ノマドランドのレビュー・感想・評価
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「独りよがり」に見えるノマド生活。
◯作品全体
さまざまな経緯があって家を持たないノマドたちは、短期間雇用の労働者として職を探し、転々と生活場所を変えなければならない。衰えた体とも向き合わなければならず、なかなか見つからない職を探しては日々の生活を乗り越えていく。序盤のドキュメンタリーチックなストーリーとカメラワークは、自由人に見える彼らたちの「つらい現実」の側面を切り取っているように見えた。
だからだろうか…主に後半で語られる主人公・ファーンがノマドでいる理由が、ノマド以外の選択肢がないからでなく、「夫と過ごした地が忘れられないから」、「親族とそりが合わないから」であるということに、「独りよがり」という印象を受けた。別の選択肢が提示されたうえで「自分が選択した現実」であるならば、そこに悲壮感を持たせるのは演出のミスリードだと感じる。孤独を強調するように登場人物と距離があるカメラワークや、車上生活の寒さやつらさを象徴した寒色に覆われた画面は「前を向いて生きるファーン」を映すというよりも、つらさが強調されているような気がしてならない。なぜその空間に居続けるのか、という部分を語られなければ、そのつらさが理不尽に映るだけだ。
ファーンの行動は前向きなものが多いが、車上生活をする上で必要なスキルを習得しようとしなかったり、その結果として周りの人に修理代を無心する姿は「自分が選択した現実」に挑む姿として一貫性がなく、「独りよがり」の印象を強くするだけのエピソードだった。演出意図としては自分ではどうすることもできない状況を作って、理解者である姉と接近し、ファーンの過去や考えを掘り下げたかったのだと思う。しかし、自ら親族と雰囲気を悪くし、姉の希望にも応えようとせずお金をもらって帰っていく姿は「独りよがり」だ。ファーンは夫や安住の地、そしてノマドの仲間たちから取り残され、「独りぼっちになる」という演出が多々ある。仲間が乗ったバンを見送るシーンを何度も見せているのがその証左だ。しかし、姉から「ファーンがいなくなって寂しかった」という告白があり、ファーンも「独りぼっちにさせた」一面があったという構図は膝を打ったが、結局それをないがしろにして姉から去っていく展開は、やはり「独りぼっち」ではなく「独りよがり」の存在に映る。
独りで放浪しつつ夫と過ごした思い出の地を眺め、今までと同じように車を走らせる姿は虚無そのものだ。凝り固まった「独りよがり」をそのままに、どうにもならなければ姉のもとへ行き、再び放浪することを繰り返す。自分を必要とする場所=居たい場所ではないというのはわかるけれど、自立しなければ「定職につかず、貯金もしないが親を頼って生きる子供」とやっているのことはかわらないのではないか。若ければ夢を見れるが、老人がそれをやっているのでは、やはりそれは虚無だ。しかしその虚無も姉に手伝ってもらっての虚無なのだから、偽りの虚無に感じて冷めた目で見てしまう。
救済措置があること前提で高リスクな生活を望んで過ごす様子は、さながらバンジージャンプのようだ。そう感じてしまうと、本作で描かれるノマド生活は「リアリティ」と「フィクション」、どっちつかずに見えてしまう。
◯カメラワークとか
・コントラストが弱い画面は風通しの良いアメリカの景色とよく合うな、と思った。孤独の演出としても使えるし、自由の演出としても使える。歴史も浅いから急造の街に嘘くささがない。
◯その他
・個人的な好みの話として、ノマドとしての生活を描写するのであればドキュメンタリーを撮ればいいと思うし、ノマドを通したドラマを撮りたいのであれば過酷な場所に身を置く主人公の覚悟が見たかった。自ら身を置いた生活の中でもそれを徹底できない中途半端さは人間臭いし、それはそれでちゃんと人間を描写してるとも言える。見たくないものを見せてくれるのもそれはそれで映画の良いところだけど。
ブラック&ホワイト・モーターハウス・ダイアリー
スタンリー・コーエン、ローリー・ティラー『離脱の試み』では、ヒッピー文化の崩壊の一端が記述されていた。彼らヒッピーは、日常生活のルーティンからの脱出を望みヒッピー生活を始めたが、結局、ヒッピー生活のルーティンを逃れることはできなかった、と。
