パピチャ 未来へのランウェイのレビュー・感想・評価
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伝統を否定せず作り変える
アルジェリアの90年代の内戦時代の物語だ。女性は自由な服装が許されない、主人公は伝統布のハイクを使ったドレスを作り、ファッションショーを開催しようと奔走する。ハイクを着ている主人公の祖母は、その昔フランスの植民地支配に抵抗するために戦った経験を語る。ハイクの下に銃を隠して男と並んで戦って、独立を勝ち取ったのだと誇らしげに語る。しかし、内戦時代には、テロリストがハイクの下に銃を隠して、ジャーナリストを殺している。主人公は、さらに銃を隠すことのできないドレスに仕立て直すことで、伝統を重んじ、なおかつ自由の大切さを訴える。
祖国がどんなにひどくても愛はある。国を出ようと持ち掛けられても主人公は動かない。国を愛しているからこそ、良い方向に変えるために戦うのだ。本当の愛国者は国の恥部に目を向ける勇気を持った人のことだ。作り手の祖国に対する愛をひしひしと感じる傑作だ。
90年代アルジェリアの圧倒的状況と対峙するヒロインの姿に胸が張り裂けそうになる
この不思議な語感のタイトルは何を意味するのだろうか。そんな微かな疑問を胸にしながら、本作を観た。見始める前の私の印象としては、躍動感に満ちたガールズムービーといったところだったかもしれない。確かに、大学の女子寮を飛び出してナイトクラブへ向かう冒頭の描写には、何かが始まりそうなワクワクがほとばしる。だが、次の瞬間訪れるのは、検問での手厳しいやりとり。90年代のアルジェリアが置かれていた現実を突きつけられる場面だ。イスラム原理主義者による締め付けも至るところに。この物語には、かくも一人の少女がもたらす目覚ましい躍動感と、それを叩き潰そうとする圧力とが痛いほどスパークしている。「ファッションデザイナーになりたい!」という一途な思いが、単なる勇気や情熱を超えて、命がけの行動と化していく様に胸が張り裂けそうな思いがした。アルジェリア出身の監督と主演女優との共振関係が実を結んだ、力強い一作と言えよう。
女性の意思を縛り付ける拘束衣
ファッションは人にとって自己主張そのもの。どんな服を着て、どんな髪形をして。それを自分の思うままにできることが当たり前ではない世界がある。
それを黒い布で覆い隠そうとするヒジャブはまさに女性の自己主張を封じ込めようとする拘束衣に他ならない。
古代から人間社会は男性優位社会。人類最古の差別は女性差別であり、それは今も続いている。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは女性は男性に劣るものと公言していた。そしてそのような考えは世界宗教の誕生でその教義を曲解することでより強固なものとなっていった。
イスラム教には女性はきれいな部分を隠すようにとの教えがある。なんとでも解釈できる文言だ。心がきれいであれば普段はそれをひけらかさずに内心にとどめていなさいとも解釈できる。
しかし、この教えを男社会は自分たちの都合のいいように解釈し、女性を都合よく支配したいがために女性は髪や肌をむやみに露出してはならないとしてヒジャブの着用が古くから風習として残った。ただ、このような風習はほとんどの世俗化したイスラム教圏の国では任意であり強制されることはない。
そもそも何を着てどのような髪形をするかは自己決定権として保障されるべき人権の最たるものだ。これを制限するようなしきたりなどあってはならない。
この作品が公開された後、イランではヒジャブの着用をめぐって逮捕された女性が亡くなるという事件が起き、国内は反政府デモで揺れ動いた。
イラン革命後イラン政府は西側諸国の影響を断ち切るためにより堅固なイスラム社会建設を目指し、イスラム教の戒律を厳格に守らせるため取り締まりを強化していた。
ちなみに取り締まる道徳警察の言い分には苦笑してしまう。我々は女性が肌を露出することで男性から襲われるのを防いでいる。女性を守るために取り締まりをしているというのだ。しかし、拘束された女性のレイプ被害は後を絶たないという。それに男性が女性を襲うのは肌を露出しているせいだというのはお得意のすり替えでしかない。日本でも女性DJがファンに触られる被害があったが巷では同じような言動であふれていた。
当たり前のことだが悪いのは襲った方だ。ただ、イスラムの国ではいまだにレイプされた女性の方が加害男性より厳しく罰せられる悪しき慣習が残っている。
