Mank マンクのレビュー・感想・評価
全11件を表示
フィンチャー映画史上、最も熱い物語かも。
ハーマン・マンキウィッツとオーソン・ウェルズが、『市民ケーン』の脚本クレジットをめぐって対立した事実をもとにした時代ものだが、決して史実に忠実なノンフィクションではない。極力、1930年代の映画のルックに近づけるというマニアックでフィクショナルな映像を通じて描かれるのは、権力に抗い、人権や自由を守るために、せめて自分ができることで一矢を報いようとした男の反骨精神なわけだが、これも実在のマンキウィッツをそのまま描いたというより、伝説的な映画人たちを使って生み出された、一種の二次創作だと思った方がいい。
もともとはデヴィッド・フィンチャー監督の父親でジャーナリストだったジャック・フィンチャーが「ウェルズvsマンキウィッツ」的な脚本を書いたところデヴィッドにダメ出しされ、アプトン・シンクレアによる社会革命運動の弾圧という裏テーマを持ち込んで改稿したことで生まれた物語だという。史実の再現ではなく、あくまでも歴史上の人物をモチーフにしたフィクションであり、父親の熱血ストーリーを非常に凝ったアプローチで息子デヴィッドが映像化したことで、とても奇妙な、熱さと冷たさが同居した映画が生まれた。とても面白いコラボレーションだなと思う。
独特な
「市民ケーン」が作られた背景になった部分を映画化された作品。
オーソンウェルズと脚本家が揉めに揉めながら、生まれた作品が「市民ケーン」。
歴史上これほどまでにないといわれるくらいに、考え抜かれた作品である賞賛されています。
今回の作品も歴史的な舞台背景から独特なカメラワークなどがその時代で画期的な部分がオマージュされているなと感じました。
モノクロの作品でありながら、どこにも色褪せない作品だなと思います。
逆境無頼マンク。 温度感が低めなのも『市民ケーン』ゆずり?
脚本家ハーマン・J・マンキウィッツを主人公におき、1941年公開の映画『市民ケーン』の脚本がいかにして執筆されたかを描いた歴史映画。
監督は『セブン』『ゴーン・ガール』の、名匠デヴィッド・フィンチャー。
主人公ハーマン・J・マンキウィッツを演じるのは『レオン』『ハリー・ポッター』シリーズの、オスカー俳優ゲイリー・オールドマン。
「新聞王」ウィリアム・ランドルフ・ハーストの愛人で女優、マリオン・デイヴィスを演じるのは『マンマ・ミーア!』シリーズや『レ・ミゼラブル』の、名優アマンダ・サイフリッド。
マンキウィッツをサポートするタイピスト、リタ・アレクサンダーを演じるのは『しあわせの隠れ場所』『あと1センチの恋』のリリー・コリンズ。
第93回 アカデミー賞において、美術賞と撮影賞を受賞!✨
第46回 ロサンゼルス映画批評家協会賞において、美術賞を受賞!
………。うん、まぁ、そう…。よくわかんなかったです…。
デヴィッド・フィンチャーの作品はほぼ全て鑑賞しています。
彼の作品は一筋縄ではいかないものが多いですが、本作はその中でも一際厄介なシロモノなのではないでしょうか…。
脚本を手がけたジャック・フィンチャーはデヴィッド・フィンチャーの実の父親。
90年代には既に完成していたこの脚本だが、映画化の話はなかなかまとまらず、夢の実現を待たずしてジャック・フィンチャーは2003年に他界してしまう。
しかし、その思いを受け継いだデヴィッド・フィンチャーが亡き父の夢を30年越しに実現。まるで映画のような親子二代に渡る壮大な物語がこの映画の裏側には存在しているのです。
そんなフィンチャー渾身の一作!
