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○作品全体
貴族側である華子と庶民側である美紀、どちらも生活に窮屈さが隣り合わせになっているけれど、その窮屈さが向かう先が「押込められる窮屈さ」と「抗う窮屈さ」で対比していたのが面白かった。
根底には「東京」という街があって、「東京」の上にあるそれぞれのコミュニティで生きていこうとする登場人物は、性差を超えて共感できた部分が多い。
共感できたからこそ心に響くセリフがたくさんあった。
『どこで生まれたって、最高って日もあれば泣きたくなる日もあるよ。でも、その日、何があったか話せる人がいるだけで、とりあえずは十分じゃない? 旦那さんでも友達でも。そういう人って、案外、出会えないから』
特にこのセリフ。周りからは順風満帆に見えても、その人が過ごした一日にクローズアップすれば、順風満帆な一日なんてそうそうやってこない。自分が選ばずして窮屈さを感じているのであっても、選んだうえで窮屈さを感じているのであっても、それを吐き出せるから闘っていけるし生活していける。心にストンと落ちてくるようなセリフだった。
登場人物にしろセリフにしろ、地に足ついた(自分の生活の地続きにあるような、といったほうが良いか)作品だからこそ、フィクションっぽいというか、ファンタジーっぽい展開にはちょっとがっかりした部分もあった。
一番はラスト。一言で言ってしまえば華子が生活してきたコミュニティをすべて放り投げて友人のマネージャーをやり始めたわけだけど、そのマネージャーというポジションがすごくフィクションだ。音楽家の友人がいるという部分は良いけれど、なんのノウハウもない中で、今まで貴族社会で生きてきた人間がマネージャーという仕事をするというのは、求められる能力もそうだし、代償があまりにもなさすぎないかと感じてしまった。離婚をしたときに青木家側から酷い仕打ちを受けるけれど、言ってしまえばそれだけで、社会的にマイナスになるわけでもない。もちろん、華子が新しい環境で「泣きたくなる日」を過ごしていないとは思っていないし、友人という「何があったか話せる人」がいるからこその前向きなラストなんだろうけど、それこそ本作の根幹である、コミュニティという要素は「友人」というコミュニティにも、「仕事仲間」というコミュニティにも該当するはずだ。「友人」というコミュニティから「仕事仲間」というコミュニティへと変化した世界を、ちょっとないがしろにしていないか、と思ったりした。
自分はもちろん貴族側のコミュニティでもないし、「東京の養分」から足掻こうとしているわけでもない。それでも生きている中での窮屈さだったり、周りからの目線というものは嫌というほど感じている。そういった部分の描写は素晴らしかった分、ラストの幸一郎の態度も含め、ファンタジーな部分が正直残念ではあった。
おそらくファンタジーっぽいと感じてしまった根幹には、幸一郎のポジションが曖昧なことにあるんだと思う。
女ったらしの二枚舌なわけだけど、最後は華子を尊重している。緩さを持ち合わせている幸一郎らしいといえばそうだけど、そうだとするならば離婚をした後の幸一郎は、「厳格な世界で生きなければ行けない幸一郎」であって、それは救われているのか?と思ってしまう。離婚をすることで間違いなく風当たりが強くなる。それはきっと、庶民の世界以上の風当たりなんだと思う。だからその逆風を与えるだけの「悪役」たる要素がないから、可哀想という感想を抱いてしまう。
幸一郎自身、結婚生活に限界が来ていたのかもしれないけれど、幸一郎は物語の途中で政治の世界で生きていくことを余儀なくされる。この部分に幸一郎がどういうスタンスで臨んでいるのかが語られていないから、幸一郎がどうしたいのかがわからないまま物語が進んでいってしまう。
女性の価値観の描写はセリフも含めて洗練されていたけれど、「仕事で疲れて不機嫌なダンナ」っていうステレオタイプを被せられている幸一郎を見ると、寄り添わない男という記号に逃げてしまっている気がする。それでいてラストはなんとなーく離婚を許容している幸一郎がいるし、ポジションが曖昧になっているなあ、と思ったりした。
メインキャラクターは華子と美紀の二人だけれど、その2人に繋がるのは幸一郎なんだし、幸一郎も含めてそれぞれが感じる社会の窮屈さを描いてあげてほしかったな、と思った。
○カメラワークとか
・橋の上で二人乗りをする少女たちと手を振る華子のシーンが凄くよかった。夜更け、街灯、橋、道路…いろんな要素によって華子と少女たちの世界が切り離されていることが演出されているんだけど、すごく些細な邂逅でありながら、それぞれが一生懸命に今ここで生きてるんだってことを伝えあっているようなシーン。
○その他
・正直一番納得行ってないのは幸一郎と別れたこと。
『どこで生まれたって~』の会話の後、華子は幸一郎に出会ったときに話した映画を見たかを聞く。幸一郎はその映画を見ていなかった。だからそこに華子は「何があったか話せる」人ではなかったと見切ったんだろうけど、そうした場合この華子と幸一郎のシーンって、なんだかチグハグというか、ミスリードな気がするんだよなあ。
そもそも華子という人物は「探る」ということを敬遠する人物として描かれていたはずだ。幸一郎の浮気の気配があるメッセージも見てみぬふりをしていた。この時点で幸一郎が裏表のある人間であることは分かっていたはずなのに、最後の最後で「本当に映画を見ていたのか」と幸一郎に投げ掛けるのは、むしろ「何があったか話せる」人に近づいたように感じてしまうんだよな。結局これは華子にとって「最後だから」で聞いたことなのかもしれないけれど。
距離感も謎だ。今まで二人が崩した姿勢で並んだのは幸一郎がクタクタになって帰ってきて、ベランダに腰掛けたときくらいだ。そこは華子が幸一郎寄り添おうと距離を近づけようとした(結局はそうはいかなかったが)空間だった。映画の話をぶり返すところも、二人は相当に体を崩して、リラックスした空間で話している。それであればここは「近づく」シーンだと思ったのだが、そうではなかった。このミスリードに意味があるとは、ちょっと思えない。
映画の話をするシーンって、今までの環境から変わってしまう決定打でなければ行けないと思うんだけど、そうではなかった。そういった映像演出もあって、納得いかんなあ、となった。