そう、人間はどんな生活をしても、ルーティンから逃れることはできない。と言うか、人の生活とはほぼルーティンの繰り返しだろう。『ノマドランド』では、企業の倒産で企業城下町の社宅から放逐されたファーンが、キャンピングカーで漂流のノマド生活を始める。彼女は、ある意味で社会から見放された存在だ。しかし、「現代のノマド(遊牧民)」として意志的に生きる決断をしてもいる。自由であるが、不自由でもあり、ルーティンもやはりつきまとう。だが、ファーンはノマドをやめない。
高齢である彼女には過酷とも見える季節労働や極寒の車上生活。「RV節約術」を提唱し、ノマドの集会を開いているボブ・ウェルズの下に大勢の車上生活者が参集するが、しかし持続的な相互扶助のコミュニティを形成することはない。英文学研究者の北村紗衣氏は「アメリカの伝統的なホーボー文化への憧れ」という文脈を指摘している。厳しい自然や生活が描かれるが、同時に奇跡のように美しい自然の姿も現れる。そこでは、西部開拓のフロンティア・スピリットが一瞬蘇るかに見える。しかし、現代資本主義というシステムは、フロンティアを自ら呑み込んだ怪物だ。
見田宗介は『現代社会の理論』において、システムは「必要の地平」とは無関連に離陸する、と説明している。現代のノマドもシステムの軛からは脱せない。車が壊れて修理代がないファーンは、遠ざかっていた家族に金を借りに行かねばならなかった。
本作は、ただ悲惨なだけではない、主に高齢者のノマド生活を描きながらも、たとえば新自由主義的に振り切った社会の実相をまざまざと見せつけてもいる。会社が消えれば、まるごと町ひとつがゴーストタウンとなる。そんな社会のささやかな「外部」は、希望なのか、否か。
クロエ・ジャオという才能を思う
クロエ・ジャオの才能に前作『ザ・ライダー』でぶっ飛ばされた者としては、いささか呑み込みにくい映画ではある。『ザ・ライダー』でも取り入れていた、自然の中に素人の俳優たちを置くというアプローチがここでも功を奏しているから。ただ、『ノマドランド』は先に原作があり、映画化権を取得したフランシス・マクドーマンドから依頼されて監督に就任していることもあり、企画をどう料理するかという試行錯誤の中で、得意の演出アプローチに寄せていったように感じる。というのも、同じリリカルな大自然の描写も、ただただ詩的であった『ザ・ライダー』と比べると、より理屈に裏打ちされた表現に見えてしまう。いい悪いの問題ではなく、受ける印象として、前作の表現の方が純度が高いのだ。
もちろんジャオは、プロの監督としてオファーを受けて、自分の得意分野の中でいい仕事をしたに過ぎない。上記のような戸惑いは、ジャオの過去二作を観ていない観客にはまったく関係のないことだし、別にわざわざ予習復習をして比較する必要もないことだと思う。『ノマド』はいい映画だし、実際高く評価されていてアカデミー賞も狙えそうだけど、個人的には『ザ・ライダー』も観て欲しいですという気持ちを、もしこれを読んでくださる方がいらっしゃるなら、ひっそりとお伝えさせてください。『ノマド』が気に入った人にも、少し座りが悪いと感じた人にも、本当におススメですので。
(どうしても一件、これも好き嫌いの問題かも知れませんが、『ノマドランド』の音楽はちょっと饒舌すぎて、大切な瞬間を時々ぶち壊しにしているように感じます。もったいない。)
とてもじゃないが、ノマド暮らしはできそうにない
旅をしながら生活する、なんて聞くと格好良いが、愛する夫が亡くなり、夫の愛する街が国によって閉鎖され、やむを得ずの放浪の旅である。
それも古いバン旅用に改造したものの、新しいバンを買う方が安いくらいの価値しかなく、修理するお金もままならないで妹にお金を借りるほどギリギリの生活。怪我や病気になって働けなくなったら簡単に詰むだろう。
なんといっても排泄物の処理がバケツという時点で、マド暮らしは自分には無理寄りの無理だと痛感した。トイレないのは屋根がないのと同じくらいきつい。
女性監督の映画だからか、女性の一人旅というと無駄なセクシーショットが挟まれたりすル琴も多いのだが、そういったシーンが一切なくて安心する。無理に綺麗に見せようとしない自然そのままのくすんだ空と海が美しい。
主人公のファーンは前向きではコミュ力も高く、どこへいっても他のノマド仲間ともそこそこ上手くやれている。60過ぎて体力的にきついだろうアマゾン倉庫の仕事も懸命にこなしている。妹やノマド仲間など、彼女を気にかけてくれる人も多い。
