ノマドランドのレビュー・感想・評価
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不可視な存在のさらに不可視な存在
アカデミー賞に多数ノミネートということで鑑賞。
女性のハウスレス(ホームレス)で高齢労働者といった周辺化される人々の中でもさらに周辺化される人を主人公にすることと資本主義経済の限界を描いたのが受けたのだろう。
ただ実際のノマドをキャスティングしてたなんてクレジットタイトルみないと分からなかったし(それだけ実際のノマドが物語に溶け込んでた。すごい)、風景もすごい美しかった。音楽の付け方もおしゃれだったな。
さらに最近注目されるギフトエコノミー(フリーマーケット)の描写もよかったな。これに資本主義経済を突破する契機があると思う。
またノマドをただ没落した人々と描くのではなく、生き生き描いているのもいいと思ったけど、それだけでいいんかな。
Amazonや工業化する農業、非正規雇用化する専門職(教師が非正規化していいのかな)、エッセンシャルワーク(清掃業)の非正規化つまり軽視で構成される社会とその社会で快適な生活を送る私たちに批判を向けなくていいのかな。まあそれは私が考えるべき問題だと思うが。
あと気になったのが主人公ファーンがノマドになる理由。故郷の喪失、夫との死別に伴う感情は簡単に理解もできないし共感もできないと思う。
ただ実家はあるし、姉は健在で仲は悪くない。好意をもってくれる人もいる。
そうするとウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』のチャンを思い出す。
チャンは香港出身であるが、旅に出てブエノスアイレスに行き着く。彼が旅できるのはいたって簡単だ。彼には香港にいつでも帰れる場所があるのだ。
ファーンもそうだと思ってる。本当に困ったらいつでも姉のところにいける。実際お金を借りているし。
そうなると本作のノマドは、資本主義経済に疲れたから自由に生きる人々、ただしもし困り事があればいつでも帰れる場所がある人々になってしまってる。
それはなんかノマドを分断している気がする。私たちが目を向けないといけないのは映画によって不可視化されるノマドな気がする。
ここらへんは、原作も読まないといけない気がする。
ファーンの横顔
ファーンの心残りが記憶に変わるまでの旅だと思った。居場所が消されてなお、夜空の下、岩と岩の間、せせらぎの中、人間の領域、地上の全てを住処とする彼女のしなやかさ。人を求め、人との会話を自身の居場所にしてしまう人懐っこさと柔らかさ。ファーンは水のような人だとも思った。いろいろな感想が次から次に出てきた。それらすべてをかみしめながら、でも、ファーンの横顔をずっと見ていたかった、と一番強く思った。
肉は無く皮膚はたるみ、深い皺がはしる半月のような横顔。実際、横顔が多かっとは思わない。けれど、夜明け前や夜になりかけの紫色の世界をうつむき加減に歩き、おんぼろ車だけど「ここに住んでいる」と真剣に訴え、フィルムを覗き帰れない時間をじっと見る。岩と岩の間を楽し気にさまよい、かつての家のキッチンに立ち、運転席でハンドルを握る。印象に残っているのは、いろんな表情を乗せる、灰色の半月のようなファーンの横顔ばかり。
それはきっと、横顔は隣に立たないと見れない顔だからかと思う。友人や親しい人にしか許されない「すぐ隣」というポジション。そこに立てた気になるから、ファーンの横顔が特別なものとして印象に残っているんだと思う。
彼女のこの旅はある意味で、住んでいた街が消されて、家族との思い出も友人たちも街への愛着も心に重く残したまま旅に出ざるを得なかったファーンが、そのわだかまりと喪失感を、消えやしないけど思い出としてしまい込むまでの、記憶として消化するまでの時間だと思う。彼女がスクリーンに横顔を見せるたび、観客である私たちは「いち友人」として隣に立って旅をしている気分になる。だから、彼女の横顔をずっと見ていたい。つまり、一緒に旅を続けたかった、と思うのだ。
ホームレスじゃないわ。ハウスレスなの
これぞロードムービー。
家を失い、夫を失いキャンピングカーで季節労働をしながら生きるファーン。美しくて過酷なアメリカの大自然をめぐる旅路(都会はキャンプしにくいからね)とその道すがら出会う「ノマド」の人たちが辿った人生の旅路。