多くのイスラム教圏の国々では西洋化はもはや止めることはできない。それは自由平等を意味するものだし、人々は一度味わった自由平等を手放すことはできないだろう。
今でもアメリカを敵視するイラン政府はヒジャブ着用を間接的に強制する新たな法律を制定しているがイランの女性たちはそんなイラン政府のジェンダーアパルトヘイトに対して今も命がけで戦っている。
本作の舞台アルジェリアもイスラム教の国ではあるが、過去には女性の人権に理解ある統治者によって西洋化が進められてきた。しかしフランスから独立後、内戦ぼっ発で過激なイスラム原理主義者たちによって混沌とした時代に突入する。
テロによる市民やジャーナリストへの無差別殺戮が絶えないそんな時代、デザイナーを志す主人公ネジュマはジャーナリストだった愛する姉の命を奪われる。そんな悲しみの中、彼女は学内でのファッションショー開催を計画する。
彼女の住む街は徐々に過激派の手が伸びてきてヒジャブ着用を強制するポスターが次々と貼られて、ついには学内にまでそれは侵蝕してくる。
街中の壁面には戒律を破って罰せられた女性が書かされたであろう「生きててごめんなさい」の文字が。
洋服に使う装飾品店はいつの間にかヒジャブ専門店に様変わり、学食のジュースには性衝動を抑える臭化カリウムが混入される始末。
まるで世界が宇宙人に侵略されるSF映画を見ているよう。まさに彼女の住む町は監獄のような様相を呈するようになる。
そして同じ学生の男子たちも過激派たちと同じような偏見で女性を見ていた。ファッションショー開催はそんなこの国の現状に対する彼女なりの必死の抵抗だった。
そして仲間たちの協力でファッションショーは無事開催されるが、その時衝撃的な事態が起きる。
この物語自体はあくまでフィクション。でも実際にこのような無差別テロで多くの市民が犠牲になった。本作の監督は安全のために家族とともにフランスに移住したが何か後ろ髪を引かれる思いがあったんだろう。ネジュマは移住のチャンスがありながら母国に残り戦うことを誓う。それはまさに監督が自分の思いを主人公に託したんだろう。
彼女の挑戦は悲劇的な結末を迎え、救いのないラストかと思ったが、生き延びた友人のおなかの子供は無事だった。新しい命の誕生を思わせる場面で本作は幕を閉じる。この生まれてくる子供のためにもこの国の未来のために戦っていこうという監督の思いが伝わってきた。とても見ごたえのあるいい作品だった。
ところで日本の女性差別はここまでひどくないにしても、やはりジェンダーギャップ指数は世界で125位。アルジェリアは144位だという。
最近母子家庭の家の子供は三食食べれないという募金の広告を目にする。父子家庭ではあまり聞かない。これは明らかに女性に対する職業差別を続けてきたことの結果だろう。女性への差別の結果、国の未来を担うであろう子供たちが貧困に苦しめられている。女性差別が国の未来を危うくしているのだ。
過去のアルジェリアでは女性の労働力も国を支える貴重なものとして女性の社会進出を推進していた時期があった。その点ではアルジェリアは日本より進んだ国といえるだろう。
【アルジェリアを舞台に命懸けでファッションショーを行った女性を描いた作品。アルジェリア出身女優リナ・クードリが常識に捕らわれない自由な女性の存在を演じ、彼女の存在を世に知らしめた作品でもある。】
■1990年代、アルジェリア。
世界中の女性の服を作るデザイナーを目指す大学生のネジュマ(リナ・クードリ)は、ナイトクラブで自作のドレスを販売している。
だが、イスラム過激派の台頭によりテロが頻発するアルジェでは、ヒジャブ着用を強制するポスターが貼られるようになる。
◆感想
・今作は自身があるジェリア主身であるリナ・クードリの魅力満載作品である。
・ヒジャブを被らない女性に対する、日本の第二次世界大戦中の”華美を諫める夫人たちの姿が被る。
- 今でも行わている“名誉殺人とアラブ地域で行なわている言う行為”ー
<今作は、アルジェリア“暗黒の10年”を舞台に、命懸けでファッションショーを行った女性達を描いた作品である。
更に言えば、アルジェリア出身の新進女優、リナ・クードリの存在を世に知らしめた作品でもある。>
国を思う…
大学を抜け出し、ナイトクラブに向かう女性たち。イスラム国家なのにこんな自由で奔放?なのって思ったけど、一瞬で凍りついた検問シーン。遊びに行くにも命懸け。考えたら、何でそもそも服装や振る舞いまで自由でないのか。宗教は自由だけど、人々に強制するものではない。ましてや暴力を振るうのは本末転倒。ネジュマの姉も凶弾に倒れ、恋人からも国を捨て、フランスに出ようと誘われる。普通ならさっさと国を出たいが、苦労はあるが、国が嫌いではないという。ここに監督の国に対する思いが詰まっていると感じた。結局夢に見たファッションショーを実施するが銃撃されてしまう。そうまでしてやりたかったこと、伝えたかったこと、女性はこうあるべき、男性もだが、もはや押しつけは通用しない、国を思うからこそ、是正したい、犠牲になった人々のためにも。そんな願い、訴えを感じた。