ファーンに好意を抱いているノマド仲間の男性も、息子夫婦の家で孫の世話をしながら、一緒に住まないかと誘ってくれる。息子夫婦も了承済みでいい人達のようだ。ここに留まったら屋根のある生活が出来るし病気や怪我したときに頼れる人も居る。それでもここは自分の場所ではないとファーンはまた旅立つ。
かつて夫と暮らしたフェンスで閉ざされほこりまみれになった砂漠の家を眺める。
もう帰る家が亡いことを再認識し、彼女はまた旅に出るのだ。
存在証明の根拠
ノマドの人々の暮らしや望みなどを大量消費社会と対比させながら描き出す本作は、ドキュメンタリーのような映像とフランシス・マクドーマンドの好演により中々見ごたえのある良作だった。(眠くなった人も多いようだが)
クロエ・ジャオ監督はMCUの「エターナルズ」も観たけれど、何でも撮れる人ではなさそうだ。本作のような地味なしっとり系だけが抜群にマッチするように思えた。
ノマドの人々と大量消費社会の対比とすでに書いたが、過剰な消費をしないノマドの人々は、特に大量消費社会を毛嫌いしているわけではないし、むしろその社会の隅っこに間借りしないと生きられないことろが面白い。共存している感じだろうか。
ほとんどのパートをこの対比であり共存でもある描写に費やしているが、物語の焦点となるのは、なぜノマドをしているのか?である。
人によって理由は様々だ。過去から逃げたい人、縛られる生き方を嫌う人、目的のためにあえてそうしている人、他に選べることがなかった人。
そんな中で、フランシス・マクドーマンド演じる主人公ファーンの理由とは?が物語の軸となる。
多くの人はアイデンティティの証明に血統か土地を使う。誰々の息子誰々とか、どこどこの誰々などだ。日本の時代劇が分かりやすい。〇〇藩井坂兵庫が嫡子左門、などと名乗るのがアイデンティティの証明だ。
では、ファーンのアイデンティティの根拠とは何だ?。ファーンは、この土地と、夫の妻であったことがアイデンティティの根拠だった。
しかし、住んでいた町は町ごと消滅。夫は亡くなってしまった。
それでもその残骸にしがみつこうとする行為がノマドなのである。
人によっては古いアイデンティティを簡単に捨て新しい自分になれるのだろうが、ファーンはそうではなかった。
町を捨てることは夫との思い出を捨てる行為のように思えたかもしれないし、それを捨てることは自己の消滅を意味したのかもしれない。
物語は、過去のアイデンティティの消滅を恐れるファーンに、新たな拠り所が生まれるものだ。
新しい自分を鮮明に描けるところまできている。あとはほんの少し手を伸ばすだけ。
彼女の選択は曖昧なままエンディングを迎える。今までの選択の再確認なのか、過去との惜別なのか。昔、夫と二人で暮らしたであろう廃墟となった社宅から外へ出ていくファーンの姿は、何を選んだとしても、とても尊いものに見えた。
なんと逞しい
60代女性が自由な人生を求めて突き進む
なんという勇気
なんという逞しさ
なんという誇り高き生き方
決して真似の出来ない潔い選択に脱帽する
生きるとは何か
幸せとは何なのか
何度も考えさせられる映画である
実在するノマドが出演しているのも興味深く、リアルさが爆上がりする
過酷だとはいっても「季節労働」なるものが存在し成立するところがアメリカっぽい
ファーンがノマドになるきっかけとなったリーマン・ショック
それと同じクラスの大激変が日本に再び起こり得ないとはどうしても思えない
すぐそこにまで来ている気がする
そう!明日は我が身
でも、こんな生き方を選択する日本人は一体何人いるのだろう
せめてこのファーンの最後を知りたい
どうか満足の人生であって欲しい
そう願わずにはいられない
原作の日本語訳があるのなら読んでみたい
どう見れば良いのか
主人公の女性をはじめ、登場人物は資本主義に振り回された被害者であることは間違いない。
それでも登場人物はアクティビティに参加したり、動物園に行ったりなど人生を謳歌しようとしているシーンも少なくない。
自分の生き方を悲観的と思わず前向きに生きようとしている姿にカッコよさを覚えながらも、どこか「無理しているのでは?」という意地悪な見方をする自分もいた。
作品の緩やかさと切なさが入り混じった雰囲気は好き、
シンプルに美しい「ゆきてかえりしものがたり」
これはすばらしかった。
「多様性」という言葉は、世の中にあふれており、陳腐化している。
本作を評価する時には「多様性」という表現を使わざるを得ないのだが、ネガティブなニュアンスではなく、本来そうであった、ある種の懐の広さを示す表現として受け止めてもらえたらよい。
