タロウのバカのレビュー・感想・評価
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付き合う→できちゃった→結婚→離婚、あっ、「好き」はどこへ?
多分タロウの親がこんなんだから、「好き」の意味が全くわからないタロウ。学校にも行ってないから、倫理、常識、物事の善悪など全く知らずに無軌道に荒れていく。仲良くなった高校生のエージやスギオも似たように挫折感を抱えているので、タロウがバカをやっても拍車をかけるだけなのだ。痛みを知って想像力が働けば、暴力行為なんて思いとどまることもあるのに、エージはSだし、スギオはMといった感じで暴力も戯れの一つにしか見えないことが災いしてしまった(主観的意見です)。
「好き」という言葉はスギオだけが知ってるような口ぶりでしたが、彼はただやりたいだけだったのかもしれないし、大好きなヨーコが売春している事実を知って、頭の中の好きコマンドが正常に作動しなくなっただけのような気もする。でも気持ちはわかる。登場人物中、唯一共感できる心をもっていたのがスギオだからだ。
國村隼が登場して5分くらいで即刻退場するなんて『キル・ビル』以来初めてだったかもしれないけど、こういう贅沢な使い方が良作の証しにと意気込みを感じられるところ。その序盤、実際の障がい者を登場させ、彼らを食い物にしている吉岡のシークエンス。問題作となるゆえんでもあるけど、相模原障害者施設殺傷事件をも想起させ、人間一人の命の重みは障がい者であろうが健常人であろうが同じ。また戦争中であろうが平和な世の中であろうが同じ。といったテーマを表現するには必要だったのかもしれません。
また、河原で3度ほど登場するダウン症の愛子とその彼氏が非常に良かった。普通の会話もできるし、歌も歌えるので軽度なのかもしれませんが、「好き」という感情も持っているし、この点ではタロウよりも優れています。ただ、終盤の悲劇においては、経験したことのない感情だったため口にすることもできません。このおかげでタロウにも死生観がようやく認識できたのでしょうかね。
生きることと死ぬこと。実際に身内であるとか好きな人が死なないと感情が芽生えないのかもしれませんが、学校にも行けず情操教育なんて受けてないから粗雑な性格に育ってしまう。この映画を観て嫌悪感で満ち溢れるのもしょうがないけど、自分たちは恵まれてただけなんだと思えば彼らの行為がアンチテーゼとして愛を持って受け入れることができると思います。どうしても許せなかったのが、弱者からひったくりをする行為でしたが・・・拳銃が人の心まで変えてしまう恐ろしさも描いていたと感じました。
全くもって共感出来ない、最悪映画
いくらR15映画と言ったって、やって良い事と悪い事はある筈。モラルのカケラさえない、感動に近い物は全く無く、不快さに満ち溢れた糞みたいな映画でした。時計じかけのオレンジでも撮りたかったのか?バカは本作の監督そのものだ。
R指定のエログロ部分については、俺も決して嫌いではないので問題はそこでは無い。演出と割り切って観てられる。だが障害者に対しては別である。
冒頭から終盤までの、障害者を晒し者、笑われ者、嫌悪者のように描き、この糞監督はいったい障害者を社会の邪魔者とでも言いたいんだろか?本作に出演した障害者の方々やその御家族、傷付かれてないのか心配だ。仮にその方々には色々説明、説得した上の作品かもしれない。だが、観る側、障害者を持つ観客に対しては、結構なダメージとなりそうに感じる。こちとらR指定受けてるし芸術は自由だと宣うのであれば、せめて作品広告等に但書で、障害を持たれる方や御家族への配慮を記載すべきである。な、愛情のカケラも無い監督さん、制作、配給会社さんよ!
久々の菅田のああいうキレ演技は好きだが、作品は選んで欲しい。
レビュー見て怖くなった
コラージュのように、場面が継ぎ接ぎされていくが、話は確かに展開していき、ラストでタイトルの意味が効いてくる作劇は見事だった。ただ、冒頭の吉岡の語り、タロウの中年女性への語りは、この話の世界に不似合いで説明的過ぎた。あのセリフなくてもメッセージはちゃんと伝わったと思う。
印象的なのは彼らの叫びだ。彼らはみな、自分の意思とは関係なく、社会で生きるための最低レベルの尊厳すら奪われてしまう。悔しいと言えば、自分のせいではないのに負けたことになってしまう。努力したり誰かに頼ったりして挽回できる境遇でもない。そんな状況や心情を細やかに説明できる言葉も持ち合わせていないし、聞き取ってくれる相手もいない。彼らには発せられる言葉がない。だからこそ叫ぶのだ。そして、なんとか立ち上がろうと虚勢を張るほど、彼らの立場は危うくなり、ますます狂乱する。三人の主役は、この心の動きを迫真の叫びで演じきっていた。
なんでそんな叫ぶかわからんっていうレビューがちらほらあるが、そういう感性が世の中を包んでるからこそ、彼らは叫ぶのだ。それが伝わらないのかと愕然とする。映画に描かれた現実も怖いが、その現実にピンと来ない人がこんなにもいる現実はもっと怖い。日本社会の断然は相当深刻なところまで来てしまっているようだ。
現代社会の諸問題と死の価値観
まず、最初から衝撃的な障害者施設から物語は始まる。現実的にあそこまでの施設があるかはわからないが、存在する可能性もないとはいえない。
ネグレクト、無戸籍児、教師による体罰、援交、現代の日本が抱える諸問題の中で生きる、エージ、スギオ、タロウ3人の若者たち。
死ぬことの意味を軽く考えて生きてきた彼らに、スギオの死は本当の大切なものを失うという死の意味を教えてくれた。
好きという感情もわからなかったタロウは彼らと関わっていく内に、今までわからなかったいろんな感情を感じるようになる。
最後、エージが死んでしまった時、タロウは大好きな友を失くすこと、死ぬってこんなに悲しくて、辛いことなんだってわかったんじゃないかな。
タロウは本当にYOSHIくんで大正解です。
生きてる人間と死んだ人間、どっちの方が多い?
