たぶん悪魔が 劇場公開日:2022年3月11日
解説 「ラルジャン」「抵抗(レジスタンス) 死刑囚の手記より」などで知られるフランスのロベール・ブレッソン監督が1977年に手がけ、環境破壊が進み社会通念が激変した当時の情勢を背景に、ニュース映像などを交えながらひとりの若者の死を見つめたドラマ。裕福な家柄に生まれた美貌の青年シャルルは、自殺願望にとり憑かれている。政治集会や教会の討論会に参加しても、違和感を抱くだけで何も変わらない。環境破壊を危惧する生態学者の友人ミシェルや、シャルルに寄り添う2人の女性アルベルトとエドヴィージュと一緒に過ごしても、死への誘惑を断ち切ることはできない。やがて冤罪で警察に連行されたシャルルは、さらなる虚無にさいなまれていく。1977年・第27回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員特別賞)を受賞。
1977年製作/97分/G/フランス 原題:Le diable probablement 配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム
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2022年5月18日
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鑑賞方法:映画館
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冒頭にある青年の死が報じられ、そこから遡って死へのカウントダウンを追っていく「市民ケーン」風の構造。ロベール・ブレッソンの映画ではおなじみの、無表情な登場人物たちが抑揚のない台詞を語る。ブレッソンやジャン=ピエール・メルヴィルに親しんでしまうと、普通の映画の口跡が白々しく感じるという副作用が生じる。 環境汚染や核などの社会問題についての言及が、ブレッソンにしては珍しい。黒澤明の「生きものの記録」では核の恐怖に耐えられなくなった主人公が狂気へと逃避するが、この映画の青年が破滅に導かれたのも同様の絶望なのだろうか。 青年たちの属性や人間関係が説明されないまま進行するので、置いてきぼりにされたような気分になる。ブレッソンは「創造とは付加よりもむしろ削除である」と言っているように、必要最小限しか描写しない。この唯一無二の高踏的な作風は、遺作「ラルジャン」で完璧に結実する。
2022年5月15日
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鑑賞方法:映画館
ロベール・ブレッソンの日本劇場初公開作品。 主人公の美しき青年。 学問にも、政治にも、宗教にも、そして彼を愛する二人の女性にさえも救われることがなかった。 挿入される環境破壊のドキュメンタリー映像も陳腐化することなく世紀末を映し出した。 ただ淡々と死に向かって行く。 あまりにも殺伐としていた。 何の救いもなく何の感情移入も許さなかった。 観る者すべてを陰鬱にする傑作。 う〜ん、これをブレッソンの到達点とするのか。 しなければいけないのか。
今年120本目(合計394本目/今月(2022年4月度)30本目)。 映画の内容自体は他の方も書かれている通り、当時のフランスのあのような思想観というか空気感というのはあったのだろうとは思います。このいった時代を生きた主人公(シャルル)の行動がひとつのテーマなのですが、なにせ「たぶん悪魔が」というタイトルなので、行く場所も発言も実にムチャクチャで、理解がかなり苦労します。というより理解はもう無理…? 特に精神疾患を持っているという設定はなかったと思うのですが(薬を飲む、というシーンはある)それにしても話が飛び飛びでついていくだけで大変です。 (1) モンテスキューの思想がどうこうという話 (2) プロテスタントの決まりがどうこうというお話 (3) 文系ネタかな…と思いきや、(log x) を微分したらどうなるか?という話を突然してくる…( (log x)' = 1/x が正解)。 (4) 環境問題に興味を持ったシャルルが日本の水俣病の話をしたりという展開(日本で観る限り、肖像権の問題などは大丈夫なのでしょうか…) (5) そのあと、薬を飲んだとか飲まないとかという話 (6) どこかの大学。物理学か工学をやっている模様。「エルグ」や「レム」といった聞きなれない単語が出てきて???????になる(多分ここで力尽きる…下記※1) (7) 理系映画なのか文系映画なのかよくわからないなぁと思ったら、また哲学がどうこうという話になる (8) あと色々あるものの、最終的には衝撃的なラストを迎える(といっても、書かれている方いますが) 実に文系理系両方の知識を相当要求している映画でして、一般にフランス映画は何らかの意味で余韻を残すような映画が好まれますが、この映画に限って言うと余韻がどうこう以前に「全体として何を言っているのかわからない or 映画の主義主張がまるで不明」という人は多数出るんじゃないか…という印象です。正直ムチャクチャマニアックです。 