…しかしこれは、もうなんというか、面白いのか面白くないのか、それすら判断がつかないくらいにようわからん。
お話のスジ自体はとっても単純。傲慢不遜な男が自らの過ちを知り、己の信念を貫くために強大な権力に立ち向かう。
「男なら負けると分かっていても戦わなくてはならない時がある」的な、みんなが好きな奴。
じゃあ何がわかりにくいのかというと、出てくる登場人物が何者なのかほとんど説明されない。
物語の中心である『市民ケーン』を鑑賞していることはもちろんのこと、その製作者であるマンキウィッツやオーソン・ウェルズ、そしてケーンのモデルとなった新聞王ハースト、彼の愛人マリオンについて、ある程度の知識がないと「今何やってますのん?」となることは必至。
1930年代における🇺🇸の政治や経済の状況についてもある程度は知っておかなくてはならないだろうし、とにかく観客にリテラシーが要求される。
それらのことについて多少は知っている観客でも、作中に詰め込まれている情報量が膨大なので一回観ただけでは「?」となってしまうだろう。私はそんな感じでした…😅
まぁこれは多分フィンチャーも織り込み済みで制作しているのだと思う。
本作はNetflixオリジナル作品。つまり映画館で鑑賞する作品とは違い、何度でも繰り返し鑑賞することが出来る。
つまり、複数回の鑑賞を前提として、あえてキャパオーバーとも言える過剰な情報を作品にぶち込んでいるんだろう。
という訳で、よくわからんところを再度チェックし直してみたりしながら、なんとか胃の腑に落ちるところまで作品を消化してみた。
…してみたんだけど、面白くない。というか、面白くしようとしていないんじゃないか、と思ってしまうほどに全体的に淡白な味付け。
時の大権力者ハーストに喧嘩を売る、という物語なんだから、それこそ『半沢直樹』くらい過剰に盛り上げることも出来ただろうに、温度感がとっても低い。すごく冷めている。
それに、マンクが喧嘩を売る相手がクライマックスで突然ハーストからオーソン・ウェルズに変わる。そのせいで物語の着地点がブレちゃったような気がする。
徹底的にハーストとの戦いを描く、もしくは前半からウェルズとの対立をしっかり描く、そのどちらでもなかったため、結局この物語は何を言いたかったのかよくわからん。
このフワフワかつ低温なストーリー。これは本作の構成が『市民ケーン』を下敷きにしているからなのだろう。
時間軸が行ったり来たりする構造は紛れもなく『市民ケーン』のオマージュ。それだけでなく、作品全体に流れる空気感や温度感、曖昧さもやっぱり『市民ケーン』を意識している。
そのため、あまりにも引用元からかけ離れた作劇は行えず、結果としてなんか曖昧で冷めた映画、言葉を選ばずに言えば気取っているけどつまらない映画になってしまったのではないだろうか?
とはいえ、この退屈さをただつまらないと切り捨てるのではなく、好意的に解釈する事もできる。
本作の最も強烈なメッセージ、それは「映画には観客にありもしないことを信じ込ませる力がある」という事。
もちろん、映画には観客に勇気や希望を与える正の側面がある。この側面を信じているからこそ、私は映画を見続けている訳だけれど、その反面、映画の魔力が悪い方向に人を誘う事もあるというのもまた事実。
日本でも『ジョーカー』に影響を受けた犯人による暴力事件がありましたね…。
フィンチャー作品だって例外ではなく、『ファイト・クラブ』に影響を受けた世界中の若者が実際にファイト・クラブを創設したという話もある。
映画の魔力の恐ろしさを、フィンチャーは誰よりも理解しているのです。
観客が制作者の意図しない受け取り方をすることもある。であれば、映画をプロパガンダとして利用する事の脅威は計り知れない。
その脅威に対抗しようとする男を描いた映画なのだから、必要以上に観客を煽るような描写は入れられない。観客を煽ってしまえば、それはハーストやMGMと同じ穴の狢ということになってしまいますからね。
従って、この映画の淡白さには必然性がある訳です。
とまぁ、ストーリーに関しては正直面白くないと思っているわけだけど、アカデミー賞を受賞した撮影や美術は確かに素晴らしい✨
30〜40年代頃を彷彿とさせるモノクロ映像。音響やBGMもそれっぽい雰囲気を携えているので、まるでタイムスリップしたかのような没入感を味わえる。
デジタル配信映画なのに、画面の隅っこにフィルム映画特有の切り替えパンチマークが表示されるという徹底ぶりはもはやギャグ🤣
これは「配信映画を映画とは認めん!」みたいな態度をとる、映画界の権威に対するおちょくりみたいなものなのかな〜、なんて思ったりもしました。
凄い映像!…とはいえ、やはり現代の観客にとってモノクロ映画というのはハードルが高い。
ストーリーもそうなんだけど、映像面もなんかフィンチャーの自己満足って感じがしちゃうんだよね…。
まぁ本作は大金を掛けて作ったフィンチャーの個人的な作品って感じだしこれでいい…のか?