どこから来たのかよりもどこへ行くのか。
身軽でいいわね、という一言にファーンの表情が硬くなる。身軽なのは物だけ。
車に積めなかったものは心に重く詰めこまれているに違いない。
フランシスマクドーマンドの自然な演技がノマドの人たちと溶け込んでいて、ドキュメンタリーのような仕上がり。
大きなスクリーンでご覧になることをおすすめいたします。
やはり死に方を考えるということは生き方を考えるということなんやな。
リンダメイはどこまで行けたのかな。
厳しくとも、矜持を持って凛と生きる
アメリカも日本も高齢者が子供を頼らず、1人で生きていくのは厳しい。年金だけではやっていけないから。 離婚や死別でさらに大変な経済状況の人も多い。高齢でも働かないといけない。
そんな人たちの中で、少しでも経済コストを下げるために家を捨て「ノマド(≒車上生活)」という生き方を選択する人たちがいる。その人達をとりあげた映画。
しかし高齢者にはトイレ掃除や工場勤務や採掘場しかないのか。。ないんだよな。
でもこの映画の老人たちは悲壮感なく、明るく働いていたのが印象的だった。時にはトイレ掃除中に我慢できない男性が入ってきたりしてムッとすることはあるけれど、総じて仲間と声を掛け合って明るく前向きに汗を流していた。「そんな仕事」と思った自分が恥ずかしかった。 気にしてない。まったく気にしてない。強い。
ソーシャルワーカーが「年金を申請すれば?」と奨めても「働きたいの。」と毅然と言い放つ。
そう、重要なのは経済上の理由からだけで選択しているのではないということ。主役のファーンは姉のところなど身を寄せれるところもある。なのになぜこの厳しい生活を選択するのか?
ファーンの姉が言う。
「あなたは変わり者と周りは言うがそうではない。単に心の声に正直で勇敢なのだ。羨ましかった。」
金や安定のために自分の本音を犠牲にしたくない。心の声に正直に生きていきたい。暖かい家と温かい餌のために我慢して檻の中で汲々として生きるのではなく、厳しいけれども矜持をもって狼のように自由に生きていきたいという信念がある。
この矜持はファーンだけでなく、ノマドの高齢者に共通してみられた。素直にカッコいい。
台詞でみせる映画じゃないが、所々に刺さる台詞があった。うろ覚えだが備忘録代わりに掲載する。
・ホームレスじゃない。ハウスレスよ。(ファーン)
・若いころは馬車馬のように働いて、齢をとったら捨てられる。(ノマドライフの指南者ボブ)
・年金が550ドルしかない。どうやって年金だけでやっていけるの?(ノマドの女性)
・夫は定年を楽しみに働いていたのに直前にガンになり亡くなった。尽くしてきた会社も冷酷な対応だった。だから今を生きると決めた。(ノマドの女性)
・どんな美しいものも、いつかは衰える。
・たくさんの美しいものを見てきた。この瞬間に死ねたら、幸せ。(スワンキー)
・この生き方が好きなのは、最後のさよならがないからだ。いつも“また路上で会おう”だ。(ボブ)
ファーン役のマクドーマンドはなんというか女性なんだけれど「かっこよい。」
スタイルがよく、また着こなしもいい。おしゃれだ。佇まいで魅せれる女優だ。
(ちょっとウィルアム・デフォーに似ている。。)
※
途中眠気を感じた。台詞の少ないロードムービーで、且つ事件らしい事件も起きないし、全編に心地よい音楽と素晴らしい風景が流れているからうたた寝するには申し分ない。ただ映画としてはあまり褒めれることではないので0.5 を差し引いた。
年老いたノマド達の矜持ある孤独
アメリカの広大な自然の中、季節労働をしてはバンで移動しながら暮らす高齢のノマド達を、静謐なタッチで描く作品。
主要キャストは、F・マクドーマンドとD・ストラザーン以外は俳優ではなく、本当のノマド達だ。彼らが雑音としての素人っぽさを全く感じさせず、マクドーマンドに引けを取らない存在感でしっかり物語の骨組みになっていることに驚いた。
一方で、物語全体にドキュメンタリーと見まごう雰囲気が漂っていて、不思議な感覚になった。役の人物が過去に背負ったものを滲ませながらリアルノマドに溶け込む、マクドーマンドの魔法だ。
原作の著者、ジェシカ・ブルーダーのインタビューを読んだ。映画への反響は、悲観的なものと、希望を感じるものと両方あるという。