監督が中国人のクロエ・ジャオであること。扱っている題材が、ノマドと呼ばれる漂流民の日々と描いているということ。さらに、そのノマドの人々がおもに老人であること。このように、いわゆるメインストリームではない要素が多々ある。メインストリームなのは、プロディースと主演をつとめたのが、アカデミー賞ではおなじみのフランシス・マクドーマンドであることくらいか。
本作がアカデミー賞を受賞した当時は、オスカーの受賞者が白人ばかりだという批判を受けていた頃でもあり、その批判をかわすために賞を与えたような印象もあった。実際そうだったのかもしれないが。とにかく、オスカーを受賞したことで、逆に本作の価値に泥を塗ってしまったな、と、鑑賞後に思った。本作は、オスカーを取らずに、ただ、すばらしいインディペンデント映画であったほうがよかったのにと思う。
物語はシンプルだ。
巨大企業の工場があるおかげで栄えていた街からスタートする。
工場が閉鎖され、町そのものが立ち行かなくなる。
主人公のファーンは、自分のヴァンに荷物を積み込んで旅立つ。
行く先々で働いたり、人に出会ったりする。その多くはファーンと同じノマドだ。彼らはほとんどが高齢者だ。
ノマドの老女は自分が癌におかされていて、もう長くないと語る。
しかし、旅の中で出会った美しい風景を前にすると、自分はもう今ここで死んでもいいと思えるのだと語る。
他の老人は、ノマドは別れ際に「また会おう」と言葉をかわすという。「さようなら」とは言わない。そして、かならず再会する。それは、相手が死んだとしても、再会するのだ。
ファーンは旅を続ける。
旅を続けるときは、基本的にヴァンの後方からカメラが撮っている。しかし、最後のほうで一度だけ、前方から撮影しているショットがある。
このとき、ファーンは旅をはじめた町に戻った。
ドキュメンタリー風のインディペンデント映画でありながら、多くのエンターテイメント作品が採用している、行きて帰りし物語の構造になっていた。
話を戻そう。いや、話を戻すというのはこのさい適切な表現ではないかもしれない。むしろ、話を循環させよう、というのが適切だろう。
ファーンは町を離れ、ふたたび旅をはじめるのだ。
ノマドライフが本当の人間の生き方なのだ、という映画ではない。
屋根のある家に住む人も、そうでない人もいる。
本作で描かれるノマドライフは、過酷で不自由だ。ただ、彼らは屋根のある家に住む、という選択肢を与えられていないわけではない。みずから、ノマドライフを選んだのだ。そして、そこに自分の人生を見出した。
本作で語られるのはノマドとして生きる人々の生と死だ。人生、というよりは死生観というほうがしっくりくる。人は誰もが死ぬ。愛した人の死をどう受け入れるか。もしくは自分にも、遠からず死は訪れる。「それでも世界は美しい」と言える生き方をしているだろうか。
本作は製作費7億5千万円以下。世界での興行成績が59億円。30億円以上が大ヒットの基準だというから、本作の内容からすると、正直信じられないほどのヒットだ。申し訳ないが、誰が観たんだろう、と思う。
それはともかく。こういった良質な映画がまだ作られているという事実をうれしく思う。
日本の終身雇用は良かった。アメリカンドリームは枯渇した
日本の少子高齢化社会と同じで、
これから訪れる問題と言うよりも、既に深刻化している問題を描いている。
単なる老人の問題ではないので、注意すべきだ。
勿論、ノスタルジックな見方も出来ない。
映画を見終わって思う事は、
社会問題なのに、解決策を提案していない事。日本映画の『PLAN75』と同じ。
この映画で描く問題は3点
1.未就業者には、日本の健康保険のような物がない事
2.元々の車社会に加えて、税金がかからないので、車生活に貧困層はおちいってしまう事。(州によって住民税の様な税金がかからない場合がある)
3.能力主義ゆえ正規従業員としての雇用が無い事。つまり、終身雇用ではない事。
単なる老人の孤独とか貧困な白人社会の話ではないと判断できる。映画の途中に若者が沢山出てくる。日本でのゆるキャン△ではない。それを理解して鑑賞しよう。
昨年、ロサンゼルスに行ったが、綺麗な街だと思ったが、車が無いと生きられないと感じた。日本の様に目の前にコンビニがあると言う事が無い。
勿論、日本も能力主義に雇用形態を変えたので、健康保険がなくなれば、都会以外はこの映画と同じ状況に陥る。
それが『PLAN75』の正体だ。老人問題ではない。貴方がたの問題だ。
3回目の鑑賞になるが、
黒人の方はどうしているのか?