ストーリーがよくわからん上にモノクロ映像という、完全にライト層置いてけぼりな映画。
フィンチャーファンの自分でも、これはちょっとかったるかった🌀
映画史に興味がある、という人以外にはオススメしにくい作品です…。
話に乗っていけず…
流れる様なウィットに富んだ会話劇に元ネタをリスペクトした画面づくり。今の撮影技術で過去へのオマージュをやる意味はあると思うんだけど、この辺の業界知識に明るくないので何処までが脚色か分かりかねるのですが映画のあちらこちらに意図的な考えの刷り込みみたいなものがある様に感じられてうううう〜ん。
飲んだくれのオッサンが自分の心に負けず反権力的なメッセージを送りだしたドラマかと思ってたので正義漢然とした立ち居振る舞い以外にあの話を書かせるに及ぶ欲を生み出す渇望が見えなくて、アウトローな奴ならやるかもしれないって期待だけでマンクにスポットが当てられた気がしてならない。オーソンウェルズと揉めてたけど、じゃあなんであんなに凝ってつくって撮りきったのかが分からない。
映画って脚本家の意地だけで作れないでしょ、傑作を生み出す熱量の説明としては周りを巻き込むだけの説得力にどうしても欠けてる気がする。
例えば体制への批判なら時世の話題にのったうえで出来上がった名作を勢いで世に出したものが大問題になったその過程で映画界の問題が見える様な流れの方が全景が見えてスッと入ってきそうだし、主人公の人生観を描くなら前後が足りない気がする。社会批判的なメッセージに比重がいっていてテーマは雇用主に騙されるな!だった気がして。
新聞王にダーッと言ってのけるシーンも王に好き勝手に言う事が許されていたまさに王様に所有される道化の役割そのものだし、なんだか配給先や前時代的な映画界の体制に左右されないネトフリのドヤ顔演説に感じちゃって…主演女優と仲良くなるくだりもこっちの水は甘いぞ的な誘いに見えてネトフリにネトられ…映画界の余所者オーソンウェルズと嫌われ者のマンクに製作者側を重ねているのかなって思いました。
だとしたら元ネタの元ネタ有りつつも知らなくても見れる普遍性もリスペクトして、何の気無しに見ても残るものがある話として組み立て無かったのか不思議に思う。
よかった
おじいちゃんの名前が覚えられなくて誰の事を言っていたのかよくわからない。マリオンが最初おじいさんのことをパパと言っていたからてっきり娘なのかと思っていたので混乱した。なんでシナリオの名前を出すのを嫌がられるのかよくわからない。けっこう退屈で眠くなる。
予備知識無しだったらどうだったか
キノの期間限定上映で鑑賞
事前に「市民ケーン」の脚本家の話であることを知り慌てて前日に鑑賞し、さらに映画館に掲示されていたPR用の映画の背景解説を読んだ上で挑んだため、Dフィンチャーの狙いが理解できたような気がするが、
これが全く予備知識無しで鑑賞したら、アル中で骨折している脚本家が物議を醸す作品を書き上げ、それが公開されると何故か絶賛されアカデミーを取った、という解釈しか出来ず、楽しむことはできなかっただろう。
「市民ケーン」もモデルがいるということも背景解説を読むまでは知らなかったため、アングルは挑戦的だが内容は何とも破滅的で寂しい男の話だ、程度にしか理解できなかったため、時代背景を知った上で楽しむ映画はネタバレ防止を意識しつつ情報収集するのは難しいと感じた。
そして同時代の人間として背景や出来事を普通に感じられない者にとっては、いちいち鑑賞しながら答え合わせをせねばならず、純粋に映画を楽しめなかったという印象だった。
Netflixでもう一度鑑賞してみよう。
心から書きたいものを、作りたい映画を。
良い映画です。
今作は史実を元にした映画で、主人公マンクが映画史に残る不朽の名作「市民ケーン」の脚本を書き上げるまでの物語。
見所は一見すると不真面目で皮肉屋に見える主人公マンクが信念を曲げずに生きる姿。テーマはアメリカ映画の精神。
1930年代、世界恐慌、共産主義、ナチス、などあらゆる社会不安の中でハリウッド映画は最盛期を迎えていました。
当時ネットはもちろん、テレビも普及しきっていない時代に映画は最も力強いメディアでした。史実でも新しいファッション、ヘアスタイル、あらゆる流行を映画が生み出しました。
そんな映画の持つ大きな影響力は富と権力を持った者が利用し政治思想まで操るようになります。映画にはお金を出すスポンサーが必要なので業界に身を置く人々が簡単に抗える流れではありません。
そんな時代にマンクは当時存命で新聞王と呼ばれ政治的影響も持った大富豪ウィリアムハーストをモデルに、彼を「富と名声と愛を求めるあまり全てを失った孤独な人間だ」と扱き下ろす「市民ケーン」を執筆します。
もちろんハーストとは対立、また大きな時代の流れに抗えない家族や仲間達からも非難を受けます。しかしマンクはある出来事から得た信念を曲げることなくこの脚本を完成させます。
この映画の監督、デビッド・フィンチャーは最新技術を惜しげもなく使った映画を撮ります。まず難しいカメラワークを納得いくまでリテイクして撮影、その後のデジタルでのCG処理や色調整は彼の武器です。
しかし今作は白黒で「市民ケーン」の時代の撮影技術を再現したそうです。100年後の自分の技術を封じて。
またテーマも実は過去に似たことをしています。
フィンチャーが監督を勤めたソーシャルネットワークは現代の大富豪で大きな影響力を持つマーク・ザッカーバーグがフェイスブックを立ち上げ、富と名声を築くも仲間や恋人を失って孤独になる物語。
存命の大富豪が、富と名声を築く中で孤独になっていく。まさに「市民ケーン」の構図です。
つまり「富や権力に恐れることなく作品を作る」というアメリカ映画の精神は過去にフィンチャー自身が体現したテーマです。
自分の得意な表現ではなく、またテーマも過去にすでに表現したものだ。ならなぜマンクなのか?
