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映画レビュー
素晴らしいショート
# はじめて見るのは、恋ではなく、自分だった。
青春映画というと、多くの人は恋愛を思い浮かべる。
誰を好きになるのか。
想いは届くのか。
友情と恋の間で揺れるのか。
『はじめてのうみ』も、一見すればそんな物語に見える。
しかし、この作品が本当に描いているのは、恋愛ではない。
**人は、初めて自分という人間の正体を見たとき、大人になる。**
そんな瞬間を描いた作品だったように思う。
主人公トモミは、親友のマリカを心配しているように見える。
セーターの袖口を気遣い、一緒に帰ろうと誘い、マリカが体調を崩したと聞けば、ハチヤに激しく怒りをぶつける。
けれど、その怒りの中で彼女は、思わずこう叫んでしまう。
「モテない者の心をもてあそぶのはやめてよ。」
その瞬間、トモミ自身も気づいてしまう。
自分はマリカを守ろうとしていたのではない。
ハチヤを好きだった。
そして、自分だけが恋愛という世界から取り残されているような劣等感を、マリカの出来事に重ねていただけだった。
正義だと思っていた怒りの奥に、本当は嫉妬があった。
優しさだと思っていた感情の奥に、自分自身の寂しさがあった。
その発見は、恋が叶わないことよりも、ずっと苦しい。
人は他人に失望するより先に、自分自身に失望することがあるからだ。
しかし、この作品が美しいのは、その後に訪れる保健室の場面である。
マリカはトモミを責めない。
「本当はハチヤ君が好きだったんでしょ」と暴くこともしない。
ただ静かに言う。
「友達のふりなんかしなくてもいいよ。でも私はトモミが好きだよ。」
この言葉は、許しというよりも、自分の気持ちをそのまま差し出した言葉なのだろう。
「あなたが私をどう思っていたとしても、私はあなたを好きだった。」
ただ、それだけ。
だからこそ、トモミは逃げられない。
責められたなら言い返せる。
誤解だと言い張ることもできる。
しかし、好意だけを向けられてしまったとき、人は自分の心から目をそらせなくなる。
そこで彼女は初めて、自分という人間の深さを知る。
作品のタイトル『はじめてのうみ』は、おそらく恋の比喩ではない。
海とは、自分でも底の見えない心のことなのだ。
嫉妬。
独占欲。
見栄。
劣等感。
善人でありたいという願い。
そして、それらを抱えたまま誰かを好きになってしまう人間という存在。
その果ての見えない内面を、トモミは初めて見つめる。
だから彼女が見たのは、恋ではなく、自分だった。
そして、考えてみれば、それは青春だけの話ではない。
大人になっても、人は何度でも、自分の知らなかった感情に出会う。
「こんな自分がいたのか。」
そう思うたびに、私たちはまた少しだけ、自分という海の広さを知っていく。
『はじめてのうみ』とは、一度きりの出来事ではない。
人生の節目ごとに訪れる、「自分という人間を初めて知る瞬間」のことなのかもしれない。
多分「うみ」は海じゃなくて膿?
2017年の作品
監督と脚本は『わたしが発芽する日』『私は渦の底から』『次は何に生まれましょうか』の野本梢
野本梢作品初鑑賞
ロケ地
埼玉県立蓮田松韻高校
内容はスクールカースト?
本場インドのカースト制度なめんな
主人公が授業の合間に突然男子にキレて
よくわからないまま終わった
短すぎて
ワンポイントリリーフが四球を出して降板するような
例えが下手
彼女たちが置かれた立場
彼女たちの表情
その雰囲気を堪能するためのショートムービーか
エンディングテーマは工藤ちゃん
探偵ではない
この作品にも出演している
笠松七海はなんとなく平岩紙に似ている
ピリピリした感じのトモミに対しほんわかとした雰囲気のマリカを演じる森累珠はブルース・リーに憧れヌンチャクを振り回す意外な一面も
配役
高校生のトモミに笠松七海
トモミのクラスメートのマリカに森累珠
クラスメートの男子のハチヤに髙橋雄祐
クラスメートの女子に工藤ちゃん



僕たちは変わらない朝を迎える
あいが、そいで、こい
あらののはて
透明花火
私は渦の底から
思い立っても凶日
わたしが発芽する日
ジョーカー
ラ・ラ・ランド
天気の子













