ジョーカーのレビュー・感想・評価
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ダークヒーローの誕生秘話
四の五の云っても、人殺しなのでジョーカーは悪い人です。そして悪は許すな、悪と戦え、悪は叩きのめして構わない、勧善懲悪の日本ではそう教えられて育ってきた。ならば、何故、ジョーカーはヒーローなのか。何故、ジョーカーは讃えられたのか。それは、有る意味でゴッサムシティーに巣くう悪と戦った、紛れもない英雄であるのだから。
とはいえ、人は殺しちゃいけません。犯罪ダメ、ゼッタイ。
作者ジョーカー、ということで。おっさん、以上。
「ハウス・ジャック・ビルト」から5か月ですか。娘っ子が大きくなるにつれ、映画鑑賞の予算も時間もがっつり削り、鑑賞してもレビュー書く時間がもったいない、とまで生活が激変した。
ああ、「ハウス・ジャック・ビルト」みたいな変態映画が(いろんな意味で)観れた、あの頃が本当に遠く感じる。
「ジョーカー」。お客さん、入ってるな。
賛否両論のようで。あらまあ、ほんと「ジョーカー」だな。観る前から、なんだか「思った通りの」映画になってるんじゃないの?という期待を胸に。
「ジョーカー」
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作者「ジョーカー」
監督トッド・フィリップスのことであり、ホアキンのことであり、製作陣のことであり、ひょっとしたら、最近マーヴェル映画をこき下ろしたニュースのマーティン・スコセッシもそうかもしれない。
本作を「ダークナイト」のジョーカーでない、「ジョーカーの誕生譚」とまで「何故か言い切ってしまう連中」。
あらまあ、見事に引っかかっている。
まあ、だいたいのことはこの膨大なレビュー数を見ればわかることだが、映画リテラシーが高いつもりでいる常連レビュアーが思いっきり勘違いしていることでも、本作は大成功なのではないか。ほんと。
いつからだって?最初からである。
追記
本作に登場するアルフレッドのキャラがゲスなのも「楽しい」。
負の感情が辿り着く先。
私は本作の「狂気」という宣伝文句に少し安心しながら見始めていた。「狂気」の表現は大概、自分自身とは無縁といっていい表現であるし、物語を通して「狂気」にふれるとき、一種の怖いもの見たさのような、安全な場所から危険な様子を見て好奇心をくすぐられるような感情を楽しんでいた節がある。
ただ、実際のところ本作は「狂気」の物語ではなかった。むしろ日常にある負の感情や自身の中だけで凝り固まっていく感情が少しずつ膨張していって、「社会の中の自分」という外郭を破って出てきた自己主義的な主観風景が前に出てきてしまった、というように感じた。そうなってしまうキッカケは誰にでもあって、主人公・アーサーは運悪くそのキッカケに出会いすぎてしまった、というような感覚を抱いた。上映が始まる前の安心感みたいなものは、すぐに無くなってしまった。
この感覚を抱いてしまったのはきっと、アーサーの日常風景がすごくありきたりなものに見えたからだと思う。母と噛み合っているのかいないのかわからないような会話をしたり、テレビの向こう側の華やかな世界を見て自分もその中で選ばれた人間になれたらと妄想したり、良いことがなくて背中を丸めながら階段を登ったり…どれもアーサーの生活の一部であり、そして誰にでもあるすごくありきたりな風景だ。しかしそれは誰にも見られたくない負の感情を抱えていて、その負の感情をあそこまで生活臭のする空気感で描かれると、ジョーカーが突き進む先は私の世界と無縁の「狂気」だ、と言えなくなる。
この作品で見せつけられた結末は「狂気」という非日常の異常性ではなく、日常の中で積もっていく負の感情が辿り着いた先なのだ。そのリアリティが「狂気」とは違うゾッとするような恐怖を生み出し、本作の魅力になっているのだと思う。
ジョーカーを名乗った空虚な男の妄想劇
どこまでが(劇中における)現実でどこまでが妄想なのか、と追求することはしない。作り手が解釈に委ねて明かす気はないと名言しているというだけでなく、それでは答え合わせに過ぎないから。ただ、はっきりと言えるのは、本作のジョーカーは「ジョーカーを名乗っている」というだけで、別にジョーカーではない、ということ。終盤の展開が本当なのか妄想なのかはともかく、ジョーカーを名乗った空虚な男に、大衆が自分たちの不満や怒りを託そうとする。その社会性がこの映画の肝であり、このひしゃげたご時世に爆発的に受け入れられた理由なんじゃなかろうか。
