにかく主人公である2人の怪演も去ることながら、脇を固めた俳優陣の安定した演技が重厚感を与え、ストーリーに重さと儚さを積み上げいく。 エンドロール後の龍太(奥平さん)の表情にも注目。
拍子抜け
ホラーチックな予告とプロモーションに惹かれて観てみたけど、意外に普通のサスペンスで拍子抜けした。横浜流星と認識するまでに時間の掛かった主人公の気持ちに寄り添うと、結構楽しめる作品だと思うが、カメラ目線では何だか凡庸な筋立ての、すこしリッチな二サス級の作品である。筋立てが韓国ドラマっぽいンだよな。 ホラーっぽさ、ノワールっぽさが乗っかった、普通の二サスを見せられてるようで、大して旨くも無いのにトッピングがカメラ映えするから流行ってる韓国風カフェのパンケーキを食わされるような気持ちになった。
怖いというかおぞましいけど、とても心打たれた
怖い感じの映画だと分かりながらも気になり鑑賞。 横浜流星さんの演技がすごかったし、 中井美咲さんの透明感やお面にも似てるような気もして、逆に後半怖くなった。 最後なんで流星さん笑いながら… 違う展開になると思ってた… そしてほんとに、最後の最後、 なぜ彼はこの町に…? ずーっと目が離せなかった。 噂や家族のおかしたものを息子がずっと罪を着せられる感じもムラ特有な感じがして 色々と知人の話を思い出し考えさせられた。
黒い穴に吸い込まれませんか?
登場人物が多かったので、人物の背景もそこそこに脚本も色々と揃えていたのであっという間の2時間でした。人物像はもう少し見たかったな。冒頭の父親の絶望感などもう少しあっても良かったような
能面を見る楽しさは見るものによって表情が変わるので、自分がどういう顔しているかわかるアイテム。
能面のアップが出てくると、すぐそばで自分がその光景を見ているかのような感覚に襲われます。
また演出なのか、役者さんそれぞれが感情を押し殺した表情をされていて、「怖い、何を考えてるの?」と感情を揺さぶられました。特に母親。悲壮、憤怒、諦め、安堵など。
最後の対峙も、その後の結末も観者に委ねられたかな?
当然、無表情ではありましたが、優は笑みを含んでいた気がします。終焉、達成、謝罪など。
美しい景色とともに光を感じながら外部へと続く道は希望。
そして「どんな形」であれ、彼はまたこの村に戻って変化をもたらすであろう…
追記
横浜流星の悲愴感漂う歪んだ顔は見ものです。
一ノ瀬ワタルがいい感じです
ストーリー自体は面白かったけど、ちょっと設定に無理がある感じも否めないですね。 藤井監督のドラマ、インフォーマにも出ていましたが、一ノ瀬ワタルがいい味出してました。サンクチュアリも主演だったし今後の活躍に期待です。
展開がお約束過ぎるが
地方部落の慣習と地元権力者、産廃業と暴力団、恵まれぬ生い立ち....邦画デイアンドナイトの空気を感じる、クラクラするような設定で一気に入り込んだが、あまりにも展開が悪い方へのお約束過ぎ狙い過ぎで、途中で苦笑い。その上、救いの無い終劇にどんより気分で劇場を出た。 しかもこの時代、記述冒頭のような設定はまだ残ってるのだろうか?と疑問。かなりニッチ、マイノリティな事じゃないか?なんらかの警笛なのかもしれないが、真実味や現実味が薄く、しかもチープなドラマチック感は昼ドラを想像したw まあ、傑作だったデイアンドナイトもそうだったがw 横浜流星の役者レベルが上がった事は間違いないが、この路線を続けた方が良い。間違ってもラブコメや漫画原作物に行かない事だw
人はなぜ、人を追い込み追い詰めるのか。 人はなぜ、不正を不正と知ってそれに手を染めるのか。 人はなぜ、かくも憐れな生き物なのか。