映画のクレジットに目を向けてみましょう。マンクの脚本家に注目してください。ジャック・フィンチャー。デヴィッド・フィンチャーの父親です。マンクの脚本は2003年に亡くなった父親の遺作です。
デヴィッド・フィンチャーは自身の魅力が最新技術にあることや、過去のテーマの焼き増しになることもわかっています。彼は元々CMを手がけていた広告マンなので強み弱みは絶対に外しません。
それでもマンクを、父の遺作をやりたい。心から彼はそう思ったのです。
主人公のマンクがなぜ大富豪に抗ったのか?共産主義や映画の政治利用への抵抗、貧富の差への抗議?全部違います。劇中で描かれるたった一晩の出来事のためです。
映画マンクが伝えるアメリカ映画の精神とは富や権力に抗うことでも、中立の立場を保つことでもなく、自身が抱いた強い感情に従うことです。
フィンチャー自身もそれに習い自身の魅力を最大限に発揮出来なくとも心から求めたもの、父の脚本に寄り添うことを選択しました。それこそがマンクに学ぶべきアメリカ映画の精神です。
またフィンチャーがマンクに習わなかったこともあります。
劇中でも描かれていますが、本来味方である「市民ケーン」の監督オーソンウェルズともマンクはもめます。色々あって「市民ケーン」はマンクとウェルズの共同出筆という形になります。ウェルズは全く書いていないのに。実際に歴史的名作「市民ケーン」のWikipediaの脚本家の欄には2人の名前が。つまりこの映画において連名は監督と脚本家の対立の象徴です。
一方「マンク」の脚本はデヴィッド・フィンチャーが父親に提案する形で書き始め、意見を出し合って完成させたそうです。また父親の死後、他の脚本家の手も借りて修正を加えた箇所も。しかしこの作品の脚本家のクレジットは父親であるジャック・フィンチャーの名前だけ。私はこの粋な親孝行に痺れました。
長くなりましたがこの「マンク」という白黒映像で当時の技術を再現というデヴィッド・フィンチャーの魅力を封じたような映画は、実はアメリカ映画の精神を、デヴィッド・フィンチャーの精神を最大限発露した映画なのだと私は感じました。
富を分配するのが社会主義。
貧しさを分配するのは共産主義。
へ?何だそれ。
兎に角、途中から政治色が強すぎるって。しかも訳わからんw
時期も時期だけに、頂けないねぇ、これは。
と思いながら退散中。
そもそも、個々のエピソードに魅力も無いし、既視感は強いし。どんな意図で、今時こんな話をするのかと。捏造FAKEニュースなんてのも、今の日本じゃ日常茶飯事だし、CNNもスゴイですやんw
乗り切れず、妙なもんを見せられた嫌悪感半分で気分複雑。響かなかったです。全く。
------------
1/10 追記
マンクの許を訪れたマリオンとの対面場面。
妨害と圧力に抗して脚本が世に出たら「そうなったら褒めてくれ」と言うマンク。私は、そうならない様に動くから「そうならなかったら、御免なさい」と言うマリオン。
クールなやりとりではあるんですが、鼻に付くと言えば鼻に付くんですよね。個人的に、この映画に乗れない要因が「無感情なやりとりの数々」にあります。そこが良さでもあると思いますが、今一つ心に響いて来なかったのは、「画」のつまらなさのせいだと思う。
イヤー、直前にモノクロの黒澤作品をスクリーンで見てしまったんでw
白黒でも、あれだけ美しい世界観が表現できるのに、コッチは残念だし。
って思ってしまいました。
市民ケーンと見事にリンクしてる
NETFLIXでの鑑賞です。
本作を観る方はまずあの傑作「市民ケーン」鑑賞していただきたい。
何故そうなるのかと云うと本作は市民ケーンとリンクしているからです。市民ケーンの世界と混ざり合っていて、鑑賞後どちらの映画のシーンだったのか混乱する程です。