映画的には撮影、演技ともにみごとだが、気にかかるのはあからさまに『キング・オブ・コメディ』『タクシー・ドライバー』とハッキリ名指しできるスコセッシ映画をモチーフにしていること。アメコミ映画に新しいアングルからアプローチすることで、従来のジャンル映画の壁を破ろうという試みが、限りなく先達の作ったもの(スコセッシ映画)に近づいていく、といのはやはり懐古趣味ではないか。スコセッシ御大が今でも常に攻めているからこそ、目指す天井が見えてしまっている感じが気になった。
わかりやすい動機という落とし穴
ジョーカーという男はこんなにもわかりやすかったのか、と驚いた。バットマンシリーズはそれぞれ独立した世界なので、今回のジョーカーはこういう解釈なのだと言われてしまえばそれまでだが、本作はノーランの『ダークナイト』に近いリアル路線の世界観だったので、ノーラン版の印象をそのまま引きずって観ていたので驚いたのだ。
本作のジョーカーの世間を憎む動機はとてもわかりやすい。ノーラン版では、そのようなわかりやすい動機は示されなかった。ノーラン版は、なんというか、「混沌」そのものを愛してるような印象だった。口が裂けている理由がいつも違うのも、動機なんざどうでもいい、俺は混沌自体が好きなんだという風に見て取れた。その底知れなさに魅力だった。今回のジョーカーは、ある意味底が知れている。共感可能な理由も描かれる。実際共感を覚える人もたくさんいるようだ。
しかし、ちょっと待てと思う。その共感できるストーリーそのものが嘘かもしれない。本作が上手いのはここだ。映画全体を嘘かもしれないと提示することで、観客を混沌に落とし込む。この映画のそんな振る舞い方そのものがジョーカーっぽい。
絶望の果てにあるあっけらかんとした心の荒野
レトロな色調で映し出されるゴッサムシティの根底で生きる大道芸人、アーサーの、まるで人の不幸をまとめて請け負ったような日常に、まず惹きつけられる。誰しも、彼ほどではないにしろ、嫌なことが連続して起きることはあるし、そんな時、悲しむよりむしろ笑ってしまうことだってある。ついてない現実から逃避するため、愉快な妄想の中で思いっきり自分を解放してみたくもなる。トッド・フィリップス×ホアキン・フェニックスの「ジョーカー」は、観客の心の足を鷲掴みにして、物凄い力で地獄へと引き込もうとする。かつて、コミックス上のヴィランにこれほどシンパシーを感じたことがあっただろうか?そうして、これまで誰も描かなかった「なぜ」に踏み込んだ本作は、絶望の果てにある妙にあっけらかんとした心の荒野を大都会のど真ん中に設定して、人の世の悲喜劇を新たな形で提示する。今年一番の強烈な映画体験。そろそろ始まるアワードシーズンを間違いなく牽引する1作だ。
映画を見ながらこれほど身震いしたのは初めて
映画を見ながらこんなに身震いしたのは初めてだ。これはDCコミックの超有名ヴィランの誕生秘話の域を超えて、現代社会の喉元にナイフを食い込ませるかのような狂気と絶望に満ちた作品だ。ホアキン・フェニックスのあの肉体からしてどうだ。幾度も映し出される半裸の姿は、痩せているのになぜか肩のあたりが異様に隆起し、たったそれだけで彼の精神面での変動が透けて見えてくるかのよう。同じ半裸の男と拳銃の文脈でいうとスコセッシの「タクシードライバー」が脳裏に浮かぶが、もう一つ忘れてはいけないのがその対をなす「キング・オブ・コメディ」の存在だろう。ぶっ飛んだコメディを手がけてきたトッド・フィリップス監督がこれほどスコセッシとデ・ニーロを引き合いに「ジョーカー」を奏でるとは。やはり我々の暮らす今日の現代社会は混沌としたあの頃へ逆戻りしているのか。日常を侵食するこの感覚が僕らを狂わせる。誰しもの心の中にジョーカーはいる。
ジョーカーの喜劇的妄想が現実を侵食する恐怖と悲哀
「ハングオーバー」3部作のトッド・フィリップス、喜劇畑の職人監督という認識だったが、アメコミのヴィランを題材に、これほど深い人間洞察と確かな時代性とトリッキーな作劇を融合させた心理サスペンスを完成させるとは!