鑑賞中は、大自然の美しい眺めに癒され、主人公のファーンと道ゆくノマド達との程よい距離感のある交流に心地よさを感じ、人生の暗喩のようなノマドの道行きに意義を見出せる気がした。
しかし観終えた後、私はささいで優しいエピソードの狭間に覗くあまりの孤独感に心がつらくなってしまった。同時に、終始淡白な描写でありながらこういう重い感情を惹起するこの映画の効きの強さを感じた。
ファーンは不況の煽りで勤め先や家を失い、夫も病気で亡くしている。彼女は経済的にノマドにならざるを得なかった側面があるとともに、積み上げてきた生活を時勢の流れで失い、大きな空洞を抱えた心もまた彷徨っている。
自由な人生を送るための縛られないライフスタイルというより、落ち着く場所を失った心のバランスが、絶えず彷徨うことによりぎりぎり保たれているような哀しさを感じた。
定住の選択肢が見えてもファーンがそれを選ばないのは、そんなかろうじて保たれているバランスが崩れることへの恐れや、安定した環境で何かを積み上げても、またかつてのようにあっけなくそれらが失われるともう耐えられないと思うからかもしれない。
本来は定住生活においても、永遠に失われないものなどない。ただ、安定した生活は何かを失う覚悟を鈍感にする。
流浪の生活では、別れが常に身近にある。でも、流転し続けるからこそ再会の希望も持てる。喪失の覚悟が常に出来るし、絶望は和らげられる。
ノマドの生活に本当のさよならがないというのは、無常を正視し続けることと引き換えの救いだ。そのような覚悟なしにぬるく生きている私の心に、そんな生活を選んだ老年期のファーンの修復し難い孤独がひりつくように沁みた。
美しい風景の中のラストに希望を感じるか、静かな絶望がその先も続くように見えるかは、見る側の心のありよう次第なのだろう。
誇りとやせがまん
「武士は食わねど高楊枝」という言葉が日本にはある。これは、前向きに解釈すれば、金はなくても心までまずしくなることはない、となるが、後ろ向きに解釈すれば「やせがまん」だ。大抵の人間はどちらかに割り切れるものではなく、その両方の中で心が揺れ動いてものだろう。この映画にはそういう揺れ動く気持ちが描かれている。
生活していた町が失われ、車上生活をする主人公。職を求めて転々と流浪の暮らしをつづける彼女は、ホームレスではなくハウスレスだという。同じような生活をする人々が、そのような自由を求めて生きる「ノマド」と呼んで誇らしく装って見せる。ある人はノマド生活から家族の家に戻り快適な暮らしを手に入れる。ノマド時代より、明らかに健康そうで幸せそうだ。
そして、社会を捨てて生きる彼ら・彼女らは、本当に自由になれているのか。主人公は自分で行き先を決めているようで、実際には短期の職があるところを目指して移動している。アマゾンのような巨大企業は、彼女のような社会からドロップアウトした人間すら、システムの一部として組み込んでいる。
大晦日を一人で祝う彼女は、自分を卑下しない。格差の下に追いやられても誇りは失わないのは、人間として立派だ。しかし、やせ我慢も明らかに混じっている。混沌とした感情が叙情的な映像で綴られる。礼賛も格差批判もこの映画にはピタリとはまりにくい。この映画は、主人公とともにやせ我慢と誇りの両極を一緒に揺れるように観るのがいいんだろうと思う。
Worthy Transcendental Cinema
Nomadland might not have meant to be the critical hit it was, but in a worldwide crisis, the character central to this story doesn't feel so far off. There isn't much story to extract here--rather it's a day in the life on the road comparable to journey in Into the Wild. Zhao's editing is the best part, providing snippets of everyday life--making you believe your own world could be a hit movie.