感想を伝える言葉が一個も思い浮かばなかった、、面白くないしつまらなくないし感動してないし退屈してないし共感してないし反対してない。絞り出すなら唖然とした、という感じ、、
感情が爆発するきっかけとなるような出来事がちょっとずつ意味わからないし、住んでる世界が違いすぎてこれが青春と言われても全然共感できないし、正直全然わからなかった。ただ、ちょっとしたスイッチ、勘違いなどで人間の感情なんてどこまでも暴走できるんだな、と身を以て感じてしまったような感触。とても非日常だけど、誰しもこう言うスイッチを押す危険をはらんでいる、のかもしれない??
セリフの拙さが、3人たちの浅はかさを妙にリアルに表現していて、ゾワッとなった。単語がたくさん連なって、言葉が支離滅裂な感じ。彼らの感情が、見ている側にぐさっと刺さる。全然わからなかったけれど、シーンがちょっとずつ対比で進み、複線のようなものを細かく回収していく感じが爽快だった。3人の中では憧れの存在のエージが吉岡や柔道部の前では圧倒的弱者だったりとか。意味わからない流れの割に、説明的なセリフがちょこちょこ入るのがむしろ安心してしまった笑
エージ演じる菅田将暉の狂気は想像通り凄まじくて最高だったが、個人的にスギオ演じる仲野太賀の、没個性的高校生からの箍の外れっぷりがうますぎて忘れられない。ラストの鏡の前での表情、秀逸すぎる。YOSHIも新人とは思えない、と言うか元からこう言う人間なのか?と錯覚するレベルの違和感ない演技だったと思う。
評価しづら!
荒廃とした世界
ほとんどが足立区、葛飾区近辺の高速下の荒川土手あたりの小菅拘置所や綾瀬近辺を殺伐とした舞台をエリアとして描かれており、劇中でも語られてますが昔センセーショナルに報道された綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人事件を思い出さずにいられませんでした。
15歳くらいの男の子が一度も学校に行ったことがなく
中途半端な不良2人の友達と過ごす日常。
だんだんと無軌道ぶりがエスカレートしていく。
究極のネグレストや援助交際などいろいろ出てきます。
主人公タロウ役には、本作デビューとなるモデルのYOSHI、タロウと行動をともにするエージを菅田将暉、スギオを太賀が演じています。
今年、立て続けに劇場公開された元SMAPの3人が主演した三作品がまったく宣伝活動がされずに終わったのに対して、本作が日本テレビの朝のテレビの情報番組で告知されていたのが驚きです!菅田将暉の力なのかビックリです。その中でYOSHIさんが2年後の18歳までにハリウッドで主演映画に出るのが目標と言っていたのが印象的でした、、
菅田将暉の本領発揮❗
菅田将暉本領発揮作品
私は好き。
生きることの馬鹿馬鹿しさとその貴重さが、三人の若者(そのうちの一人は名前もない16歳)のヤンチャ騒ぎの中に描かれる。
オチがあるようでないようで「は?なんで??」となる人もいるだろう。
けれど、生と死は、日常の中にこうして普通の顔をして在るものなのだろう。
この映画の中では、ところどころに「死」が現れ、その隙間隙間に「生」が息づいている。
本人達は気づいていないのであろう絶望と希望が、揉みくちゃになりながら最後のシーンへと繋がっていく、物語性のない物語だ。
これが初めての芝居だという新人YOSHIの生々しさ。菅田将暉と大賀の演技だとも思えないリアリティ。
菅田将暉は、こうした中途半端なチンピラ役で突っ走ってこそ本領を発揮する。大賀の、悪の中で揺れ動く真面目さもいい。主役のYOSHIは、ほとんど演技をしていないのに危うい存在感がある。
あちこちに純な若者達の姿が見える。いや、悪さをしながら皆純なのだ。行き場のない純なエネルギーが、どこに辿り着くのかは、実際に観て欲しい。
長期間は上映しないだろうし、上映している劇場も少ないが、只今上映中。
この手をインディーズ系というらしい。
先日観た「アルキメデスの大戦」より、こちらの方が私は好きだ。予想はしていたけれど。
久しぶりに映画のパンフレットを買った。パンフレットは軽くピラピラと眺めるに留めて、先入観なしで私の感想を書いてみた。パンフレットをじっくり読んで、もう一回くらい映画をじっくり観て、また書けたら、と思う。