精神障害を持つ無名コメディアンが、ゴッサム市を恐怖と混乱に陥れるジョーカーになるまでを描く。彼が憧れる喜劇人役にロバート・デ・ニーロ。監督は「タクシードライバー」「キング・オブ・コメディ」の影響を公言しており、2作を鑑賞済みなら気づく点も多い。実在の連続殺人犯ジョン・ゲイシー(幼少から障害に苦しみ、成人後に道化師の装いで大勢を殺害)の影響も。
序盤でアーサーの妄想癖が提示される。最初は明示的だが、次第に妄想と現実が曖昧に。その過程はまるで彼の狂気が映画の現実(と観客)を侵食していくかのよう。終盤の暴動は格差社会で虐げられた人々の下剋上であり、トランプの時代に重なって映る。
マイノリティにも「生きやすい」社会
<映画のことば>
世間の目だ。
こう訴えてくる。
心の病などない。
普通の人のようにしていろ、と。
精神を病んでいるアーサー。
それゆえに、精神的に不安定になると、彼は不随意に(意図せずに)笑い出してしまうという。
「障害」というよりは、ある種の「病的な発作」と捉えるべきなのかも知れません。
服薬によって抑えられる症状なのかも知れませんけれども。
しかし、母との二人暮らしをしながら、カウンセリングを受けているが(今は)病院に
はかかっていない様子なのは、経済的な理由もあってのことと思います。
そんな生い立ちからか、コメディアン志望の彼。
首尾よく人気コメデイ番組の司会者に才能を見いだされ、ステージに上げてもらえて、望んでいたコメディアンの途が拓(ひら)けたものの、ネタづくりが、考えていたよりも、ずっとずっと重たいものだった。
そこへ、小児科病棟での賑やかしの仕事中の思わぬミスから、プロモーターからは解雇の憂き目に。
追い討ちをかけるように、地下鉄車内でのタチの良くない連中とのトラブル。
そういう不幸の積み重なりがが、彼を社会から疎外していってしまったよう。
「こんなに爪(つま)弾きにされるんなら、誰でも変わってしまうわなぁ」というのが、評論子の偽らざる想い。
結局、アーサーは、最後には拳銃の威力に自らの存在を託すまてになってしまう-。
清掃人組合のストライキで、生活環境が悪化しつつあったという世相が、周囲の人々の感情を、いよいよ刺々しいものにしていたのでしょうか。
そのプロセスには、本当に胸の痛む思いがします。
たとえ世間一般とは違った習慣・価値観の持ち主であっても、それが社会一般を害するものでない限り、それは個性として尊重されて、疎外されないような社会になったとすれば、それは、どんなに素敵な「生きやすい」社会であることでしょうか。
「人は生まれながらにして自由かつ平等であり、差別は、ただ公共の利益のために設けられる。」と高らかに謳いあげたのはフランス人権宣言(人および市民の権利に関する宣言)ですけれども。
その基本的人権尊重主義の考え方は、「差別」というフレーズを「社会からの疎外」と置き換えれば、そのまま本作にも通用するように思います。評論子は。
そして、基本的人権の保障は、常に社会的なマイノリティのためのものであることも、鮮やかに描き出していたとも思います。