静かなる圧倒。時代の変わり目に立つ一作
静かな圧倒が押し寄せ続けた。観る者の人生や価値観を揺さぶる、忘れがたい2時間だ。本作には都市部やビル群がほぼ姿を見せない。登場するのは延々と続く道。天然の石、大自然の公園、恐竜のオブジェ。その渦中で、人は誰かの生き方に合わせる義務もなければ、貨幣経済に縛られる必要もない。眼前に広がる果てしない風景は時に寂寥感に覆われることもあれば、希望を感じるほど光に満ちることもある。大切な皿はいつか割れて大地の一部と化す。その全てを抱きしめながら、自らの手で選択を重ねて、アメリカ国土を移動していく主人公。我々もまた旅路に沿って、彼女の心の内側を、まるで地層ふかく降りていくかのように自ずと受け止めることとなる。そこで芽生える、表現しようのない共振。そういえば『ミナリ』もどこか「開拓時代」を思わせる物語だった。何かが確実に変わり始めている。時代と映画との鏡面性を、これほど強く意識させられたことはかつてない。
切実な事情とある種の悟りが、現代の遊牧民を生む
フランシス・マクドーマンドが演じるファーンは創作されたキャラクターだが、彼女が流浪の先々で出会う車上生活者たちは本人が自分の名前で出演している。“出演”という言葉も適切ではなく、彼らはただ、カメラの前でありのままの自分で存在し、ファーンとの対話の中で自らの人生や暮らしぶりについて語る。クロエ・ジャオ監督はノンフィクション本をベースに、ドラマとドキュメンタリーを組み合わせたハイブリッドな映像作品を生み出した。
ファーンは夫に先立たれ、リーマンショックの余波で住み慣れた家も町も失い、キャンピングカー暮らしをスタートさせる。Amazonの商品倉庫での仕分けや、オートキャンプ場での雑用など、短期労働で当面の生活費を稼いではまた移動する生活。実在する現代のノマドたちも出発点はたいてい切実な事情だが、家や土地、地縁に縛られない生活は、近代の管理社会で私たちが自明のように受け入れてきたさまざまな束縛からの解放を実践している面もあり、ある種の悟りの境地に達しているようでもある。ファーンに誘われてアメリカ西部の荒野、森、海といった広大な大自然を目にすることで、この地球上にたった一人で立つ感覚を少しだけ取り戻せるはずだ。
「ホームレス」と「ハウスレス」は違うということを「ノマド」から学べるロードムービーの傑作。
私は本作を2020年9月のベネチア国際映画祭で金獅子賞(最高賞)受賞の際に知りました。その際、メイン画像を見たら条件反射的に「あ、これはアカデミー賞にノミネートされる作品だ」と察しました。というのも、名作「スリー・ビルボード」でアカデミー賞の主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドが雰囲気良くドーンと出ていたからです。
その後、本年度アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞、脚色賞、撮影賞、編集賞と主要6部門でノミネートされました。
ただ、実際に作品を見てみたら驚きました。「スリー・ビルボード」とは全く作風が異なっていたからです。
どちらもシリアス系ではありますが、「スリー・ビルボード」はセリフの応酬などが本当に魅力的な作品でした。その一方で本作「ノマドランド」はロードムービーの良作でした。
