アイダよ、何処へ?のレビュー・感想・評価
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彼女はどこへ行くのか…?
今年127本目(合計191本目)。
原題は Quo vadis になっています。「どこへ行くのか?」という意味のラテン語。
この映画は実話がベースですが、一つだけ明確に実話ではない部分があります、それは、この主人公のアイダという人物はいなかったという点。
換言すれば、ごく最近(とはいえ、25~30年くらい前)の戦争とその悲劇を中立的な立場から描くという観点では彼女のような存在は架空でも映画化するときには必要で(さもないと、どちらかに偏っただの何だのまたモメる)、また、「こうした映画の悲劇を伝えるアイダ(のような人物は、伝えたあと)次は(伝えに)どこへ行くのか?」と解することも可能です。
ここの特集でも触れられているように、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争を描いた映画です。
1991年勃発、1995年終結(もっとも、完全に終わっているともいえず、今でもまだ争いは絶えない)になります。当然、高校世界史でも扱える範囲ではなく(現代過ぎる)、少し知識がないと理解しきるのは無理ではないか…という感想です。
私のメモ書きと、今後見る方への参考にもなるかなと思いますので、以下、簡単に。
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1991年にユーゴスラビアが解体すると、紛争が始まります。主に戦ったのは、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の3つの民族が混在していた国でした。単に解体して新しい国を作るというだけなら、せいぜい首都はどこにするとか国語(第一言語)は何にするとかという程度の紛争は発生しても、この戦闘は「民族浄化」「宗教戦争」の様相もありました。「民族浄化」というと少し物騒ですが、同時に併記した通り「宗教戦争」という意味合いもありました。つまり、それぞれ、上記に書いた順番に、ギリシャ正教、カトリック、イスラム教を信仰する人々であり、宗教戦争はこれに限らず紀元前から起きていたように、ある民族がある地方の全てないしほぼ大半を制圧することで、自身の出身(民族)の考える宗教を他に押し付けることができる、そういう「宗教的背景」がありました。
※ ボシュニャク人は、上記に書いた通りイスラム教を主に信仰していました。このため、「ムスリム人」と呼ぶ場合もありますが、イスラム教でいうそれと若干語義が異なるため、ボスニア紛争ではこの言葉は使わないのが普通です。
映画内でも描かれている通り、この紛争に国連はせいぜい400人程度しかかかわっておらず、それでは当然何の役にも立ちませんでした(せいぜい、時間稼ぎ程度でしかなかった)。
今回描かれる「スレブレニツァの虐殺」は、セルビア人勢力(の軍隊)が同町に進行し、イスラム教を信仰していたボシュニャク人ほぼ全員を全滅させた事件になります。
くしくもこの事件は第二次世界大戦のナチスドイツなど特異な例を除けば異常な事件として報道され、そのほぼ4か月後になる同年12月に、アメリカ(当時はクリントン大統領)が介入し、デイトン和平合意が結ばれ、この地には、クロアチア人・ボシュニャク人が主に支配する「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と、セルビア人が主に支配する「スルプスカ共和国」という国が接して存在するようになり(この和平合意も、できるだけ平等になるように考慮され、国土面積も49:51と計算されています)、今にいたります。
現在(2021年)でも国としては2つに分かれていますし、行政区画としても2つの国という扱いなので色々な諸制度は違いますが、互いに歩み寄ろうというところはあり、いわゆる国家元首が三交代制となるなど、「事実上は」同一国という扱いです(軍隊・戦力も、2005年に「1つの国」という扱いで統合されています)。
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映画内ではこのような説明が少ない上に(まぁ、これら+書ききれないボスニアの歴史を全部説明すると4時間あっても終わらない)、さらに「アイダ」という人物は存在しないので(「どこへ行くのか?」というのも、色々な考察が可能。冒頭に書いた通り、「次の紛争地に行くのか?」という解釈も一応、合理的)、かなりの知識がないと、「何がなんだかよくわからない」「100年前ならまだしも、30年前に野蛮なことをやっている国がある」とかというような短絡的な感想になると、これもこれで映画の伝えたい内容でないのは明らかでしょうね。