民主主義・人権主義といわれる現代の日本社会に住まって、「基本的人権の尊重」とは、やや手垢(あか)に古された常套句のようにも受け取られ勝ちですけれども。
しかし、その意味合いをもう一度だけ問い直してみるためには、決して出来の悪い作品ではなかったと思います。
評論子自身への自戒も込めて、佳作と評しておきたいと思います。評論子は
(追記)
「楽しいから笑うのではない。 笑うから楽しいのだ」というのはウィリアム・ジェームズ(アメリカの哲学者・心理学者)の言葉だそうですけれども。
しかし、言ってみれば「笑えば笑うほど不幸に落ち込んでゆく」とでも形容すべき本作のアーサーを姿を観ていると、胸の痛さに、いたたまれません。
「救貧」「防貧」というのは、社会政策として修正資本主義国家が果たすべき仕事のはずなのですけれども。
勝本勘三郎(1867-1923)という人は、検察官のご出身で、後に犯罪の法を研究する刑法学者に転じた方ですが、国家が救貧・防貧のための施策をなおざりにしながら、その一方で(多くが貧困から生み出される)犯罪者だけを厳しく処罰することは、あたかも国家が犯罪という落とし穴を仕掛けておいて、たまたまその落とし穴に陥ってしまった者を犯罪者として取り分けて厳しく処罰するようなもので「惨も惨、酷も酷、これに過ぎたるはなし」と嘆いた気持ちが、評論子には、分かるように思います。
(追記)
本当の末筆ながら、お断りしておきます。
評論子は、この系統(DC、アメコミ)の作品も、ほとんど観ていませんし、バットマンシリーズをほとんど(まったく?)観ていません(今を去ること、おおよそ半世紀前に、30分枠のテレビシリーズで放送されたバットマンは視ている。)
したがって、本作と他のシリーズ作との関連性ということでは、いささか的外れなコメントなのかも知れませんけれども。
あくまでも、純粋に単品の映画作品としての本作のレビューであることを、ご理解いただきたいと思います。
間口を広げたタクシードライバー
バッドマンの敵役だとは何も知らず鑑賞。
最高。普段は忘れないようにシーンを書くがそれもいらない。
「タクシードライバー」は感想が二分する(おそらく)意味不明か共感で。
それよりも広い、反面教師ににすればそれまでだし、母を殺した理由を探せばそういう映画だし、バッドマンの裏側と感じればそうなる。街のうっぷん劣等感不平等。人生の捉え方万能感認められたい思い愛。病気への理解、認知、理解者。孤独。
別に通ぶるわけじゃないが、刺さらない人には刺さらなくてイイお話。
ただこの「どうしようもない思い」ってのは昔から俺だけじゃなく、お前だけじゃなく、少なからず「在る」って事が自分にとっては安心する。元気を貰える。
ただ様々な多様性にも合わせた現代で間口を広げることは自然かもしれないが個人的には、もっと物語をしぼってもよかったと思い4.5
悲しいよ、めちゃくちゃ哀しい。
アメリカであれだけ罪を重ねたら懲役何年になるんだろう?