霧に煙る山間部の村に異彩を放つゴミ処理施設。 この村にはかつて、伝統芸能として「能」が息ずいていて、子供の頃から能に親しんでいた者も少なくないようだ。 この映画は、過疎の村、産廃不法処理、環境破壊、メンタルヘルスケア、ハラスメント、偏見と村八分…世の中に存在するあらゆる理不尽を素材に織り込んだスリラー映画だ。 そして、藤井道人監督の仕立て方は極めて巧みだった。 閉鎖的なムラの中にいて、主人公の青年優(横浜流星)は、己を殺すようにして生活している。 職場であるゴミ処理場で明らかないじめを受け、ヤクザが絡む闇の仕事にも命じられるがまま従っている。パチンコに浸って借金を負っている自堕落な母親(西田尚美)との二人暮らしだ。 映画の序盤は、二枚目横浜流星がその眼から輝きを消し去って、陰鬱で活力のない不気味な青年を演じてみせる。 小さな村で、彼と母親がなぜこのような生活をしているのか、能の舞台とそれに見入る少年の映像に、常軌を逸した男が家に火を放つ映像が挿入されるイントロのシークェンスがヒントとなる。 東京から村に戻ってきた幼馴染みの美咲(黒木華)と、最初は拒否していた優が交流を再開することで、物語は動き出す。 彼女が問題を抱えて故郷に戻ったことは、登場場面から示唆されている。たが、村営(と思われる)ゴミ処理施設に就職した美咲は意外と明るく、周囲に受け入れられて広報に従事する。 優を施設の案内係に起用する彼女の案に経営者である村長(古田新太)が賛同し、優は大きな転機をむかえる。新たな役割を得た彼はポテンシャルを発揮し、寵児となっていく。 この中盤での横浜流星は、単に明るさを取り戻しただけではなく、勢いに流される不安なのか、自分と同様に訳ありの同僚たちに対する後ろめたさなのか、負の空気感を微かに醸し出す。 村長の息子(一ノ瀬ワタル)の行動が事件へと発展し、危機に瀕した優は悪戦苦闘する。 この終盤がスリラーのメインステージで、身体も精神状態も激しく揺さぶられる優を“動”に転じた演技で表現して、横浜流星は益々冴える。 優の行動を付かず離れず観察している美咲の弟恵一(作間龍斗)の存在(視線)が、この映画をスリラーとして成立させる重要な役割になっている。自閉症的な彼の眼は、物語のごく始めの時点から優に焦点が絞られていた。 そして、この恵一を御し易い相手だと考えた優の判断ミスが、最終的に破滅への引導となるのだ。 他にも、いくつかのアイテムがスリラーとしての雰囲気を盛り上げる。 「能」と演目「邯鄲(カンタン)」と「能面」。 「ゴミ投棄場」とそこに空いた「穴」。 近年のサスペンス映画はショック描写に頼りがちだが、本作はスリル描写に力点が置かれていて、我々観客は主人公が外堀を埋められていく過程を目撃することで、主人公と同じように追い詰められていく。 丁寧な演出に個性的な俳優陣が的確に呼応していて、見事なコラボが成立している。 メインキャストの横浜流星、黒木華、古田新太の3人が強力に牽引しているが、他のキャストも印象的だ。 一ノ瀬ワタルの、憎まれ役を一身に引き受けた堂々たる悪役ぶり。 優がゴミ処理場で虐待を受ける様子を見て、自分なら耐えられないと言っていた同僚の若者を演じた奥平大兼。 優が施設の案内係となって現場を離れると彼が次のターゲットとなるが、か細く笑いながら「順番がきただけ」と言って耐えていた。悲惨な運命に襲われた彼が、最後に優に向けた視線が憐れで、胸につかえる。 村長の母親を演じた木野花。 老婆の特殊メイクが強烈だった。 無言で息子に圧力をかける存在感はさすがだ。 誰よりも優と美咲のことを身近に思っている、刑事であり村長の弟でもある中村獅童。村の闇の部分を知っていて嫌悪している。 かつては子供たちに能の舞を教えていた。ここは歌舞伎役者の本領発揮といったところ。 優に疑惑を抱いてからの悲しげな眼差し。強面でありながら、優しさを醸し出す。 実在する村かと見紛うほど、山間部でのロケーションを見事なアングルで切り取ったカメラワーク。 最後の炎上シーンの圧倒的迫力。 そして、社会の理不尽に翻弄された不幸な若者に成りきって、その怒りや焦りを身体から、声から、視線からにじみ出すように演じた、やはり横浜流星だろう。 ラストシーンの彼の表情は、私の心臓を掴んで離そうとしない。
