サマーフィーリング : 映画評論・批評
2019年7月2日更新
2019年7月6日よりシアター・イメージフォーラムほかにてロードショー
大切な人を失くしたふたり。行き場のないもどかしさを掻き立てる“あの夏の感じ”
昨年の東京国際映画祭でグランプリに輝いた「アマンダと僕」のミカエル・アース監督の前作であり、昨年開催の「交差する視点 - 日仏インディペンデント映画特集」では「この夏の感じ」というタイトルで上映されていた。
物語は若い女性サシャの死によって始まる。恋人ロレンスと、サシャの妹ゾエは、深い悲しみや葛藤を抱えながら、なんとか日常に向き合おうとする。アース監督は大きな事件や感情の爆発の代わりに、ベルリン、パリ、ニューヨークでロレンスとゾエが再会する時間を通じて、水面下の感情の高まりや揺らぎを捉えようと試みる。
本作と「アマンダと僕」との比較は避けられないだろう。同じ監督というだけでなく、「大切な誰かを失った喪失感とその後の日常」というコンセプトがほぼ同じだからだ。双子というほど似ていないが、誰が見ても兄弟か姉妹だとわかるくらいには印象が酷似している。
「アマンダと僕」が優れた作品であると認めた上で私見を述べると、自分は「サマー・フィーリング」が好きだ。どっちの方が上と言う話ではなく、ただただ「サマー・フィーリング」が大好きなのだ。好きだ、というのは印象論でしかないので、もう少し説明してみる。
「アマンダと僕」の中心が、主人公の青年と幼い姪との疑似親子的な関係だとすれば、ロレンスとゾエの関係性はもっと淡くて捉えどころがない。ふたりは“近しい誰かの死”という悲劇を共有しているからこそ、お互いを理解し、思いやり、時に誰よりも愛おしく感じるのだが、“近しい誰かの死”ゆえに近づき過ぎることができない。本作をロマンス映画と捉えるなら、なんともどかしく切ない関係性だろうか。
人間の感情は正体がわからない。喜怒哀楽には原因があるようで、理由がひとつとは限らないし、理由もなく気分が高揚することも沈み込むこともある。そんな処理しきれないモヤモヤが、大切な人を失くした“あの夏の感じ”と結びついてしまったことで、夏という季節が、夏の空気が、毎日の時間の流れが、行き場のないもどかしさを掻き立てる。だからこそ本作は、三章仕立てで舞台となる都市を変えながら、常に“夏”だけを描くのだ。
監督にとってタイトルの着想になったのは、ジョナサン・リッチマンが1983年に発表した名曲「That Summer Feeling」だったという。この甘酸っぱさとほろ苦さを兼ね備えた名曲に哀しみのレイヤーが貼り付いてしまっても構わないのであれば、鑑賞前に浴びるほど聴いてから劇場に出かけてみて欲しい。劇中では一切かからない曲だけど、鑑賞後の印象に広がりが増すように思うから。
(村山章)