人生に最低なんかなかった
さらに底がある…
終始暗い雰囲気で陰惨な事が起こってる中で
病院に日が差し込む美しい画があの場面に表現されるってのが
恐ろしい映画だなぁと思う。
一人殺せば悪党で、 百万人だと英雄だ。 数が殺人を正当化する。
チャップリンの言葉を思い出しました
いわゆる社会的弱者が家族にも友人にも恵まれなかった末路を観ているみたい
誰にも見向きもされなかった男が銃1つで沢山の人に注目される快感の演技がすごかった
思ったより良かった。
俳優の演技も画面の切り抜きもテーマもすごく面白かった。
(⚠️隙自語注意⚠️)
毒親母子家庭きょうだい児沖縄離島出身です。
本当になんの機会にも恵まれず、とにかくお金がない。時間もない。
勉強する場所も機会もなくインターネットも黎明期。ガラケーと重いパソコン。
自腹で携帯を持ち、自腹でADSLを契約し、二年生以降全額給付型奨学金でなんとか国立大を卒業するも
リーマンショックと東日本大震災で今まで一度も正社員になったことがありません。
職歴はブラック学習塾と臨時教員、コールセンターの夜勤、物流のみです。
母は重度自閉症の兄の世話をしながら働いていましたが、人並外れた体力やメンタルがあるわけもなく、
見事に◯藤◯とりにハマり、私は本当に家の中で空気のような存在でした。
特に衣食住は提供されるが世話をするわけでもないし、運動会や入学式、卒業式も来ない。
三者面談で先生が話し始める前に「うちお金ないんで、高校は公立だけで」と矢継ぎ早に言い出したのには参りました。
席に座る前にです。先生も「はぁ…、」って感じで引いてました。
私がジョーカー化してないのはおそらく知的障害がなかったからです。
IQが生きるために必要なすべての能力を測るわけではないですが、下がるほどに生活での困難が増える、というのが一般的な解釈です。
大人の知能指数の算出の仕方は単純なカレンダーエイジ分のメンタルエイジではなく偏差知能指数を使って算出されます。
IQ70未満のいわゆる知的障害のある方は全体の2%、グレーゾーンと呼ばれる方(IQ70-84)は社会全体に14%いると言われています。
ジョーカーは誤字脱字、空気の読めなさ、他人の言っていることへの理解力、仕事を続けるという努力の意味を理解すること、など知的障害があるという示唆があります。
さて長々と関係ない話をしましたが(いや本当に)
私がこの映画で一番感銘を受けたのは
「障害があっても助け合っていけたら彼は悪い方向に進まなかったと思う」
「彼を誰か救える人はいなかったのか」
「母親だけが彼の救いであった」
「子供が発達障害ですが、この映画の書き方は事実をとらえていません。否定的で悲しくなりました」
などの感想が溢れていたところです。
話せば、その立場に立てば、想像すれば「理解できる」なんて嘘です。
悲しいおっさんが笑う話
最後の笑いのみが本心からの笑い。
バットマンの悪役であるジョーカーだが、本作は独自に作ったもののため繋がりはない。ただ、一部設定は同じであるので細かいネタがある。事前に情報を知っていた方がいいのか微妙なところである。
映画の解釈については作中内に情報が少ないため正確なことはわからない。
かなり好きな映画
ストーリー、演技、映像美、音楽全てが最高の映画。
序盤の不良にリンチされるシーン、アーサーのみすぼらしい身なり、狭苦しいバスでの移動、パトカーのサイレンが鳴り響くゴミだらけの街並み...。そういったシーンから、アーサーが苦しい生活を送っているのが十分過ぎるほど伝わってくる。そのため映画にリアリティが出せていて、序盤から引き込まれてしまう。この映画がとても面白いのは、アーサーが感じてきた苦しみの表現が秀逸で、共感できる部分が多いからだ。
アーサーはウェインの会社の鼻持ちならない社員を殺したことで、彼のように世間に不満を持つ人間からの熱狂的な支持を得るようになる。今まで誰にも相手にされてこなかったアーサーが、初めて世間の肯定的な評価を受けるようになり、自分の行った殺人は正しかったのだと思い込むようになる。だから彼は徐々にダークサイドに堕ちていったが、むしろ堕ちた後の方が彼にとっては幸せなのだ。ジョーカーとして悪の道に振り切った彼はもはや失うものが無いため、抑圧されるものが無くなって、以前の少し間抜けだったアーサーの面影は無くなってしまう。