追記 この映画をロード・ムービーと称する方がいらっしゃるが、ロード・ムービーとは逆に放浪していた者が、一つの環境に囚われて生きている。そんな蟻地獄の様な困難を描いていると感じるが。ロード・ムービーとは題名だけ。
車上生活者の未亡人ファーンがノマド達と出会い別れ、自分の過去の思い出を乗り越える
Youtubeでキャンピングカーで旅行する人たちの動画をよく見る。自分自身小旅行をよくするし、そういう生き方をしてみたいとあこがれていたので前から見たかった。
エンディングを見終えた気分はハッピーでは無い。ファーンは悲しい思い出と共にその日暮らしの生活を続け、車上暮らしという水道代、電気代、ガス代のいらない必要最低限の生活費ながらも巨大企業での期間労働に依存しなければ生きていけない。それを見せつけられる。エンディングの後も彼女がノマドとして生きるならば、それは変わらない
ノマドになるには皆理由がある。その理由は悲哀のあるもの。ファーンはエンディングにて、悲哀を胸に懐きながら、自分がノマドとなった起点から次の新天地へ向かう。直線道路を走っていく車の後ろを見て自分は前向きな可能性を感じられなかった。視聴後に改めてその時の自分の心境を内省すると、それは今の自分に起因するのかもしれないと思った(改めて考えると、彼女はエンディングで今まで目を背けていた自分の過去の思い出を再度直視し、それを乗り越えて次へと向かったという風に取るほうが自然だと思う)。そんな自分の心境もあって、パッケージには『全世界絶賛の感動作』とあるが、感動はしなかった。エンディングの後、作中のファーンに対して思うのはノマドとして、もしくはそうでなくなったとしても幸せになる方法を模索して生きてほしい。
厳しい放浪の旅を通して人生を見つめ直す中年女性のドキュメンタリー風映画のロードムービー
ネバダ州の石膏採掘所がリーマンショックの長引く不況の末閉鎖され、エンパイアという町自体が消えてしまい働く場所と家を失ったファーンという中年女性が、夫の死を切っ掛けに小型ヴァンを改造してノマド生活を始めるロードムービー。標高4000フィートのネバダ州からアリゾナ州やバッドランズ国立公園があるサウスダコタ州、そしてネブラスカ州と愛車を長距離走らせ、年金の早期受給を拒否して採用難の中、自立した一人生活を維持するため季節労働を繰り返していく。アマゾンの巨大倉庫の梱包や国立公園の清掃員、ファストフードの厨房係や芋の収穫と、事務職や代用教員を経歴したファーンにはきつい肉体労働だが、けして挫けることはない。そこまで彼女を奮い立たせるのは何か。
ノンフィクション小説を脚色したこの物語で描かれたファーンの過去を知るヒントの一つは、車の修理に掛かるお金を工面するため姉ドリーの家を訪ねた時のエピソードにある。若い時から独立心が強く、自分の事は自分で決めてきた気骨のある性格は姉が感心し羨むほどと、二人の会話に表れている。ファーンを信頼する姉の表情が温かい。もう一つは、同じノマド仲間のデイブを遥々カルフォルニアまで訪ねて、同居を持ち掛けられた彼女が黙ってそこを去っていくところ。家にあまり居ず父親の役割を果たせなかったデイブが、今は父親となった息子とピアノの連弾をしているのを、偶然ファーンが見詰める。この間に自分が入って家族の一員としてやっていけるかを、翌朝皆がまだ寝静まった食卓の椅子に腰かけシミュレーションしている。その前日にはデイブの初孫を預けられて抱くが、どこかぎこちない。映画で説明はないが、ここで分かるのは子供を生んだことのないファーンの愛の対象が、夫に総て捧げられていたのではないかと想像できる。子宝に恵まれなかった夫婦程長く連れ添うほどに仲が良いという。理想的な相思相愛の夫婦だったのだろう。ホームレスではなくハウスレスと元教え子に念を押したファーンは、小さい時の家族写真と夫の写真を大事に車に積んで旅を続けていた。デイブら他人から見れば、夫を亡くした孤独な高齢婦人と見られるが、心の中では死んだ家族と一緒に生きていたのだ。これが、彼女の覚悟であり強さであったと思われる。しかし、映画のラストは、そんな自分を振り返ることで一つの区切りを付ける。貸倉庫に預けたものを全て処分して、過去を引きずるノマド生活から身も心も軽くした新たな人生の旅に出発していく。これからは以前には見られなかった笑顔がこぼれる生き方になって欲しい、と思わせるラストシーンだった。