単なる女子大生の青春群像劇ではない。
90年代の内戦中のアルジェリアで、イスラム原理主義と戦いながらファッションショーを開催しようとする女子大生の話。
男性だけではなく、女性の中にも原理主義に賛同し、ヒジャブを必須としたり、女性は表に出てはいけないということを主張するなかで、ネジュマは大学生を謳歌し、大学の寮でファッションショーをしようと計画する。その中で姉がジャーナリストということで殺されたりしながらも、仲間に支えられて準備していく。
ファッションショーの最中に原理主義の襲撃に遭い、強制終了となり、大学を去ったネジュマがこの国で生きていこうと決意するところで終わる。
アルジェリアの当時の暗黒時代があちこちにちりばめられている。
・原理主義がはびこり、男尊女卑が強い
・学食の中に入れられている物質に副作用がある
・ヒジャブをしないといけないというのを女性でも主張する
アルジェリアでは放映禁止になったということは、このような主張を見せてはいけないというあらわれでもある。今はそんなことはないと思うが、言いたいことが言えない世の中というのは怖い。
観出したら止まらなくなった。国と宗教が違えばこんな現実世界があるのです
冒頭から若さ弾ける女の子たちのエネルギー。
仕事上がり、タクシー車内で着替え、おめかしして、いざ夜の街へ!
何が始まるのか?と、こちらも心浮き立つのは束の間で、銃を備えた兵たちの検問に凍りつく。
ここはアルジェリア。90年代の。
イスラム原理主義に支配され、女の服装にまで厳しい目や規制がある中、勝気な女子大生の主人公ネジャマは、持ち前のファッションセンスと裁縫の技術を駆使して素晴らしく素敵な服を作り出す。ナイトクラブの女子トイレでこっそりと注文を取り、生地を決め採寸をし、小さなビジネスを行っていた。
この子はもってるな〜 いい美的センスしてるし、何より意志が強い。まっすぐで澄んだ瞳がそう語ってる。
「人の言いなりになんてならないよ」と。
それが、ある悲劇に見舞われ、悲しみのどん底へ。
これには泣いた。酷すぎる。
悲しみ抜いた後に彼女が行動したこと、それは女子寮での禁断のファッションショー。
仲間の女の子たちもいい味出してるんですよね。
みんな辛い目にも遭ってるんだけど、慰め合い、共に闘う決意をする。
さまざまな苦難の中、ようやく迎えたその日・・・
軽い気持ちで観だしたら止まらなくなってしまいました。
「簡単に屈しない強さ」
「本当に大切なものを守る信念」
自分の国を愛するからこそ、逃げずに闘う。
今のコロナ禍の中の日本人、目立たないように国の言うことを聞いているだけ。
非難されたくない、人と違うことをしたくない、嵐が過ぎ去るまで大人しくしていれば大丈夫。そんな大人ばかりだから・・・
この映画を観てなんだか勇気づけられた気がします。
バピチャとは、アルジェリアのスラングで「愉快で魅力的な、常識にとらわれない自由な女性」という意味だそうです。
実話を元にしているらしく、彼女たちのその後が知りたい。
男尊女卑。
宗教も色々あるけど、イスラム教の国に生まれなくて本当に良かったと思う。
女から学びを奪い、バカにして、男が優越感を持つ様にしている。
宗教という名の下の非道な容認されない行動がなくなればいいと思う。
たぶん一生変わらないけどだろうけど…。
自由で魅力的な未来を願います
90年代のアルジェリア内戦下で生きる普通の若い女性達の姿が切なくて、切なくて…
息が詰まりそうな重さを感じながらも
ファッションデザイナーを夢見る主人公の女子大生を通して自由への解放や女性蔑視…
女性監督ムニア・メドゥールの冷静かつ力強い造りは実に見事でした
ファッションショーのシーンは魅力に溢れた女性達の生き生きとした笑顔が自由へのランウェイに重なったが…悲劇へと…
が、結末の彼女達の穏やかかつ希望に溢れる微笑みに常識にとらわれない未来が見えた気がしたのが救いであった…
ゆっくり、ゆっくり進んで欲しいと祈りを込めて…
哀しい事に今でも世界のどこかで起こる悲劇を
改めて知り見つめ、考える事が自由過ぎる国に生きる私達の役目だろう
未来へ向かって解放と自由を魅力的に演じた
リナ・クリード!彼女の女優としての未来も楽しみだ!
