いつの時代にも何らかの規則があって、そのために自由が奪われ、一番の願いが叶わない。
この作品の時代背景も、そんなことで些細な希望が夢のまた夢の先にある。
だから、物語になる。それは重々わかる。
少し前に「JIN-仁」というテレビドラマがヒットしたが、その中で武田鉄矢さんが演じる医師が死ぬ間際、主人公の南方仁に対し「南方先生のいた世界は、太平の世ですか?」と問うシーンがあるが、南方は涙を流しながら頷いて答える。しかし今の世界も相変わらず戦争に明け暮れている。南方は死の間際の彼に対し、安心してもらいたいと思ったのだろう。未だ変わらず人間同士が戦いをやめない世界が現代だ。当時の志士たちが命を斗して太平の世を築き上げようとしたにもかかわらず…。
当時からの願い、人の願い、自由な思想と自由な発言。
変わったようで何も変わってない世界。
このことに気づいたとき、涙が流れてくる。
物語は、「4千両という身請け料は、登龍楼を超えれば夢じゃない」ことを伝えている。
この針の穴を通るような希望。
あきらめない意志。
その思いがあまりにも純朴なので涙があふれてくる。
しかしなぜ小野寺はつる屋では小松原と名乗っていたのだろう?
彼の言動が謎となっているので、ここにテーマや核があるのだろうか?
彼もまた、本心を他人には言えぬお家の事情などがあるのかもしれない。見合いの席をすっぽかしてまでつる屋に出向いたのは、自分自身の選択権を一縷の望みに掛けたのかもしれない。「実は好きな女子がいる」本当はそういいたかったのだ。
しかし立ち聞きしたこと。それはミヨの大きな夢。おそらく小野寺は、自分自身がそのような夢を持ってはおらず、ミヨに見合っていないのはむしろ自分自身だったことに気づかされたのではないだろうか?
恥
彼はもう一度出直す必要があったのだろう。自分自身を取り戻す必要を知ったのだ。
最後に心を寄せた女性に今後どうすればいいのかアドバイスする。彼の重要な役目と同時に決心も固めた。
彼なりに男と武士道を貫いたのだろう。その気持ちはわからなくはない。
主人公は女性。この時代にふさわしくない設定。しかも、親友の身請け人を目指すという有り得ないこと。
いつの時代でも、誰もが何でもできる、少なくとも希望は持てることをこの作品は伝えているのかもしれない。
わかりやすい作品だったし面白かった。
しかし、
松山ケンイチさんがあんなちょい役で登場させるほどの作品だったが、小松原が店じまい時間にやってきて、食べて去るとき、持ってきた提灯を忘れているが、忘れれば暗くて帰れないんじゃね。監督が「カット」したんだろうが、NGですね。