採点に関しては、「こうしたあまり扱わない題材は、もう少し丁寧に説明して欲しい」という点は言えますが、かといって、大手の配給会社がついたとも思えない本映画で、そこまで期待するか…という点は明確に言えますし、現在なら、ネットでも私立図書館でも(なお、上記調べた内容は、大阪市立中央図書館の文献を参考にしています)知ることはできますので、減点なしとしました(仕方がない。これを全部映画で説明すると4時間コースになってしまう)。
守るべきは秩序か、家族か。
1995年、ボスニア紛争にて起きたスレブレニツァ・ジェノサイドを通し、家族を守ろうと奮闘した、国連平和維持軍の通訳女性を描いた作品。
ボスニアの街、スレブレニツァがセルビア人勢力に攻め込まれ、国連平和維持軍施設に逃げ込もうとする住人達。そこで通訳として活動するアイダは、逃げ遅れた家族をどうにか施設に入れようと大佐に掛け合うが…。
家族だからといって特別扱いはできないという軍側とアイダのやり取りをメインに、ハンガリー勢力に踊らされるオランダ軍、そして哀しき大量虐殺の様子まで見せていく。
ともすれば、自分の立場を利用し家族を特別扱いしようとするアイダの姿は必ずしも良くは映らない。とは言え、命がかかっているとなれば、手段は選べないよな…。オランダ大佐も軍人なら勇敢にあってほしいものだが、上層部から見放され、ハンガリー将軍に迫られ…う~ん。
不都合な状況も通訳として伝えなきゃいけないアイダの立場も辛い。大佐の命令を住人に伝えた時の悔しそうな表情と言ったら…。
そして史実の通り、最悪の展開へ…。重苦しすぎる沈黙と恐怖。。
家族を探す女性たちの姿…。見つかることか、見つからないことか、どちらを願うのか。
胸が張り裂けそうになる展開。
全うすべき仕事と家族、そして秩序(そもそも秩序なんてあったもんじゃないか…)。色々なものを秤にかけながら、観客側の心もグラングラン揺らすような作品だった。
1995年なんて、全然昔の話じゃないですよね。まだ子供だったけど、自分が普通に生きていたあの時にこんなことが起こっていたなんて、悲劇的事実であると同時に、勉強不足だなぁと改めて思った。
岸壁の母
「もしやもしやに」も許されない悲劇 時が過ぎても乗り越えられず自責の念に苛まれるのが想像される
怨嗟からの解放は表向き達成されつつあるようだが、、
妻として、また母として奔走する姿を批判することはできませんでした
人間の野生を呼び起こす壮絶な殺しあいは同族
でも起こる ましてや異民族間
過去の辛い記憶をしるべに残す意味を反芻する
観れて、知れてよかった
まったく世界の歴史に疎くて申し訳ないくらいだけど、ボスニア、こんなことがあったんだ。ついこの間のことだよね、と。
最初通訳のアイダが自分の家族のことだけを気にかけてるのが気になってこれは日本人特有の感覚なのかなんなのかをずっと考えてた。なのでそこまで感情は揺すぶられず。ただそこからがかなり短時間で酷い事実が展開され呆気に取られる。
そして最終シークエンスは、今まで見てきたもの不条理のうえにある日常、ほんの少し前の狂った出来事の後にある日常を静かに、しかも残酷に描き出す。
観れてよかった。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の1ピース
1992年から95年に渡るボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。
テオ・アンゲロプロスの傑作『ユリシーズの瞳』で廃墟と化したサラエヴォを見てから何年経っただろう。冬季オリンピックの記憶がまだ鮮明だった頃なので、誰もが『何故』と思ったはず。
その疑問に答えてくれたのも映画だった。この20年で欠けていたパズルが埋まっていくように感じた。
今作はセルビア人によるボシュニャク人の何度目かの、そして最大のジェノサイド/大量虐殺を描いた。国連が指定した安全地帯での出来事だった。知るべき歴史があった。
国連軍の通訳として働く女性アイダが家族を守ろうとして奔走する場面が多く、作品としては説得力を欠いたか。自分の家族だけでも助けたいと思うのが真実なのだろうが。
【国際社会として考え続けなくてはならないこと】