イスラム原理主義
女子大の中は不自由さは感じられなかったが、いざ外出してみると恐怖がいっぱい。バスの中ではかつての人種差別のように扱われてたし、冒頭の白タク検問も怖かった。行きつけの洋裁材料店でも「女性は・・・」と自立女性を蔑視するかのようだった。
パピチャという言葉は初めて知ったけど、アルジェリアのスラングで「愉快で魅力的で常識にとらわれない自由な女性」ということらしい。主人公ネジュマの家庭は男がいないため、女性は自立しなければならないということもあって、大学で勉強しながらファッションデザイナーを夢見ていた。そしてある事件をきっかけに寮内で「ハイク」だけのファッションショーを開く決意をするのだった。
テロの怖さも伝わってくる中、それが原理主義の男尊女卑の思想によるものだけじゃないことが辛辣だった。伝統的なヒジャブを纏った女性たちによる乱入なんかがあったり、門番ポパイによるセクハラがあったりで、もう頼る者がいない。極めつけは恋人になりそうだった男に「嫁にしてやる」みたいな高圧的なプロポーズ。そしてファッションショーがこじんまりと成功するかと思っていたら・・・
イスラム国の、しかも過去の話だからといって、他人事のように思ってはいけない。今の日本、特にオリンピックに関しては女性蔑視やジェンダー差別の問題が浮き彫りになってしまった。根強く残っている日本の家父長制度と差別。どこに「多様性と調和」があったのだろう?復興五輪ってどこにあったのだろう?利権がらみのオリンピックを強行したためコロナまで蔓延してしまった。アルジェリアの宗教による分断に近いものがあったのではなかろうか・・・と、いつの時代にも息苦しさがあるものなんだと妙に共感してしまった。
息苦しさは私も同じ
本作の舞台である90年代のアルジェリアよりは、命を取られないだけマシですが、女性の息苦しさは日本も似たようなもんだと思い、ネジュマ達に共感しました。
彼女達が自分の意思を持って好きなことをしたいと思うのは、今となっては当たり前の考え方です。でも、まだまだ女性の意思決定を許さない家父長制も沢山残ってますよね。いやー、お爺さん天国恐ろしい。我が祖国ニッポン。
文化や環境が違う国に育っても、女性が感じる生きにくさが時代と共にどんどん表に出てきて、例えば女性監督がこういったテーマを扱う作品も沢山制作されてきて、もういい加減色々と変わる時期なんですよね。本作に出てくる女性達も含めて、沢山の犠牲を払いながら少しずつ少しずつ前進していると思います。この際だから、日本の権力を持ってるお爺さん、引退して優秀な女性に席を譲って下さい。
私はテクノロジーの進歩で、力仕事が少なくなってきたから、女性の社会進出がしやすくなったと感じています。今後、生理、妊娠、出産から解放されれば、女性はもっと活躍できると思うので、そんな未来が楽しみですし、そんな未来を作りたいです。
感情移入し、腹が立つ。 冒頭からテンポよく、彼女たちの元気さが場面...
