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2018年、29歳で命を絶ち、本作を唯一の長編映画として残したフー・ボー監督の遺作である。事前に、ポスターでその事実を知り、切迫してヒリヒリした表現者の人生を想像させられた。そして実際の作品は、その通りのヒリヒリするものだった。
上映時間は、約4時間で休憩なし。しかし、上映時間の長さは感じなかった。登場人物たちの切迫した状況や、不安定で揺れ動く感情に引っ張られて、最後まで引きつけられた。
フー・ボー監督の死は、この4時間という上映時間を守るための抗議でもあったようだ。映画の世界で、これまで何度も繰り返されてきた上映時間と編集権をめぐる確執が、若きフー・ボー監督を抜擢した制作側との間に発生して、関係が悪化し、公開前に監督は自死した。そして、監督の意向通りの4時間バージョンが公開され、国際映画賞で高く評価されるに至った。
僕自身も別の世界だけれど、時にクリエイター側で、時に制作者側でその葛藤を経験した。お金と創造性の葛藤は解決し難いものだ。ある程度妥協しつつ、次の作品を作り続ける中で解消していくしかないように感じている。本作1作でこの才能が尽きてしまったのは、無念としか言いようがない。
本作には、4人の主要登場人物が登場する。それぞれが周囲との何らかの軋轢を抱え、何らかの〝事件〟に巻き込まれ、「もうここでは生きていけない」「でも、どこに行ったらいいのかわからない」という状況に追い込まれていく。
本作をみていると「ここでは生きてはいけない」のは、彼らが起こした〝事件〟のせいではない。「ここでは生きてはいけない」と追い込まれているから、事件となってしまっているのだ。
この映画では、全ての人間関係が破綻している。それはなぜかと言えば、全員が自分が暮らす世界を恨み、呪っているからだ。登場人物たちが「この世界はクソだ」というようなセリフを何度も言っている。
そして、その恨みと呪いが向かう先は、自分の目の前にいる身近な人だ。
この映画の会話のほとんどが「私がうまくいかないのは、お前のせいだ」という形に帰着する。
冒頭では、主人公の高校生ブーは、父親から「家が臭いのはお前のせいだ。お前のせいで、朝の気分が台無しになった」と攻め立てられる。
このブーを追いかけることになる不良チェンは、親友の妻と不倫している。そして、それが親友にバレると、親友は、チェンの前で窓から飛び降りて自殺する。衝動的な絶望死だが「俺の死はお前のせいだからな」と相手の心に刻みつけるための抗議の死にも見える。
そして、このチェンは、好きな女性の元に訪れて「お前が俺の相手をしてくれないせいでこんなことになった」と言う。
とにかく誰もが利己的で他責的だ。「自分には、いい気分になる権利がある。そうでないのは、お前のせいだ」という論理が支配する世界。そこでは、自分もその論理で、同じように振る舞わないと、被害者から抜け出せなくなってしまう。
そうして、相手に向かって「お前は価値がない。お前はクソだ」と言えば言うほど、自身の無価値性が際立ってくる。しかし、本作の登場人物たちは「私はクソだ」とは絶対に言わないし、認めないのである。無意識に押し込めたその事実から、彼らは復讐されている様にもみえる。
こう書くと、嫌な共感できない人物ばかり出てくるのかと思われそうだが、そうではない。4人の主要登場人物は、それぞれ魅力的である。身近な人に理不尽に扱われ、何らかの苦しさを抱えている。同時に、困難に、上手に対処するお金も力も持ち合わせていない。これには共感せざるを得ない。
生きているだけで追い込まれている〝無力感〟。「正体はこれだ」と特定できない〝名も無き不安〟に満ちている世界。その世界を、本作は体験する映画になっている。
その体験のためには、長回しが必要で、この4時間のどこをカットできたのかは僕にはわからない。監督にとって、またこの作品にとって必要な4時間だと感じた。
豊かになったはずの社会で分断と格差が進み、最も豊かな国アメリカでは、絶望死と言われる現象が広がっている。これまで多くの社会現象がアメリカで起こり、それが数年から十数年遅れて、世界各国や日本にも伝わるという現象があった。
もしも世界で絶望が広がるのならば、尚更、本作の持つ意味は大きなものになっていくはずだ。
フー・ボーが本作の重要モチーフとして採用し、絶望する登場人物たちが目指した〝静かに座っている象〟とはなんなのか? それはどんなものなのかを考え続けることが、亡きフー・ボー監督への供養でもあり、本作を受け止める一つの姿勢でもあるように感じている。
登場人物の一人のセリフのように「どこへ行っても同じ苦しみが待っている」のは確かにそうだろう。いくら移動しても、自分自身からは逃げられないからだ。「世界はクソだ」と認識し続ける限り、世界はクソであり続ける。
この重苦しい4時間の最後に、そこはかとない希望が象徴的に、かすかにほのめかす様な感じで描かれた。
多分、生きる理由は、どこかで見つかるはずだ。人と繋がることもできるはずだーーそんな希望を、本作を命をかけて守った監督から受け継いがなければならない……そう思わせる、これ以上ない切実さに満ちた一作だった。
多分、答えは近くにあるのだろう。ラストでは、そこにたまたま集った乗客たちで、羽蹴り遊びが始まる。バトミントンのシャトルのような羽を使う、平安貴族の蹴鞠(けまり)のような遊びだ。
これが見事にへたくそで全く繋がらない。しかし、このへたくそな羽蹴りのように、うまく繋がらなくても、いつかは調和して繋がることを期待して続けてみる。そこに希望があるのかもしれない。