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この作品の面白いところは、どこを見るか何を見るか誰を見るかよって印象が変わるところだ。
例えばラストシーン。由宇子は萌の妊娠の真相を萌の父親に話すが、そこでどう思いましたか?。由宇子は贖罪の意味も込め誠実であろうとしたと感じましたか?。それとも、自分のドキュメンタリー作品のために父親も萌も売り払うようなゲスな行為をしたと感じましたか?。
その少し前。萌えは事故に遭うが、体調が悪くフラフラしていて轢かれてしまったのかもしれない。直前に由宇子に責められ自分で車の前に飛び出したのかもしれない。
そもそも萌はどんな子ですか?。悲惨な生活環境に苦しみながらも必死に勉強しようとする良い子ですか?。それとも大人をうまく利用し利益を得ようとするゲスい子ですか?。
これらは全く逆の真実であり、観る人によって変わってしまうのだ。
あるのは「萌が事故に遭った」や「由宇子が萌の父親に告白した」という事実だけだ。
見えているものがそのまま事実なことはかわりないが、その裏に潜む真実は誰にも分からないのである。
こんな調子で遡って考えていくと、あらゆるところで両極のニつの面が見えてくる。
萌の父親は短慮で暴力的な悪い人なのか。もしかすると実は温厚で娘想いの人かもしれない。
由宇子の父親がした行為の真相は父親本人が語ったことと違うかもしれない(相手が高校生なのでいかなる理由でもアウトだが、それを考慮しないならば)。
更に遡れば、由宇子が手掛けている女子高生自殺事件のドキュメンタリーも何が真実なのか全く分からないと言ってよくなってしまう。
私はドキュメンタリー映画はあまり好きではない。ほとんど観もしない。なぜならドキュメンタリー映画とは本物の映像を使って演出された嘘の物語だからだ。
さも真実であるかのように演出側の意図通りに誘導されるジャンルだからだ。
中には真実をありのままに描いている作品もあるだろう。しかしそれはドキュメンタリー映画ではなく「報道」である。
つまり逆に言えば、ドキュメンタリー映画とは制作側の意図が反映された嘘であるべきなのだ。
事実をそのまま伝えるのが「報道」であり、事実を使って何かを想起させようと作るのが「ドキュメンタリー映画」なのである。
それが分かっているので、偏った印象を与えられたくない私はドキュメンタリー映画を好まないのである。
更に遡って考えると、現実の世界にも同じことが言えると分かる。
情報化社会になり情報が過剰だ。中には嘘の情報まである。その中で自身で情報を精査し、なるべく正しい状態で受け取れと本作は警鐘を鳴らしているのだ。
インターネット上のある記事に対してネガティブな意見があり、その意見が八割を占める状況になっている時、ネガティブな意見を書き込んでいるのは利用者全体の2割だそうだ。
つまり、目に見えるネガティブな割合は八割でも、実際の民主主義的割合は二割ということになる。もちろん、目に見えることがそのまま真実である可能性もある。
要は、誰かがそう言っていたからとか、特にインターネット上にある意見なんかを真に受けてはいけないということだ。誰かの意見に流されることなく自身で正しく判断しろという話でもある。
終始ドキュメンタリータッチで静かな作風であったが、キャラクターの真意や真実が中々見えてこない曖昧さは不思議な不穏さを醸し出し、瀧内公美と河合優実の熱演も相まって面白く観ることができた。