感情移入し、腹が立つ。
冒頭からテンポよく、彼女たちの元気さが場面から溢れる。が、姉の死のシーンは痛ましい。原理主義の空気が心底気持ち悪い。
トイレのシーン、サッカーのシーンは、素晴らしい。
鬱屈した生活を虐げられているイスラム教国の女性達
を観て大きなカルチャーギャップを感じるが、命まで脅かされる女性達の生き方は正直日本人の私には信じられない。
文化の違いと一言で片付けられるものではなく、形式的なフェミニズムや日本のハリボテのような男女平等の声を発するのではなく、身近な生活の中で周りの人達に接する時の姿勢(男女関係なく)を考え直す事が必要だと、真面目に考えさせられた。
相手に対するリスペクトって心掛けても場面や相手との関係性で続けるのは難しく感じる。電車の中とか、会社の上司部下とか、身近な家族とか、。。。
メッセージがある映画
自由は、バカとエロを増長させたかもしれない。
それでも、中国よりましだ。
すきなことができるし、言いたいことを言える。
そして、金のことに媚びるハリウッドより100倍メッセージのある映画だと思う。
それでも祖国は捨てない
同じ大学生でも日本の学生とは随分違うんだな、と先ずは主人公がデッサンするノートの紙質で感じた。やっぱり日本は何でも手に入るし豊かだな。
でもそんなものじゃない、着たい服を着て、行きたい所に行って、心のままに生きる背中には常に銃口が向けられているのだ。
限られた状況下で青春を謳歌しようとするどこにでもいる若者の雰囲気を楽しむ間もなく猥雑な街の描写や男達の執拗な視線がそこかしこにあり、ここはイスラムの国なんだ、と思わせる。
しかしながら、主人公の生き方に嫌悪感を抱くのは男性だけではない。
イスラム教の戒律を忠実に守って生きることに幸せを求めている女性達も少なからず存在する訳で、互いに寛容でないこともより複雑にしていると感じた。
男性の力を借りてこの国を脱出し自由を手に入れるチャンスもあったのだが、やはりそれも違うのだろう。
主人公達にとって命がけでファッションショーをするために作ったドレスなのだから、邪魔されても引き裂かれても意思を貫くためにドレスを再生させることは、この映画にとって最も重要な要素であったのだから、その場面にもっと時間を割いて映像にして欲しかったかな。
実話を元にしているのでハッピーな結末とはならず何とも無惨な形で終わってしまうのは…ただただ胸が痛かった。
自分の生き方
この映画は『目を開けて最初にみえたものÀ peine j'ouvre les yeux/As I Open My Eyes(2015年製作の映画)』のチュジニアが舞台の映画と似ているので驚いた。
チュニジアの映画の発端は2010年の12月17日だった。でも、アルジェルアのこの映画の方は1990年だというので比べると二十年も前の話になる。チュニジアの映画は『アラブの春』の発端地で、政府は思想を規制統制をし始めているところだった。大学生ファラーFarahはバンドのボーカルでJoujma - 'Ala Hallet 'Aini (As I Open My Eyes/A peine j'ouvre les yeux) - Studio Version (これをコピペして聞いてください)を歌う。それは、『My Country』『自分の国は国を閉じている、この混乱のなか、私は目を閉じる。。。国に問題がある時は、人々も人間の心を失う。。。』と自分の国を愛しているから自由を失い始めている国に警告をといったらいいか?素直な気持ちを歌にしている。
しかし原理主義の煽りにアーチストの表現の自由の思想が奪わて思想弾圧警察に捉えられる。
アルジェリアの『パピチャ』はアルジェリア内戦の始まりで、原理主義の統制が入り始めている時代に生きる大学生たち。ファッションデザイナーという表現の自由を夢みる大学生のネジャマはこの原理主義の餌食になり、自由に表現したり生きることに危険を伴い、ファッションーは修羅場になってしまう。
両方の映画は、大学生の女性が主人公で、計り知れない困難にあっても、自国を離れて、以前の植民地として抑圧したフランスに亡命しようとはしない。両方の大学生は青春である大学時代を奪われてしまう。そこで、ファラーFarahのほうはボーイフレンドが裏切り、友達もさり、その中から、最終的に、支えてくれるのは母親だけで、その愛があるからやり直していけるように思えた。
イラン、アルジェルア、チュニジアなどイスラム原理主義の台頭時代。でも、ユダヤ教でも、キリスト教でも原理主義とは言わないが、経典の『タナハ』『聖書』を文字通り信じていて、正統的な宗派がある。でも、正統的な宗派は現代社会において、生きにくくなってしまって孤立化していると思う。でも、イスラム原理主義はどうなっていくんだろう。
この映画は『死を覚悟で自由に生きることを勝ち取る』自由とは戦い抜いて自分のやりたいことができること?そこには、大声で批判しあっても、戻れる親友ワシラやサミラなどがいる。友のこころの中を理解してあげることのできる親友、そして、理解してくれる親友。そして、自由の精神の母親と姉リンダ。ジャーナリストの姉を失ったネジャマの家族に新しい家族ができる(妊娠したら家族から殺されたり、おいだされたりするからネジャマのところにきた)て、新しい生命が芽生える。私には想像できないこれからの苦難の中でも、自分を失わないだろうと思える姿に明るい将来が見えた。私も!