次に驚いたのは、本作のベースは「ノマド 漂流する高齢労働者たち」というノンフィクションが原作となっていたことです。
日本だとピンと来ませんでしたが、アメリカの場合は地方の大企業が破綻すると、郵便番号さえも無くなるなど、文字通り町が消えてしまうようです。
そしてフランシス・マクドーマンド演じる主人公は、長年住み慣れた住居を失い、キャンピングカーを住居として生きていきます。
ここで大切なのは、いわゆる「ホームレス」ではなく、あくまで「ハウスレス」だということ。
この2つは、一緒にされがちですが、実は異なっていて「ハウスレス」は「経済的困窮」を意味していて、 「ホームレス」は家族、友人の絆が切れた人々のことを意味しています。
つまり、「経済的困窮」のため季節労働の現場を渡り歩きながら車上生活を送っているわけです。
この「ノマド(遊牧民)」の多くは高齢者で、悲しみや喪失感を抱えています。
ただ、ノマドの良さは、別れ際に「またどこかの旅先で」と、人々との絆が切れない点にあります。
このように本作は、ノマドという世界で大自然の映像美と共に人々の交流や生き様を描いた名作となっているのです。
大都会の片隅で生きる人々にお勧めしたい"ハウスレス"という価値観
昨秋、ヴェネチアとトロントの各映画祭で最高賞に輝いて以来約半年、その間、配信系の有力作が次々と参戦して来たが、依然として賞レースを先頭で引っ張るパワフルな1作。筆者もこれを観てから3ヶ月以上経つのに、頬を撫でるような映画の空気感はいまだ皮膚にこびりついたままだ。ヒロインのファーム、及び登場するノマドたちの、家に定住せず、かと言ってホームレスではない"ハウスレス"な生き方にも大いに触発される。我が家に住まい、定職に就き、家族と共に生きる人生はそれなりに価値はあるだろう。でも、たとえ家を持たなくても、仕事は行き当たりばったりでも、孤独でも、いつも心の中に家族の記憶を留めたまま、荒野を流離うことの潔さに、不意を突かれた気がするのだ。もしかして、定住することの方が、返って変容を余儀なくされているのではないか?という疑問に駆られるのだ。だから、これは我々に家族との関係性について再考を促す、偶然とは言え、コロナ禍に現れた観る必要がある映画。大都会の片隅で、1人淋しく故郷を思いながら過ごしている、日本のどこかにいるに違いない人々に、心からお勧めしたい。
テレンス・マリックの後継者たる女流監督による名作
アメリカには、定住しないノマド生活を好む人がけっこういるんですね。凄く興味深かった。エンドロール眺めて気づいたのは、キャストの役名がリアルな実名だったこと。ほとんどの出演者は、俳優じゃなくて一般人なんですね。主演のフランシス・マクドーマンドは、プロデューサーも兼ねています。彼女がどうしても作りたかった映画だとお見受けしました。オスカーの最優秀主演女優賞は最有力でしょう。
クロエ・ジャオ監督の映画は初めて見ましたが、映像でポエムを詠む感じが素晴らしい。彼女のインタビューを読むと、テレンス・マリックからの影響について語っていますね。なるほど、納得です。撮影監督のジョシュア・ジェームズ・リチャーズの名前も覚えておこう。
アマゾンプライムがしつこいほど、勧めるから…
アマゾンプライムのおすすめにしつこいくらいでてくるものだから、根負けして鑑賞した。
始めの場面でアマゾンで働く姿がでてくるので、そういうことかなと思ったけど、この映画はアマゾンの宣伝になったのだろうか?