映像美や音楽等の演出も秀逸。荒廃した街並みや落書きだらけの電車、後半になるに連れて明るい曲が増えていくのが、全てアーサーの心境を表せていて素晴らしかった。
喜劇
自分も家庭環境が酷く、躁鬱を患っていて、才能を認められないとジョーカーには親近感が湧く側の人間としての評価であることが前提にある。
とはいえ、それはあくまで「他者が自分のことを見たら」鬱屈として無敵の人になるのかならないのか……どっちなんだい! といったように見えるというだけであって、自分自身は楽天的だし、自身の人生にとって有害な親や親族は全て縁は切っている。才能は世間に認められてはいないが、この世界は「楽しんだらクリア」というスーパーマリオの1-1よりも簡単なゲーム内容なので、あまり成功や金銭に執着は無い。曲を作ってゲームを作って絵を描いて……友達と遊んで。それだけで十分幸福だと言えるからだ
だからどれだけ屈折し、追い込まれ、そうするしかなくなったとしても、自分はジョーカーのようにはならないと確信している。その上で、きっと人生においてあまりに辛すぎる経験の数々によって麻痺した心がマトモに機能していたのなら、ジョーカーが自分の心に溜まった怒りや憎しみの澱を浄化してくれたようにも思えた。したくても理性によって留めていた拙いルサンチマンを、自分の代わりに解放してくれる快感、カタルシスを覚えただろうな。と素直に思ったのも事実だ
ジョーカーは去年の秋くらいに見たんだけどレビューできずにいたのは親の自殺未遂が何度もあって、縁は切っていても警察やら病院から呼び出されるので忙しく、その関係で金銭的にも時間にも余裕が持てなかった為である。それはまぁどうでもいい。誰が死のうが生きようが関係のない話だし、自分にとって人生のあらゆる判断基準は「楽しいか楽しくないか」の二点のみであるので、親が自殺未遂で病院に運ばれ駆けつけた時も
「楽しくないことに時間使わされて不快だなぁ」
という事だけを考えていた。それが毎月の様にあれば尚更だ。さっさと死んでくれたら楽だけども、葬式やらが面倒だし死んだら死んだでダルいなぁ、と。そのくらいにはもう無頓着である。無頓着であるが故に、きっとこうして楽しく生きられているのだろう。
なのでジョーカーのような道を歩むことはないと言えるのだけれど、それとは別として私は頭がよくない人が嫌いだから、例えば元日の震災でデマを流したり、人工地震がどうのと騒ぎ立てている人間を見て「こいつら死なないかなぁ」とぼんやり思っていた。陰謀論を信じようが信じまいがその人の勝手だけれど、今必要なのは被災者の無事を祈り、被災者にとって有益で確実と言える情報を拡散することだ。陰謀論の考察はその後にいくらでもしたらいい。
彼らは真実に気づいていると言う。このままでは日本が危ない!と。日本の為に、人の為に、救ってやりたいから真実を拡散しようという感情が彼らを突き動かしているのだろう。だって他人などどうでもよければ、真実を拡散などせず頭の悪い人間が陰謀に殺されるのを待っていればいいだけなのだから。
けれどそれでも真実とやらを拡散させるのは「自分は他の人が気づかないことに気づくことが出来る特別な人間だ」と信じ悦に浸りたいからか、「陰謀で被害を負う同族を見捨てられない」という正義心かのどちらかでしかないからだ。
彼らは後者だと言うだろう。だがその時点でもう彼らは破綻しているのである。だって、同族が苦しんでいる時に投げかけてやる言葉が応援でも心配でも、有意義な生活の知恵でも要救助者の情報拡散でもなく、人工地震がどうやって起きるかを説くことだけ。彼らは一体何を守りたくて真実を訴えているのだろうか。
同族を守りたくて真実を訴えているはずなのに、そのことに夢中になりすぎて、目の前で苦しんでいる同族を無視するどころか不安を煽るような情報ばかり拡散させて苦しめている。一体彼らは何と戦い、何を守ろうと必死になっているのだろうか。
政治批判をずっと繰り返し、著名人の誹謗中傷を繰り返し、確定してもいないゴシップの情報を鵜呑みにして誰が悪いだのと宣う。