面白さはありつつも、途中で失われる緊張感と、その解決私案について
(完全ネタバレですので、必ず鑑賞後にお読み下さい)
結論から言うと、この映画『ヴィレッジ』は個人的にも面白く見ました。
しかし、鑑賞の途中で前半にあった緊張感が突然プッツリと切れてしまい、後半は前半とは打って変わって普通の映画になってしまったように感じました。
それによって、鑑賞後に傑作には届かない映画になっているなと思われました。
この映画『ヴィレッジ』の緊張感が途中で切れてしまうのは、主人公である片山優(横浜流星さん)の<心情の真実性>が、映画の途中で消えてなくなってしまうのが要因だと思われました。
そして、その主人公の片山優の<心情の真実性>が途中で消えたように感じられるのは、主人公・片山優を虐げていた、村長の息子である大橋透(一ノ瀬ワタルさん)がいなくなってしまうのが原因だと思われました。
片山優の父(淵上泰史さん)は、村にゴミ最終処分場が出来ることに反対運動をしていましが、ゴミの最終処分場の反対運動に挫折し、片山優の父はその過程で殺人事件を犯し、自らも焼身自殺します。
片山優の母である片山君枝(西田尚美さん)は、ギャンブルに溺れ借金を抱えて自暴自棄の生活を送っています。
そして片山優は、そんな父の死や母のギャンブル依存での借金を見なかったことにしているかのように、感情を押し殺し、父が反対運動していたはずの村のゴミ最終処分場で働き日常を生きています。
そのゴミ最終処分場でも、片山優は、村長の息子の大橋透からイジメのような可愛がりに遭い、夜中に感染性の医療廃棄物の不法投棄まで手を染めています。
それらの片山優の振る舞いは、まるで【能面】を被ったかのように<己の心情の真実性>を隠して(あるいは忘れようとして)生きていると観客には伝わって来ます。
しかし、観客からは、心の【能面】を被った片山優の振る舞いの背後に、逆に緊張感ある彼の<心情の真実性>が見て取れ、観客である私は静かな感銘を受けることになります。
この主人公・片山優の【能面】の背後に存在し続ける<心情の真実性>が、映画の前半に緊張感を生み出し観客を引っ張っていたと思われます。
しかしこの映画『ヴィレッジ』は、後半になって、前半にあった緊張感が途中で消えてなくなったと感じられます。
その原因は、片山優を虐げていた村長の息子の大橋透が行方不明になったことで、主人公・片山優の<心情の真実性>が雲散霧消し、観客からは見えなくなったからだと思われました。
片山優を虐げていた村長の息子の大橋透がいなくなることで、逆に片山優の<心情の真実性>が無くなります。
なぜなら、大橋透がいなくなることで片山優に出来てしまっていた心の【能面】が無くなるはずが、逆に片山優が【能面】そのものの存在になってしまったからです。
つまり、村長の息子の大橋透がいなくなることで、逆に片山優が大橋透的(あるいは多くの村民的)な【能面】そのものになってしまったということです。
観客の私は、片山優の【能面】の背後に確実に存在し共感していた<心情の真実性>が、大橋透がいなくなった映画の中盤で、消えてなくなってしまったように感じてしまいました。
これが、この映画『ヴィレッジ』が、途中で緊張感が失われ、傑作に届かない映画になってしまった原因だと思われます。
その後、映画での<心情の真実性>は、後にゴミ最終処分場で感染性の医療廃棄物の不法投棄を発見する(主人公・片山優を尊敬していた)筧龍太(奥平大兼さん)や、あるいは、その不法投棄を捜査する大橋光吉 刑事(中村獅童さん)に移行します。
そうすると、この映画は、後半からは、(筧龍太や大橋光吉 刑事などの)第三者的な<真実性>の視点から描かれることになるのです。