貧困のゆえに、車上生活をせざるおえない人々を描いた映画で、アメリカ社会の矛盾をつくものだと感じていたけど、話しが進むにつれてそれだけではないように思えてきた。
アメリカでは、開拓精神と呼ばれる、自己責任論的が根強く、皆医療保険すらない社会では、ノマドと呼ばれる、このような人々は負け犬と見做され蔑まされてしまうのかもしれない。
だから彼らの名誉を守るため、またアメリカ社会で共感を得るために、普通の暮らしを望めばできるが、あえて、ノマドを選んだ、誇り高き遊牧民的精神の人びと的な描き方をしているのだろう。
主人公に心を寄せる初老?の男性が、急病で入院、手術を受けるシーンがあったが、支払いはどうしたのだろうと思った。車上生活者に、そんな高額医療費を払えるはずがないし、病院も相手にしてくれないだろう。結局は、サブプライムローン不動産で大儲けした息子夫妻に援助を頼んだのだろう。そして息子が迎えにくることになった。彼は、普通の暮らしをすることはできたが、あえて、ノマドを選んだということを言いたいのだろう。
主人公もきっと、旦那の闘病生活で、貯えをすっかり吐き出してしまい、今の生活になってしまった。でも、姉に頼れば、普通の暮らしは十分可能だったが、あえて、ノマドという、誇り高い?生活を選んだということを言いたいのだろう。
異民族の寄せ集め国家のメンタリティーは日本人にはわかりにくい。映画は、かっこよくまとめたけど、本質はどうなのだろうか。自分には、拝金主義のアメリカというイメージが強いけど、実は、そんなことはないということを描きたかったのか、それとも、拝金主義に対する大いなる皮肉なのか。
アマゾンは、貧しい人々に職を与えていると前向きに考えるか、安い労働力で大儲けしていると見るべきなのかどちらだろう。アマゾンプライムがしつこいほど進めるし、アマゾンが撮影を許可したところをみると、アメリカでは、前者の考えが主流なのだろう。
原爆投下をいまだに正当化する人が多い社会だからね、力(お金)が正義ということなのだろう。
人生いろいろ
心に深い傷を負って、どう癒せばいいのかを迷いながら
旅をする(トレーラーでノマド生活をする)女性の話。
人生に迷うのはいつかわからないし、
ゴールはどこかなんて誰にもわからないし、
すごく気張って、強がって生きるのが
少し切なく、でもファーンらしく
いろんな生き方があるのだなという事実を突きつけられた作品だった。共感はしないけど理解はできる。
「答えは、なかった」
アメリカの純文学作品
起承転結はないに等しい。
取捨選択
何を選ぶのかは自由
選んだのは、そうしたかったからではなく、消去法だったのだろう。
そもそも何が正解なのかはわからない。
でも、「そうじゃないと思う」からそうしただけ。
ノマド 家のない人のこと
石膏採掘場の倒産によってその地を離れざるを得なかった。
主人公ファンの夫はガンで死んだ。
たったひとりのままバンを家代わりにして町を出た。
短期雇用のアマゾン
似たような仲間たちが大勢いた。
彼らが心のよりどころにしている考え方は、昔のヒッピーのようにカウンターカルチャー的発想を広げている人物。
その対象が「お金」の奴隷になっている現代人
RTRという思想 その創始者
大勢で集会などをしているときは楽しいが、会が解散してしまった後の寂しさ。
バイトを転々としながらの生活
友人リンダメイの告白 余命7か月 彼女の想い出話
行く当てもない生活は、人生そのものを表現しているのだろうか。
今ではもうやるべきことさえもないし、誰からも与えらえない。
同時に、「誰にも必要とされない」ことに気づいていく。
そんなファンにも助け船がやってくる。
同じノマドのデイブ
息子が一緒に暮らそうと呼び戻しにきた。
デイブはファンに「一緒に来ないか」と誘う。
その直前、デイブが割った大切な皿。
形あるものはいつか崩れる。
現状を見つめ直すきっかけとなる出来事は、ある。
その背後にある彼女自身の大きな抵抗感
車の修理にお金が必要になり、姉に借りる。
おそらくファンは、ものの見方と考え方を変更しなさいと言われているのだろう。
しかし彼女は頑なにそれを拒否し続けた。
集まった親戚の些細な言葉に反応するファン。
「私をそんな目で見ていたのね!」
姉はファンをなだめる。
「あなたは誰よりも勇敢で正直」
ファンは思い切ったようにデイブを訪ねた。
それは、姉たちの姿を見て、屋根のある生活に戻る選択をしたデイブのことを知りたいと思ったからだろう。
温かい家と生活 息子の赤ちゃん 親子で弾くピアノ 彼の生活
ファンは「いつまでもここにいてほしい」というデイブの申し出を受けることはできなかった。
この作品の中の最も大きなシーンだろう。
ファンは用意された大きなベッドでは寝ずに、自分の車の中で寝る。
早朝見つめる彼の家。
そこにファンの姿を重ねることはできなかったのだろう。
彼女は去った。
雨 海岸 荒れる海 横殴りの風
彼女の選択が表現されている。
彼女の選択は間違いだったのだろうか?