私は、この人生をあらかた楽しんだあとは、こういう人間たちを片っ端から殺して回ったあとに死ぬのも悪くないかもな、と危険極まりない考えも度々よぎるのである。
別に人間がよりよい社会を!とか。
人間が地球の癌だから全生物の為に!とか。
崇高な目的などがある訳でもないし、優生思想など微塵も興味はない。もちろん人を殺して平気なんだ俺は、心がないからね。……なんて厨二病のようなことを言うつもりもなく、怒りで我を忘れようが人を殺すなんて出来るはずもない小心者である事は自覚している。
だけど、この世界に生まれた以上「楽しむ」以外に出来ることなどなく。
この世界に生まれたことでしかできない……美しい景色を見て、音を聴いて、味わって。あらゆる経験がこの世界を遊び尽くす、ということなのであれば「殺す」という経験も、折角生まれたのだから楽しんでおかなければもったいないと思うのだ。
いや、楽しくなんかはないだろう。主観的な視点で言うなら。私は誰かが喜んでいるのを見ている時が一番幸せだし、傷ついたら何とか助けてあげたいと、ボランティアに参加したり、3.11の時も溜めていたお小遣いを全額募金したりだってしてきた。優しい気持ちはちゃんとまだ残っているはずだ。
そんな気持ちを持ちながら「頭が悪く性根の腐った人間を皆殺しにしたい」と思うことははたして矛盾しているのだろうか。倫理を大切にしながら、知的好奇心の為に倫理を破り捨てることは人間にとって自然なことだと思う。
みんな、私が頭がイカれてると思うかもしれない、という思慮はきちんとある。至って正常な判断能力を有しているから。理解される必要はないし、されたいと思ってる訳では無いけれど、時々無性に寂しさを覚えるのもまた事実だ。
陰謀論者についていきなり批判したり、どうでもいい身の上話をしたり、情緒不安定に写るだろうけど、要はそれら全て引っ括めて「ジョーカーという映画のレビュー」だ、という事だ。分かるだろうか
私はこういった気持ちを抱えながら……。いや、抱えるなんて悲愴なものではないか。抱いていることすら普段忘れてしまうくらい誰かの笑顔の為に楽しく暮らしているが、心にはずっとそんな濁って澄み切った感情の澱が溜まっている
そんな全てを「俯瞰して見りゃ喜劇だから」と、私は私の感情や人生の全てを笑っている。私はずっと前から、自分の人生を喜劇として見ることが出来ているから、ジョーカーを見ても無敵の人になるようなことはないと思えたし、これが社会に悪影響を及ぼすようなものでは無いとも断言出来る。これを見たくらいで行動に起こせる人間は、鬱屈した負の感情を溜め込んだって人を殺すことすらできないような、何も成すことのできない不良品ではない
皆が皆、私のように見境なく幸福を貪る獣ではないのだから
同情はするが感情移入はできないなあ
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ジョーカーはコメディアンを目指す冴えない労働者だった。
心に病を抱えてて、辛かったり悲しかったりすると笑いが止まらなかった。
そんなある日、地下鉄でその笑いが出て、調子に乗った証券マン3人に暴行される。
その時はひょんなことから銃を持っており、3人を射殺。そして逃走に成功。
市民は貧富の差に不満を募らせており、その事件に肩入れする人は多かった。
またジョーカーは母から、ある有名実業家との間の子と聞かされてたが嘘だった。
調査すると、母は若い頃から虚言癖があり、それで入院してたことが判明。
しかも母の恋人が自分に暴行するのを止めず、自分はそれで精神を病んだことも判明。
こうして逆上し、母を殺す。さらに銃をくれた友人が保身に走ったため刺殺。
さらにコメディアンとして出た番組で司会者を射殺。逮捕される。
しかしこの事件をきっかけに市民が暴動を起こし、護送車が襲われる。
そして暴徒達に助け出され、悪の英雄みたくなる。
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悲しい話やな。まあ有能なおれには理解できない話ではあったが。
アメリカのお国柄はよく知らないが、底辺の者にあんなに冷たいのか?
