エンドロールのつづき : 映画評論・批評
2023年1月17日更新
2023年1月20日より新宿ピカデリーほかにてロードショー
観る前と観た後ではタイトルから受ける印象がガラリと変わる意欲作
アカデミー賞国際長編映画部門の候補としてインド代表に選ばれた作品だという。監督の実体験をモデルに、片田舎で暮らす少年が映画の魅力に取り憑かれていく姿を描いたノスタルジックな感動作……と、そんなイメージで捉えてしまっていた。プロットだけを抜き出せば間違いとも言えない。
しかし驚愕したのは、9歳の少年サマイが生まれて初めて映画を観た後、地元の村に帰ってからの描写だ。サマイは色のついたガラスを線路の上に並べて、ガラス越しに景色を見ることで映画体験を反芻しようとするのだ。
つまりサマイは、映画を“物語”として捉えるより先に、純粋に“映像”として捉えたのである。さらに言えば「映画とは、光を集め、映し出すもの」だと直感的に理解したのだ。ガラスというフィルターを通す行為は「映画と現実は違う」という根源的なことにも触れている。サマイは映画に、現実から飛び出すゲートとしての可能性を見出したのではないか(劇中には「2001年宇宙の旅」のスターゲートをオマージュした場面もある)。
映画館から帰る列車の中、サマイは両親に「僕は映画を作りたい」と話す。自我と一緒に芽生えた無邪気な夢はその場で一蹴されるのだが、もはやサマイを止めることはできない。映画の“光”を見つけ出そうと一直線に突き進んでいく。ちょっと待ってくれ、この子は天才か? それとも神に選ばれた映画の申し子なのか?
サマイが映写技師と仲良くなって映画館の映写室に入り浸る展開は、引き合いに出されがちな「ニュー・シネマ・パラダイス」とほぼ同じ。しかしサマイの飽くなき好奇心は、どうすれば映画を映写できるのかという興味に向かっていく。サマイにとっての映画づくりの第一歩は、撮ることではなく映すこと。それも映画なんて存在もしない村で、悪ガキ仲間総出で映写機を発明しようとするのだから恐れ入る。
筆一本で描ける絵画や小説と違い、映画は複雑に組み合わさった技術の集積によってできている。本作の特異さは、映画愛の表現がエモさよりテクノロジー方面に向いていることだろう。夢を映し出すカラクリにこそ映画の真髄があるのだと、ここまで明快に宣言する映画も珍しい。
「エンドロールのつづき」という邦題にも触れておきたい。ネタバレは避けるが、まさかこれが比喩ではない形で表現されるとは思いもよらなかったので、観た後ではタイトルから受ける印象がガラリと変わった。映画の表現も技術も、時代とともに変わっていく。それでも前へと進む強固な意思に満ちている点で、本作はまったくノスタルジックではないのだと思う。
(村山章)