本作はそこを狙って作ったのだと思います。モノクロ画面や音楽の雰囲気、作品内の音など技術的な部分を、80年も前の作品である市民ケーンに合わせているのです。オーバーラップなど当時主流だった場面切り換えも積極的に使用しています。面白いのはデジタル映画にも拘わらず、懐かしのフィルムの切り換えマークまで入っています。
内容的には市民ケーンの脚本の制作過程を中心に、脚本家のマンキウィッツとウエルズ、ハーストとの関係、そしてハリウッドシステム全盛の当時のアメリカ映画界を丁寧に描いていて、とても興味深く鑑賞することが出来ました。
本作を観て驚いたのはマンキウィッツと新聞王ハーストに交友関係があったこと。MGM社長のメイヤーとも友人関係であり、映画界でマンキウィッツは力を持っていたことが分かったことです。にもかかわらず彼は新聞王ハーストに挑んでいったのです。
市民ケーンはご存じのようにハーストの妨害活動によりオスカーは脚本賞しか受賞していません。しかし世界映画史上のベスト10ではいつも上位に挙がる大傑作です。市民ケーンを語る時、必ず最初に挙がるのは天才オーソン・ウェルズの存在です。反面マンキウィッツの存在について語られることは余りありません。しかしあの傑作の物語を書き上げたのはハーマン・J・マンキウィッツであり、本来はオーソン・ウエルズと同等の評価を得られてもおかしくありません。多分監督のデビッド・フィンチャーもそう思い本作を製作したのだと思います。
本作は脚本の見事さと画面の緻密さと美しさ。主人公を演じたゲイリー・オールドマンの演技の素晴らしさ、リリー・コリンズの演技の見事さなど、その他見所は幾つもあります。
昨年は米国内では余り新作が公開されませんでした。しかしNETFLIXのような映画会社が本作のような実に無骨で素晴らしい作品を提供してくれたことは賞賛に値すると思います。
多分今年のオスカーでは、本作によりネット配信会社の映画が初めて作品賞を受賞すると思います。米映画界もこの現状を認めざる得ない時期にもう来ているのだと思います。
市民ケーン脚本家の半生を市民ケーンの演出で…
市民ケーンと言えば、ベスト映画ランキングの王座に君臨する大名作である。現在と回想シーンが入り混じる脚本、撮影手法等が当時革新的であり現在に至るまで色々な映画に影響を与え続けている。
もちろん本作Mankの監督であるデヴィッド・フィンチャーも色濃く影響を受けており、監督作ソーシャル・ネットワークは現代版市民ケーンと評されるほどである。
Mankは脚本家ハーマン・マンキーウィッツの半生を市民ケーンの構成で描いている。市民ケーンの脚本を書く現代パート、
MGMスタジオ時代の回想パートが入り混じり物語が進んで行く。
ただ、最後は対になっており市民ケーンは権力に溺れ、バラのつぼみと言い残し孤独な最期を迎える。が、マンクのもとには様々な人が訪れる。そして彼は最後にアカデミー脚本賞という花を咲かせる。
感想としては、思っていたほどグッと来るものがなかった。時代が古すぎて引っかかる物が少なかったし、白黒画面はやはり平坦に感じた。ハリウッドの懐古趣味に浸るのも良いが、もっと未来を見てほしい。
ただ、市民ケーンは新聞王ハーストの近くにいた者が自分の身を切る思いで書いた物凄い熱量の作品だと知ることができて良かった。特にマンクが脚本クレジットに載せるようオーソンウェルズに頼むシーンは良かった。
市民ケーンを見るべきだった
市民ケーンの脚本家ハーマンの市民ケーン誕生秘話や同時にその時代のハリウッドの様子を描いた作品。
市民ケーンは恥ずかしながら未鑑賞ながらこの作品を鑑賞してしまった為全く作品が理解できず退屈な時間となってしまった。
もちろん役者は豪華なメンバー故に非常に魅力を感じ惹きつけられたのだが、やはり母体が分からないとダメだ。分からない上にモノクロ描写だとさらに理解ができず結局そのまま終わってしまった。
元々あまりポプュラーな作品ではないようにも感じる上に知識不足だとこうなってしまう。
もう一度見る機会があるのであれば市民ケーンはやはり抑えておくべきか。
全11件を表示