クロエ・ジャオ監督は、脚本と編集も兼ねている。このノンフィクションドラマの演出の特徴は、実際のノマド生活者たちを登場人物として主人公と絡ませ、まるでナレーションのないドキュメンタリー映画を観ているかの錯覚をさせる。当然ながらその自然で飾らない演技は限りなく現実に近いものであろうし、更にドラマとしての過剰な演出を廃して、説明的なショットも大胆に省いている。淡々と話が進んでいくのに時に付いていけない時もあるが、全体のリズムを優先した手堅い演出であった。この省略で唯一心残りは、何百キロにも至る旅の困難さが映像に表現されていないこと。砂漠と荒涼とした大地の夕景は美しく撮られていて、アメリカ西部の乾燥した風土が感じられる映像の鮮明さが心に残る映画だった。
主演のフランシス・マクドーマンドは、原作に惚れ込んで制作者に名を連ねる意気込みが直に感じられる熱演を見せる。ノマドの過酷な生活描写では、排泄行為を2度程敢えて挿入しているが、女優もここまで演じなければならないのかと驚くも、特に必要性も感じなかった。氷点下の路上で車中泊する極寒の厳しさ、狭い居住空間を工夫した食事風景、常に節約を優先する放浪者仲間とのふれ合い、そして様々な肉体労働を黙々と務める姿で充分彼らの生活の大変さは説明され表現されている。演技面では、ファーンの姉ドリーを演じていた女優が短い出演だが一番印象に残る。個性の強いファーンに対して優しいだけのデイブを演じたデヴィッド・ストラザーンは、役柄で損をしていた。主人公だけを追跡したコンセプト故の人間ドラマの葛藤の物足りなさがそこにある。
この映画がアカデミー賞始め多くの称賛を得たことは素直に認めたい。経済大国アメリカに限らないであろう、平和な社会でお金儲けが人生の豊かさと経済発展してきた末の格差社会から落ちこぼれた人々にスポットを当て、その苦労を丁寧に記録した社会的役割を果たしている。この映画でノマドを知る意味は小さくない。だが、それを持って絶賛するまでにはいかなかった。再現度の高いドキュメンタリー風映画としての評価に止まる。それは人間の心の内に深く踏み込まない演出法にあるし、それ以上に、今の映画祭が表現力よりテーマ性を重要視している思想優位の偏りを感じているからである。
See you down the road
心に残る台詞がない
耳に残る台詞は down the road
心に残るシーンは夕景
朝日ではないと察する
この物語が人生の夕暮れを迎えようとする人たちのものだから
今までの人生で何かを失ったり、後悔している人々が、まるで自らに生きる厳しさの試練を与えるかのように、信念を持って車での生活を選ぶ
そして希望を口にする
down the road
この映画がなぜアカデミー賞を受賞したのだろうと思う
現在の社会を映し、世の中にまだあまり知られていない人々の物語だからか
最近のダイバーシティの流れで選ばれたと思われるアカデミー賞の映画は、自分の中でも共感するものと、受け入れがたいものに分かれる
どちらも心に刺さるものではある
それは分断される社会のどちら側の人にも何かを伝えようとする試みなのか
家族を失った高齢者のロードムービーという観点で似ていて、豊かな国でこんなことがという衝撃は、日本映画「星守る犬」の方が大きかった
この映画を思い出してしまって、前向きに生きるというメッセージが受け取れなかったことを差し引いても、すっきりしなかった
心に染みる
2021年、最後の観賞作品
ドキュメントをみている感覚にさせられた
『先生はホームレスになったの?』
『ホームレスじゃなくハウスレスよ』
主人公はどこにいきたいのか?