蛇足:
私の知り合いはイランからである。イランではシャーを倒し、イスラム原理主義のホメイニが党首のたっと時期がある。この端境期に私の知り合いはイランで生きてきて、夫婦共々米国に亡命した。この時代は、イランの映画でよく取り入れられている。
“失われた10年”に蔓延する不寛容を真正面から描いた凄惨な青春映画
舞台は90年代のアルジェ。ファッションデザイナーになることを夢見る女子大生のネジェマは深夜に女子寮を抜け出してナイトクラブに繰り出しては自作のドレスを友人達に売っていた。束の間の自由を謳歌する彼女達の周りに蔓延し始めるのが急進的なイスラム原理主義。ヒジャブの着用を強要し、フランス語を排斥しようとする風潮は彼女達の通う大学や女子寮にも押し寄せてくる。そんな不穏な空気の中で響いた一発の銃弾をきっかけにネジュマは女子寮のカフェテリアでファッションショーを開催、アルジェリア伝統の布地ハイクを使ったドレスを発表することを決意するが、その試みは自分達の生命を脅かす危険との戦いでもあった。
“パピチャ”とはアルジェリアのスラングのようで“そこのキレイなお姉さん“的な意味。ヒジャブを纏わず自由な服装で街を歩くネジュマを執拗にナンパする男が何度も何度もこう呼び掛ける様は、イスラム教の教義を女性を支配するために恣意的に解釈する原理主義者達の偽善を端的に表現するもの。本作に登場する男性は全員クズですがヒジャブ強要のビラが張り巡らされた街やキャンパスで拳を振りかざし喚き散らすのは男性とは限らないところが絶望的で、女子寮の周りに有刺鉄線が張り巡らされ、食事に公然と薬物が混入される世界はとても現実にあったこととは思えないほどに異常。凡庸な終幕を拒絶した展開は辛辣で鉛のように重いですが、本作が問いかけるテーマは今まさに我々が住む世界で問われているもの、広く知られるべき作品だと思います。
どうすれば彼女たちを救えると思いますか?
アルジェリアの1990年代は「暗黒の10年」と呼ばれています。武装したイスラム原理主義グループによるテロや大量殺戮事件が相次ぎ、内戦へ発展。2002年に政府勝利で終結するものの、イスラム主義武装勢力側の兵士には大赦が与えられています。
「暗黒の10年」が始まる前夜の女子大の寮が物語の舞台。ムスリム社会における抑圧と、イスラム原理主義者からの「生命の危機」に曝される中、自分らしく生きようとした女学生達の姿。
皮肉なことに、アルジェリア国内では、イスラム原理主義へのシンパシーは、衰退とは逆の道を辿っており、2013年には日本人の記憶にも新しい、天然ガス精製プラントのテロなども発生しています。
女性解放のためには、原理主義の狂信的な預言者を排除して行かなければならない。「テロとの戦い」と言う言葉に表される「戦争」は、イスラム武装集団の弱体化させることに他なりません。切り離せないんですけどね、これって。
宗教の戒律は時代と共に弛んで行くもの。キリスト教もしかり。イスラム原理主義も過激なファトワーを出す預言者を排除すれば、異教徒へのテロも根絶でき、ムスリム社会の女性への弾圧も弛緩して行く。
大学寮を襲ったテロから生き延びた「パピチャ」達は、父親のいない子を育てながら、自分たちだけで生活して行く事を誓い合い、映画は終わります。どんな時代にあっても、どんな境遇に置かれようとも、命をはぐくんで行くのは女性たちであると言う、動かしようの無い事実。ゆえに、彼女たちを守って行かなければならないんだと、男は思うんですよ。
これが、今の日本のフェミ視点じゃ、しゃべつになるってのがw
やな世の中になったもんだよ。
映画の方は、良かったです。とっても。
主役のリナ・クードリはSpecialsの心理療養師役の女の子ですよね。今、思い出しました!
期待の新人ですね。
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