映画の前にお茶した友人が「レビューが3点台だったから観ない」と言ったので一人で観たが、他人のレビューなどでいい映画を見逃すのはもったいない。純文学のようなこうした作品は流行らないのだ。少し毛色が似ていなくもない『ディストラクション・ベイビーズ』も、インディーズ映画好きの人にはお勧めしたい。どちらも、楽しい映画ではないが。
映画や芝居やコンサートを「消費」ではなく「生産」として観、聴きたいと、常々思っている。
タロウのバカ
重たい
エネルギッシュではある。
全編予告編みたいな
無関心
3人の行動は理解できないけど苦しみが伝わり苦しい
まずYOSHIが嫌い
闇の向こうにある場所
怒りの衝動と仲間内の高揚、そして覚醒の時間。スパイラルのように繰り返されるシーンが、やがて振り幅を大きくしていく。松尾芭蕉の「面白うてやがて悲しき鵜船哉」という俳句を思い起こさせる切なさが、物語全体を包む雰囲気となっている。
俳優陣はかなりしんどい演技だったと思う。長回しの上に登場人物たちの気持ちが複雑極まりない。よくこんな芝居を演じ切ったものだと感心する。意外かもしれないが、中でも半グレの吉岡を演じた奥野瑛太が特によかった。暴力と奸計で大金を手にする存在は、非力で孤立している主人公たちの対極を象徴している。
人間社会に生きていることはそれだけで不条理だ。誰もが不安と恐怖を感じ、欲求不満と怒りを抱いている。しかしのべつ幕なしに怒りを爆発させたり欲望のままに行動してしまうと社会では生きていけない。それは他人に不安と恐怖や実質的な被害を与え、社会の秩序を乱す行為だからだ。社会の秩序を維持することは快適な生活を担保する重大なファクターなのである。
だから誰もが心に闇を抱えつつ、それをひた隠しにしながら生きている。大抵の場合は自分自身に対しても隠している。そのほうが楽だからである。闇を自覚している人は他人の闇を想像する。他人に対する怒りは他人からの怒りに等しく、自分に跳ね返ってくる。だから怒りを表に出すことはない。結局自分自身の問題なのだ。
しかしそれでも何もかも投げ捨てて、全て壊してしまいたい衝動はある。壊すことは創ることだ。人間の文明は自然を壊すことで築き上げられた。しかし人間の生命は一度壊すともう元には戻らない。だから人を殺すためには一度自分が壊れるしかないのだ。
大森監督は人の心の闇を描く。2017年の「光」では闇の島から都会に出てきた若者を闇から来た父親が訪ね、闇、光、闇という心の変遷の物語を紡ぎ、2018年の「日日是好日」では茶の湯に光を求めながら心の奥底には闇を抱えつづける女性像を浮かび上がらせてみせた。いずれの作品も役者陣にとっては骨の折れる演技だったと思うが、それによって瑛太や井浦新、それに黒木華はひとつ壁を破ることができたと思う。
本作品では菅田将暉と太賀、それに新人のYOSHIは、様々な自己抑制、心のブレーキを振り捨てて、闇の衝動の発露を存分に演じてみせた。天才の菅田将暉は別格として、太賀の演技の自然さとYOSHIの存在感は大したものである。
理性のコントロールを捨てた彼らの行動を理性の集積である常識で批判することには何の意味もない。それよりも彼らの行動の根っこにあるものが、社会で生きる我々の最も隠しておきたい部分に一致していることを畏れるべきだ。怒り、破壊衝動、それに強力な武器。この組合せは中国で日本軍がやった残虐行為を思い起こさせる。
武器を失い仲間を失って破壊する手段の一切がなくなってしまえば、あとは叫ぶしかない。孤独で非力な人間の叫び。ある意味必然的なプロットであり、大いに納得のできるところだ。
演じた役者陣ほどではないが、観客にもそれなりの覚悟がいる。エージもスギオもタロウも観客自身の心に存在することを否定しない覚悟である。ひた隠しにしていた闇の存在をこの映画によって暴かれることは観客にとって辛いし、しんどいことだ。しかしそれを映画のせいにして批判するのはネトウヨと同じ精神構造である。誰もが心に闇を抱えていることを認め、自分自身を掘り下げていくことで闇の向こうにある場所に辿り着けるかもしれない。
バカすぎ?
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