悪役とは言えジョーカーには同情するし、悲しい気持ちになった。
最初の証券マン3人は調子乗り過ぎなんで、殺されてもいい。
母親の命を奪うのも愛情の反動なので、分からなくはない。
でも友人を殺したのはどうなんやろ?
保身に走ったとは言え、口裏を合わそうって提案して来ただけで、
罪を押し付けられるような酷いことはされてないと思うのやが。
最後の司会者もそう。そんなに悪い人には見えんのやけどなあ。
その司会者、よく見たらロバート・デ・ニーロやった。久々に見たわあ。
さよなら、アーサー
「子供を連れて来ないで」という異例のコメントを出した映画チェーンもあった。日米同時公開の今日、NYの劇場は厳戒体制が敷かれたという。
ジョーカーは悪意の震源である。彼のエネルギーが大きければ大きいほど、破壊の衝動の拡散は凄まじい。
自分たちの足元が崩壊するのではないか、という恐怖が映画の公開に警戒心を抱かせるのだろう。
逆に言えば、それくらい「ジョーカー」は注目され、多くの人が観る映画だということだ。
後にジョーカーとなるのは、ピエロの仕事をしている痩せぎすの青年・アーサー。彼はストレスがかかると笑いの発作が起きる。
哀しい笑い、苦しみの笑い。笑うべきじゃないのに、抑えてもこぼれ続ける哄笑に感情を引き裂かれる。
アーサーは、元々ジョーカーだった。
自分ではどうにもならない不具合を抱え、病気の母親を抱え、仕事は上手くいかずボロボロになりながら家へと続く階段を昇っていく。
ハッピーな笑顔を張りつけ、良い人間・アーサーでいるために、階段を昇る。
帰路にある階段は人の「高潔さ・善良さ」のメタファーなのだろう。どんなに最低な状況でも、階段を昇れば自分を「善」の世界に繋ぎ止めてくれている人がいる。
それを支えに、アーサーでいたいと努力する。
しかし、悲しいことに自分を支えていたものは一つ、また一つと崩れていく。「ここが底辺」だと思っていた、その更に下へと突き落とされる。
そして、滑稽なことに自分がハッピーとは程遠いと思っていたモノこそが、暗い喜びであることに気づいてしまう。
機会さえ与えられなかったら、アーサーのままでいられたかもしれない。積み重なった様々な要因が、一歩ずつ着実にジョーカーを呼び起こしてしまった。
人に笑いを届けたかった。本当に?
銃なんてハッピーじゃない。本当に?
もはや、アーサーでいたかったのかどうかすらわからない。開放されたジョーカーは、踊りながら階段を降りていく。
一歩、階段を降りる度にアーサーの欠片が落ちていく。ジョーカーの赤いスーツから。
高潔さなんてどうでもいい。もう、自分を偽るのはやめたんだ。
全編を通して、アーサー役のホアキン・フェニックスを観る映画だ。不協和音としか表現できない笑いと、メイクの下に張りついた哀しみ。
人に受け入れてもらおうとしては無視され、仮面をかなぐり捨てたら祭り上げられる不条理さ。
好演?怪演?むしろ「憑依」と言った方がしっくり来る。
ホアキン・フェニックスなくして「ジョーカー」は成立しない、完璧なピースだ。
好意を持ってもらおうと、ハッピーな表情をするのは私たちも同じだ。その「ハッピー」が本物になることを、切に願う。
最後に。さよなら、アーサー。
この3.5はホアキン・フェニックスの鬼才に捧ぐ
全く共感できなかったのはホアキン・フェニックスの大胆かつ奇妙な演技のせいか、私が幸せな人間だからなのか…。共感は出来ないけどアーサーの感情はきっと間違いではないと思うから、最後にはあの道化くさい笑いではなく心から笑えていてよかったと思う。
これが人生。嘘みたいだけど、夢を踏みつけて小躍りする人もいる。
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