彼女自身もきっと分からない
心に染みる作品でした
新しい価値観を与えてくれる作品。 ノマドという車上生活を通してアメ...
新しい価値観を与えてくれる作品。
ノマドという車上生活を通してアメリカの各地を旅し、生活は各所で行うバイトで賄う。自然豊かな環境とリアルな生活模様に圧倒された。
登場人物が皆温かくて、心も温かくなる。ただ、ノマドはマイノリティだからこそ、家を持って生活する人には全く理解されない辛さも感じた。当人にとっては親切心だし、ファーンもそれは分かっているからこそ切ない想いに駆られた。
人生には様々な選択肢があってしかるべきだと思うが、ノマドという生き方はファーンが時々見せる虚しい表情がとても印象的で自分にはこの生活は無理だなと感じた。
自然が呼んでいる
のっぴきならない事情でノマド生活を余儀なくされているのかと思ったら、必ずしもそうではない。スマホも持っているし、タバコも吸う。ぎりぎりまで切り詰めているわけではなさそうだ。
実は身寄りもいて、定住生活ができないわけではないということがわかってくる。帰るべきところがないホームレスなのではなく、家を持たないという選択をしたハウスレスなのだ。実の姉からと、ファーンのことを憎からず思っているデイブから、二度の定住生活の誘いを断って旅を続ける。
彼女をノマドであることの誇りなのか、意地なのか。
ただ心奪われる絶景の大自然の中で生きていたいだけなのかもしれない。
様々な要素が詰まっている映画
終活…旦那に先立たれ、父から貰ったお皿を大切にしていたり、彼女の人柄を感じます。
物にも魂って宿るなぁと感じました。
歳を取るということ…体の自由がきくうちは、自分がどんなふうに生きていたいかを実現できるけれど、元気なうちしか出来ない。
ジェンダーの壁も感じだけど、これはどんな環境でも同じなので省きますね。
一人の気楽さと寂しさを受け止めて生きるということは年齢や環境に関わらず皆、同じなのかもしれない。
季節労働の虚しさも感じました。Amazonは賢いなぁ。上手に人を巻き込むビジネスを今後は考えるべきなのだと思いました。
家族を持つこと、人と助け合うこと、自分の信念、お金
このバランスがうまくいく人って本当に数限られてるだろうなぁと思いました。
そしてフランシスのオスカー女優賞は当然だとも思いました。
トイレのシーン、川でのシーン。表情と心情が伝わってきたし、隣人に優しくする姿は彼女の日常がわかるなぁと思いました。
隣人に親切であることは忘れてはいけないと感じました。
自分の居場所、生き方…
に尽きる映画。画面も曇り空が多く、寒く、笑うシーンはない。当初、夫に先立たれ、車上生活を余儀なくされた孤独な高齢女性の貧困問題を扱う映画だと思っていた。確かにノマド生活を送っている人々の多くはそうなのかも知れない。いや、確かなことは言えないし、そもそもノマドという言葉も、そういう人々がいることも知らなかった。しかし、フランシス・マクドーマンド演じるファーンは自らの意思で、流浪の旅をし続ける。働き先を変えながら、そこで出会った仲間とずっと一緒にいるわけではなく、互いに別れ、またどこかで出会いを繰り返す。姉に一緒に暮らすよう言われても、旅先で出会った男性から共に住むよう誘われても、自分の居場所は違うと断ってしまう。普通なら将来の不安から、定住、温かいベッド、食事、風呂、何より落ち着く家、家族がほしいのだが。。彼女にとっては亡くなった夫と、共に暮らした家のみが暮らせる場所だったのか。出演者の中には実際にノマドをしている人もいると言う。映画としてはこういう人々もいるんだなぁと思ったくらいであまり共感はできなかった。
アメリカの景色がキレイ
あまり難しいことはわからないので書かないけど、アメリカの広大な路上の風景が美しかった。その美しい景色の中で一人で生きている主人公の孤独が痛切に感じられた。何が孤独かって、人と一緒に同じ場所で暮らす機会があったのに、彼女はそれを選ばなかったこと。人との繋がりを求めていないわけではないが、どうしても同じ場所で一緒に暮らしたくはない。この矛盾は何か詩的な創造ではなくて、監督らが伝えたかった人間の現実の一側面なのだと思う。映画としては静かで目新しいものは無いかもしれないが、美しい景色を見ながらジワリと何か深い人間性を感じさせる作品だった。
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