このスレブレニツァの虐殺の首謀者であるムラデイッチは、虐殺が明らかになり、国際指名手配されると、身を潜め、逮捕されたのは2011年。
裁判後、終身刑が言い渡されたのが2017年。
刑が確定したのが、今年、2021年だ。
ただ、僕が、この作品を観た第一印象は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にスレブレニツァの虐殺を起こしたセルビア人を非難したり、憎しみを募らせようとしたというより、なぜ、こうした悲劇が起きたのか、人々に考えてもらいたいというメッセージの方が強いんじゃないかということだった。
双方に過激思想のグループがいて、歯止めは効かなくなる。
こうした連中は、一部の会話からも分かるように、大概、民族至上主義的な考えをバックグランドにしている。
ソ連崩壊前、ユーゴスラビアは、特にチトー政権下では、複数の共和国からなる多民族の理想的な社会主義国だと考えられていた。
しかし、ソ連が崩壊すると堰を切ったように民族至上主義が台頭し、複数の共和国に分裂するにあたり、領土を奪い合ったり、殺し合いを始めたのだ。
第一次世界大戦前までは、いくつかの少数の大国がヨーロッパを支配し、特に東欧の民族は過度に従属的な状況に置かれていた。
しかし、この大戦後、ウッドロー・ウィルソンが民族自決を提唱し、東欧に多くの民族国家が誕生した。
その後、これを逆手にとって、侵攻や支配強化を行なったのがアーリア民族至上主義を掲げたナチスであり、第二次世界大戦後は、共産主義とロシア民族思想が強く結びついたソ連だった。
イデオロギーと民族思想が補完し合う関係になったのだ。
だが、こうしたイデオロギーが後退すると、歯止めが効かなくなるのが民族至上主義だ。
世界は、ソ連型社会主義の崩壊で歓喜したが、大きな問題の種は残ったままだったのだ。
そして、機能しない国連。
常任理事国をソ連に代わってロシアが引き継いでしまった以上、容易に国連軍のミッションにゴーサインは出るはずもない。
東欧が混沌としてくれた方が、ロシアにとって都合が良いことはあるはずだ。
(以下ネタバレ)
この作品はおそらく二つの課題を世界に突きつけているように感じる。
民族至上主義はリスクだということと、国際的な組織が機能しにくい状況に陥っているということだ。
そして、ソリューションは一つしかないのだと。
その答えは、最後の遊戯の発表会の場面。
多様な民族の子供たちが小さな両手で顔を覆ったり、開いたりしている。
世界は多様性を基本とすべきだと伝えたいのだ。
やるせない
ボスニア、セルビア 詳しくないが多分隣人同士の闘いに近いのだと思う。
アイダは平和維持軍(オランダ軍が、活動)で通訳をする元教師。
セルビア軍は平和維持軍との交渉中で責任者が留守
のUN基地に武装して押し寄せる。
元教師のアイダは、武装した元教え子と再会するも、もはや敵味方としての関係性に成り下がった哀しみ。
何を言っても聞き入れない、現場の責任者は断固侵入を阻止する気持ちだが、別場所で交渉をしているトップは何を考えているのか、ここで中に入るのを断ったら交渉が途絶えると思ったか、侵入を許可する。
もうお終い、ジ・エンドだ。
丸腰で平和維持テリトリーにせっかく避難してきた人々を武装した敵に晒して!
もう平和維持軍もマスメディアもセルビア軍の勝手な行動を止められない。
平和維持軍の周囲を守る兵士もヘルメットと銃で辛うじて体裁を保っているが少女なのだから。
(おそらく平和維持軍に雇ってもらい身の安全を確保した現地の人なのかな)
アイダはズルをしてなんとか家族を国連関係者としてオランダ軍と共に、避難所である基地敷地から脱出させようとする、関係者ID不正取得何も試みる。
何とかなるのかと思ったが厳格だ、それは許されない。
『国連IDの信頼が根本から覆ってしまう』
そうか…確かに。そこはもう守られなければならない。
虐殺の場所は、普通に人が生活している街の中にある建物だ。押し込められ閉じ込められた人々は上方の窓から機関銃でダダダダダと射殺されるのだ、
惨すぎて思考が停止する。
建物の外では銃の音なんか聞き慣れてしまった人がベランダで寛ぎ、子供が道端で遊んでいる。
最初は主人公アイダの鋭い目、映画ポスターにもなるこの顔からは国連という強い使命感を持った人の話なのかと思ったが、あまりにも自分の家族のことしか考えていないことが何か嫌だったけど、映画を観終えて少したつとリアルなのはこれなのかもな、と思えてきた。
信じがたく見えるのは無知だから?