つまり、この映画は後半からは、第三者的な<真実性>の視点から描かれる”普通の映画”の印象に変化してしまったということです。
その結果この映画は、
A.前半の、主人公・片山優の主観的な<心情の真実性>の緊張感
B.後半の、客観的で一般的な<真実性>の視点
に前半後半で分離してしまっている印象を受けるのです。
この分離を解消するには、
あくまで、A.主人公・片山優の主観的な<心情の真実性>で最後まで描き切る
もしくは、B.客観的で一般的な<真実性>の視点で初めから描く
必要があったと思われました。
しかし、A.主人公の主観を中心、あるいは、B.客観的な視点、のどちらかで最初から最後まで描いてしまっても、この映画の良さは失われてしまうのです。
なぜなら、B.の初めから一貫した客観的な視点の描き方では、映画の前半にあったA.主人公の主観的な<心情の真実性>の緊張感は失われてしまいます。
一方で、A.主人公の主観を中心に最後まで描いた場合には、主観的な緊張感は最後まで持続しても、村長の息子の大橋透が中盤でなぜいなくなったのかというサスペンス的な描き方はなくなります。
つまり、主人公・片山優と大橋透との争いの中で、中井美咲(黒木華さん)が大橋透の首を剪定ばさみで刺して殺してしまう場面が、時間経過に従って描かれることになります。
そうすると、主人公に共感できる<心情の真実性>の緊張感はそれ以降も持続されますが、映画としては、犯罪隠ぺいや犯罪から逃げ切れるかといった、時系列に沿ったありふれた内容になってしまいます。
ただ私的には、1つだけ前半の緊張感を最後まで持たせながら、後半のサスペンスも維持する別のやり方があるように感じました。
その解決策とは、[映画の前半と後半で、主人公を明確に変える]策です。
つまり、映画の主人公は、前半は片山優で、後半は(後に不法投棄を発見しそれを探る)筧龍太に、明確に変えてしまえば良いと思われました。
後半も、(前半の片山優と同じような)筧龍太による主観的な<心情の真実性>の描き方であれば、最後まで前半同様の緊張感が持続することになったと思われるのです。
そうすれば、前半の片山優、後半の筧龍太の、それぞれの主人公による主観的な<心情の真実性>の緊張感に観客は共感しながら、大橋透が中盤でなぜいなくなったのかというサスペンス的な描き方も可能になります。
(最後の片山優が、村長である大橋修作(古田新太さん)を殺害して家に父親同様に火を放つ最後の場面で、再び主人公が(筧龍太から)片山優に戻るというのも、<心情の真実性>の緊張感という意味であり得ると思われます。)
この映画『ヴィレッジ』は、面白さがありながら、途中で緊張感が消えてしまう惜しさがあり、それが傑作には届かない要因になっていると思われました。
そして、その解決策は、主人公を途中でバッサリと代えることで可能だったのではないかと思われ、惜しい映画になっていると僭越思われました。
タイトルなし
他の作品でもだけど主人公が喋らない作品は苦手。設定上しかたないんだけど辛気臭すぎる。中盤辺りから喋ってくれるように成ってホッとしていたらドンドン負へと転がり落ちていき、かなり後味の悪い結末を迎えてしまう。きっと転落から抜け出す機会は有ったはずなんだけど自分が同じ立場だったらどうだったろうなんて事を考えてしまう。田舎に関わらず生きていれば他人に流されて不本意な方向に進んでしまう事なんて、いくらでも有るだろうから思った以上に他人事じゃない作品に感じた。 村の風景に見覚えが有るなと思っていたら昨年のゴールデンウィークに観光で行った所。もしかしたら屋根裏部屋みたいな形をしたヒロインの部屋にも入ったと思う。あの辺りに車を停めたな~なんて思いながら観る事ができて楽しめた。
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