減点は1.2(七捨八入で4.0)にしました。過去の3.5の基準(→「樹海村」「DAUナターシャ」と同じレベルとまでは認め得なかったためです) ------------------------------------------------------------------------------------------- (減点1.2) 上記の(6)の「エルグ」「レム」という単位が突然出てくるところがとにかく難易度が高めです。実際、わかる方は相当少ないのでは…とさえ思います。 日本では古い時代に使わていた慣用の単位から、一部の分野でのみ使われていた単位、また、分野によっても単位の使い方が違うといったことが普通にありました。これでは国際貿易の観点で日本は勝てませんから、「計量法」(平成4年)に「社会ではこれら以外の単位を原則として使わないようにしましょう」という法ができ、それまで使われていた単位は使えなくなりました(一定程度の猶予はありました) ▼ 計量法で取り締まりの対象になるもの:理科の教科書や、「取引や証明」 →当然、個人の知識も計量法が前提とした考え方になる ▼ 計量法の対象外になるもの、 → 小説や映画、ニュースなど ここで「エルグ」という単位が出てきますが、「エルグ」は熱などを表す非SI単位系(CGS単位系といった)で用いられていた単位です。今ではSI単位系の「ジュールJ」があります。もちろん、簡単に単位「だけ」よいというものではなく、1J = 10^7 erg (10の7乗)という扱いです(レムについても同様。SI単位系のシーベルトに変換。1Sv = 100rem (Sv:「シーベルト」、rem 「レム」) -------- ▼ 参考 ★ 日本でも、この計量法が運用されるにあたって「誰でも知っていること」が変わった事例があります。秋になるとよく台風がきますが、計量法以前は、台風の気圧は「ミリバール」でした。しかし「バール」は認められていない単位でした。しかし、計量法で「バールが」使えない以上、実質同趣旨のSI単位系を使うしかありません。しかし、それが「(ヘクト)パスカル」です。 しかし、950ミリバール(ヘクトパスカル)を単純に「パスカル」に言い直すと9.5「パスカル」というよくわからない表記になってしまいます。このときは、計量法の順守ということ以上に「台風といった自然災害の報道で視聴者に混乱を与えない」という点も論点でした。そこで「100倍」を意味する「ヘクト」をつけて「ヘクトパスカル」とすることで「○ミリバール」と「○ヘクトパスカル」は言い換え可能になったのです。 ヘクト自体は「ヘクタール」(ヘクト・アール)くらいでしか従来出てこなかったのですが、ここで「株を上げた」感じです(もっとも、それ以降「ヘクト」を使うようなことも余りありませんが…)。 --------
2022年4月8日
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シャルルは自分の手で自殺することはせずに、ともだちに「古代ローマ風に」と頼んで墓地で自殺に見せかけて殺してもらう。 死に至るその瞬間に最も崇高な瞬間が訪れる、とシャルルは語るのだけれど、シャルルは、死の瞬間を知ることはなく、ともだちに背を向けて話しながら歩いているときに殺されてしまう。でも、よかったのかもしれない。死の瞬間を彼が自覚した状態で迎えたとしても、結局彼はその崇高な瞬間を手に入れることはないように思うから、 彼は虚無にとらわれていて、いわば後ろ向きに生きていたのだけれど、ここでもまた、死にすら背を向けていることが描かれている。彼が生と死のあいだをゆらゆら揺れ動くこの物語には、恐ろしいくらい、ぴったりだ、 彼の最後の言葉は、ともだちに向けた「知りたいか?」という問いかけ。ともだちはそれには答えることはない。誰も答える者がなく浮遊して漂い続ける問いかけの言葉があまりに空虚だ。そして、最もその答えを「知りたい」と思っているのはきっと彼自身なのかもしれない、 シャルルは虚無にとらわれて淡々と生きているから、物語はゆるゆると進むのだけれど、最後の場面は、シャルルを撃ち殺したともだちがお金を握りしめて、走り去っていく。突然に物語のテンポがあがり、そのまま終わってしまう。死んだシャルルの身体と一緒に、見ている観客まで置いていかれるような、あの静かさ。 死んだシャルルの美しい顔が忘れられない。虚無を抱えたまま、ひとりで、ほんとうに古代ローマの彫刻の題材のように死んでしまった、 ・突然に物語のなかに挿入される、環境問題や争いなどの同時代の暗いニュースの映像が、シャルルの虚無を可視化しているように使われていたように思う。特に、人間がアザラシをめちゃめちゃに叩く映像、、人間の愚かさとか、それをどうしようもできない無力さとか。または、めちゃめちゃに叩かれてるのって実は自分自身なんじゃないかっていう社会の理不尽さだとか。そんな映像たちをシャルルたちは、悲しむわけでもなく、ただ、淡々と虚に無表情で見ている。 ・容姿が美しくて、頭も良くて、なんの不自由のない人だからこそ、あんなに虚無にとらわれて死んでいってしまう社会の生きづらさ、