ボスニア紛争のことは知っていて、その背景とか詳細な事柄などは結構知らないもので、こんな酷いことが本当にあったのかと信じられない思いで、ただ見つめていたような気がします。
難しい内容ながら、しっかりとした映像が視覚を引きつけるような印象です。
人の行動は短絡的で訳分からないことが多すぎるものと痛感させられると同時に、やっぱこれは本当に起こったことなのかと疑問に思ってしまう。でも、この作品のような行いは、過去に見られることであり、きっと無くならないだろうという悲哀を感じながら─・・・
独立、支配、報復
1995年7月にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時に行われたスレブレニツァの虐殺と、家族を救おうとして通訳女性の話。
国連が安全地帯としたスレブレニツァの街とオランダ軍の駐留するUNの基地がセルビア軍に包囲された状況から話が始まるけれど、ここまでの背景や状況の説明は無く、知らないと判りにくいかも。
という自分も後にジェノサイドと認定された8000人を超える虐殺があったぐらいの浅い知識しかなかったからネットで調べてから観賞しただけだけど。
UNの通訳として働く元高校教師のアイダが、自身の家族を護るべく奔走する姿をみせていくけれど、あまりにも自身の家族さえ助かればという思いを強く感じる。
その親としてのアイダの言動は痛いほど理解出来るし、自分でもそうするだろうし、これがリアルなんだろうけれど、映画としてはアイダをメインとしてタイトルにまでして奔走する様をみせる意義があったのかと疑問が湧く。
とはいえ、民族主義の行く末の一つの形として、知るべき映画としてとても響いた。
背景が分からないと理解できません。
旧ユーゴスラビアで起きた住民虐殺事件を取り扱つかった映画。国連軍の通訳をとして働く女性主人公が、夫と息子達を何とか虐殺から免れさせようと必死に動きまわるが、、、、。
国連軍の何と頼りないこと。日本人にある国連軍信仰を見事に打ち砕いてくれると感心する。
女優さんが一緒懸命演技しているのはわかるが、私の心に響いて来ない。なぜ、なんだろう。日本から遠い東欧で起きたことだからだろうか。
オン・ザ・リスト
「私たちはリストに載っている」。そう必死に主張するアイダの姿に尽きる映画だった。
まさか身内贔屓(ひいき)がテーマとは。
あらかじめネットで簡単に調べたが、詳しい予備知識は必要なかった。
難民、国連軍、セルビア人の三者を描くためには、アイダ(と夫)は絶好の立場にいる。
しかし、彼女の立場を通して、戦場の混乱と悲劇の「現代史」を描き出すというよりは、その“特権的立場”を使って、もがく女性の「個人的なストーリー」にすぎなかったのは残念だ。
ただ、センシティブなテーマゆえに映画で描けないことがあり、また、監督のインタビューを見ると各方面からの協力も得られなかったらしく、いろいろと制作には制約が多かったのだろう。
だから、個人的な範囲内にストーリーを収めざるをえなかったのかもしれない。
セルビアに騙される難民、無力な国連軍、弱腰なNATO。
“再現ドキュメンタリー”と言っても良いリアリティは、素晴らしかった。
タイトルなし
1995年7月
ボスニア·ヘルツェゴビナ スレブレニツァセルビア人によって占拠される
2万5000人に及ぶ住人たち
保護を求め国連基地に集まってくるが…
ボスニアヘルツェゴビナ紛争中
実際に起こったスレブレニツァの虐殺
ヤスミラ·ジュバニッチ監督が
家族を失った沢山の女性たちから話を伺い
彼女たちから聞いたことに
事実を組み合わせ
女性の視点から描いた作品
この悲劇を経験したあと
彼女たちは言葉や行動においても憎しみを表現するということはなく
復讐をしようとしなかった
ただ
真実を知ってほしいという思いだけ
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セルビア人にとってはヒーロー視された
スルプスカ共和国軍の司令官たち
残虐行為などで罪が確定したのは
2000年代になってからという
約8000人の男性や少年が殺害された
スレブレニツァ虐殺
この映画は
この悲劇を知らない人たちに
多くのことを伝えている
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