マリッジ・ストーリー : 映画評論・批評
2019年12月3日更新
2019年11月29日よりロードショー
大人になったバームバックが描く 傷つき、傷つけ合う二人の男女の物語
これは、気がつかないうちに相手を傷つけ、自らも傷を負う二人の男女の物語だ。
アダム・ドライヴァーが演じるチャーリーは、離婚調停の捜査員の目の前で思わぬ怪我をする。原因はさりげないことだったのに、その傷は深い。それは彼とニコールの別れに似ている。最初は弁護士抜きで進むはずだった離婚は拗れて泥沼にはまっていく。二人でレンタカーの後部座席にチャイルド・シートを取り付ける。お酒に酔ってよろめいたニコールをチャーリーが受け止める。それは離れていく二人がお互いに見せた思いやりの身振りだったはずだが、離婚調停の場でそれぞれの弁護士の手に渡ると、安全だったジェスチャーは互いにとって命取りの武器となる。行き違い、誤解、遠慮、我がまま。結婚の土台を少しずつ崩していった小さな傷が次々と明らかになっていく。
これは、男性と女性、家庭と仕事、ニューヨークとロサンゼルス、創作者と演技者のパワー・バランスについての映画でもある。
ハリウッドの新進女優だったニコールは自らキャリアの舵を切ってチャーリーとの劇団の仕事を選んだはずだった。しかし月日が経って彼女に残ったのは「(自分が)夫の才能に寄与してしまった」という想い。映画はチャーリーとニコール、双方の視点を行き来するが、ニコールの本来の足場であるロサンゼルスで話が展開することが多い。親権の確保のために劇団の仕事を離れ、ロスに部屋を借りざるを得ないチャーリーは、自分の場所を奪われたニコールの孤独を追体験する。
これは、私小説的な作品を作ってきたノア・バームバックらしい映画だ。「イカとクジラ」で両親の離婚に対する少年の想いを“大人は分かってくれない”という映画として撮った青年は、自らの離婚を下敷きに、別れていく父母の事情と想いを知り得ない八歳の少年を主人公夫婦の間に置いて、“子供は分かってくれない”という映画を撮る円熟した中年になった。
大人になったバームバックは、家庭を失った男の視点だけで物語を描くようなことはしない。チャーリーに、ニコールが最後に見せる優しさ。それは偶然にも、演じるスカーレット・ヨハンソンが「ジョジョ・ラビット」(19)でも見せたジェスチャーと重なる。一つの身振りが一人の女優によって二つの映画で繰り返されることで、観客にとってそれは愛の行為として刻まれることになる。
そして気がつく。これは離婚ではなく、結婚の物語なのだと。
(山崎まどか)