やがて再びアマゾンの短期雇用が開始された。
しかしそこにリンダメイはいない。
そこを去り。再びRTRへ
リンダメイを偲ぶ。
最後にRTRの創始者はファン言う。
「5年前に息子が自殺した。どうして息子のいない世界で生きているのか? 答えはなかった」
彼は息子の死に苦悩している。
同時にすべての高齢のノマドもまた、人生に打ちひしがれ立ち直れずにいる。
「それでいいんだ」
この生き方で一番好きなのは、お別れがないことだ。一度もさようならを言ったことがない。
「またいつか」
そして本当にまた会える。
「私はいつかこの道の先で息子に再開できると信じている」
「君もいつか夫に会える。そして共に生きた時間を思い出すことができる」
ファンは石膏工場跡地を訪ねる。
当時の事務所と社宅
彼女の頭にあるのは夫と過ごした日々の想い出だろう。
彼女は持ち物を処分し、今度は車で北上する。
また新しい場所へと向かった。
冬に北上。
限界の場所で限界の生活をすることで彼女は生きていることを感じるのだろうか。
そこまで行けば夫に会えると思ったのだろうか?
おそらく答えなどないのだ。
この答えなどないことを探し続けているのが人生なのかもしれない。
この作品はそんな「無意味」なことと「人生」を表現しているのかもしれない。
帰る場所があってこそ
暗い、辛い‥
旅も憧れのバンライフも、金と体力と健康と帰る場所もしくはコミュニティがあってこそ自由を感じるのかもしれん。
終わりなき放浪は辛すぎる、逆に不自由を感じた。
ノマドライフにさよならは無い、みたいな台詞があったけど強がりにも思えた。
自分には何も刺さらなかった。
でも感じた事はあったから、何かは刺さったんか?
知らんけど
魂の在りかがわかった。そんな気がした。
今までの生き方、いやあり方なんだろう。そのわだかまりをすてる勇気を潜在的に宿した人間のロードムービー。経済指標と言う価値評価を後生大事に抱き締めて生き抜くことがホントに幸せに繋がっているわけではない。家を失った事よりももっと大切なものを失ってしまったことに気付いた彼女。自我は自我でそれ以上のものでもなくそれ以下のものでもない。自己の存在を心の奥底に見つけた彼女。ノマドの生き方をその在り方を身体に沁み込ませる旅を生きている間続ける勇気とその健気なプライドに身体が透明になった様な感動を覚えた。
何度でも観たい映画にまためぐり会えた。
これがノマド...?映画NO1
ノマドって聞いて
ああ〜なんか流行りの「夏は軽井沢、冬は宮崎行きまっせテレワークサイコー」みたいな奴っしょ
僕もいつかノマドになりたいなーって軽い気持ちで見始めたら
開始5分で絶望
ノマドの主人公がさっむいAmazonの工場で労働してる
これ本当にノマド?
僕の知ってるノマドじゃねえぞおい
どうやら本番アメリカの本来のノマドはこういう地を這うような生活をしていて、その日その日を凌いでいるみたい
悠々自適なイメージがぶっこんぶっこんにぶっ壊れた
映像はロードムービーとドキュメンタリーの間みたいな感じ
監督のポリシーでどうやら主人公以外はみんな本物のノマドを起用してるらしい
この監督がSF撮ったら本物の宇宙人使うのかな??
全420件中、1~20件目を表示