もう終わりにしよう。 : 映画評論・批評
2020年9月22日更新
2020年9月4日より配信
奇想天外を超えた深遠な叙述トリックが炸裂するチャーリー・カウフマンの妄想迷宮
「マルコヴィッチの穴」「エターナル・サンシャイン」などに脚本を提供したチャーリー・カウフマンは、奇想に満ちたストーリーを生み出す才人として脚光を浴びたシナリオライターだ。ところが2008年の初監督作「脳内ニューヨーク」を発表後、映画界のキャリアが途絶えてしまう。精神不安に苛まれる舞台演出家が、完成の見込みのない壮大なプロジェクトに没頭する姿を描いた同作品は、“奇想天外”の陰に隠れていたカウフマンの憂鬱な本質が剥き出しになり、娯楽性やカタルシスが欠落した難解映画と見なされた。
人生は常にうまくいかない。人間は孤独で悲しい生き物だ。自分はいったい何者なのか。そもそも生きることの意味って何だろう……。こうした根源的なテーマと対峙するうちに出口なき迷宮にさまよい込み、現実と虚構の境界さえ失われていくカウフマンの自己探求的な物語は、ひたすら内向きのネガティブな感情が渦巻き、およそ万人向けとは言い難い。それでもカウフマンは2015年の人形アニメ「アノマリサ」で復活を果たし、ついにはこのたびNetflixで12年ぶりの実写監督作を撮り上げた。
ディナーテーブルの前に虚ろな顔でぽつんと座っている女性のビジュアルと、「もう終わりにしよう。」という意味深なタイトル。カウフマンのファンならずとも「この女性は何を終わらせようとしているのか?」と好奇心をかき立てられずにいられない最新作は、冒頭シーンでひとつの答えを提示する。彼女は倦怠期に差しかかった恋人ジェイクとの関係を“終わらせる”決意を固めているのだ。しかし、まもなく観る者は何かが変だと首をひねるはめになる。なぜ彼女は、別れるつもりの彼氏の両親に会いに行くのか。ジェイクの実家へ向かう車中で、とめどもなく続くふたりの会話につきまとう奇妙な違和感。やがて目的地に到着し、いかにも怪しげなジェイクの両親が姿を現すと、幽霊屋敷か、はたまたパラレルワールドのごときその家では時間感覚までも狂い出し、サイコホラーのごとくカウフマン的フィクションの歪みが猛威をふるう。
何しろ並の“奇想天外”をはるかに超え、多層的な叙述トリックが仕掛けられたネタバレ厳禁映画なので詳細は書けないが、“妄想”という最重要のキーワードを記してもルール違反にはなるまい。膨大な量の引用や伏線がちりばめられた本作を、すべて理解するのは至難の業。しかしクライマックスの意表を突いたミュージカル・シーンの果てのエンディングには、「もう終わりにしよう。」という題名の本当の答えが待っている。人生とは、人間とは、そしてこの映画はいったい何なのか。静謐で、厳かで、恐ろしくもあるラストシーンは、しばし私たちをもカウフマンの深遠なる心の迷宮に封じ込めるのだ。
(高橋諭治)