久方ぶりの映画鑑賞!
いやあ、ホントに8月~9月は仕事がクッソ忙しかった。
会社の後輩に「相変わらず一人ブラック企業やってんすかww」と嗤われる始末。
そういや20年前から、なんでか俺だけが連日社泊して徹夜してたような(笑)。
来る仕事は、この齢になってもつい全部、拒むことなく受けちゃうんだよね。今はなんでだか、三部署分の仕事を一人でやらされてる……(笑)。
毎日深夜まで働きつつ、夏休みがとれなかったせいで土日に2度帰省して、さらに2座、百名山に登りに行ったりもして、本当に全く映画に行く余裕がなかった。
ああ、あと8月末には日帰りでサイトウキネンの「復活」聴きに松本まで行ったし(残念ながら駄演だった)。
で、最近になって、山積していた仕事がようやくひと段落。
久々の映画鑑賞に選んだのが、シュヴァンクマイエルの特集上映だった。
シュヴァンクマイエルは、僕にとっていわゆる「ヒーロー」の一人だ。
学生時代に短篇集と出逢って、一発で恋に落ちた。
というか、なんだか面白そうなのでいざ観てみたら、大好きだったピーター・ガブリエルの『スレッジハンマー』や『ビッグ・タイム』のクレイアニメーションMVの「元ネタ」であることに気づいて、仰天したのだ。
それから、当時ダゲレオ出版から出ていた(要するに今回特集上映をやっていたイメージフォーラムの出版部門ですね)VHSのパッケージを買いあさり、DVDが出てからはそちらも買いそろえた。『オテサーネク』以降の長篇はすべて封切りで観ている。
さすがにここ10年くらいは、あまり観返したりもしていないので、いろんな記憶がだいぶごっちゃになっているが、昔からシュヴァンクマイエルは、ダリオ・アルジェントと並ぶ僕のアイドルだった。
まさかそのシュヴァンクマイエルに、未公開の長篇最終作があって、それが封切りで観られるだなんて思ってもみなかった。
とはいえ、撮影時にシュヴァンクマイエルはすでに83歳。
かつてのマイ・ヒーローであったとしても、もはや「老人なりの映画」しか撮れなくなっている可能性もある。
ということで、若干おっかなびっくりで観に行ったのだけど……。
えええ、ぜんぜん元気じゃん!!
どーなってるの、シュヴァンクマイエル?
とても80過ぎた老人とは思えないくらいの、
「若やいだ」映画に仕上がっていて、マジびっくり。
俳優たちに地方都市の素人劇団の内情を演技させつつ、劇中劇としてチャペック兄弟の「虫の生活」を上演させ、さらには監督本人が登場する映画のメイキングや、俳優自身への「夢」に関するインタビューまで作品の随所に織り込んでいくという、三重構造の込み入ったメタっぽい構成に挑戦。
それを相応に成功させているどころか、
テンポ感も、編集感覚も、
昔に比べて、全然緩んでいない。
というか、あちこちで画面に登場するシュヴァンクマイエルご本人が、きわめて元気はつらつとしていて、頭脳明晰で、舌鋒も鋭く、まるで壮年の働き盛りのように現場を仕切っている!
なんてヴァイタリティ!
愛する奥さんに先立たれてから、どん底まで落ち込んでしおしおのパーになってるとか風の便りに聞いていたけど、全然そんなことないじゃないか(笑)。
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冒頭、ゴキブリのような衣装を身に着けた男が、慌てて道に飛び出してくる(あとから、これはフンコロガシの衣装であることがわかる)。
背後で、あおるように流れる「カチ、カチ、カチ」という時計の音。
男は、素人劇団の一員で、練習の開始に遅れそうで、急いでいるのだ。
坂道を走る男の後ろからは、なぜか集音マイクをもった男が追いかけていて、勢い余ってスっ転んでしまう。そう、映り込んでいるのは、本作『蟲』の製作スタッフだ。
さらに場面転換すると、ヤン・シュヴァンクマイエル本人が登場。
「本の場合はいつも『序文』というものがあって、著者が登場して本の意図について説明するのだから、映画においても監督がそれをやって何が悪かろうか」みたいなことをいって、劇作家のチャペック兄弟の人となりや本作製作の背景について、いきなり説明を始める(たしか『ルナシー』でもやっていた)。
で、そのヒッチコックみたいな前口上を「撮影する過程」そのものが、またもメタ的に観客に対して提示される。しゃべっているシュヴァンクマイエルと観客のあいだには、巨大な集音マイクが映り込み、背後から老齢の録音技師(おそらくは監督にとっては長年の相棒であり戦友であるスタッフ)がアームを伸ばしている。技師は、録音のキュー出しがなかったことについて文句を言い、シュヴァンクマイエルはそれに対して切り返す。
周辺でどっと沸く、シュヴァンクマイエル組のスタッフたち。
足元をうろうろ歩き回っている、監督の飼い犬(シェルティ? この犬はシュヴァンクマイエルが映り込むたびに、一緒に登場する)。
いやあ、なんて刺激的な作りの映画なのだろうか。
アッバス・キアロスタミみたいな仕掛けを、
シュヴァンクマイエルが楽しそうにやっている!
そう、これは、「演劇」のバックヤードを描く内幕ものでありつつ、同時に、それを題材とする映画を撮影する「映画製作チーム」のバックヤードを描く内幕ものでもある。
演劇に取り組む素人劇団の練習の様子を描くふりをして、その実、自分がこれまで手掛けてきた映画づくりそのものが題材となっている(とくにトリック撮影や特殊効果の実際に関して、これでもかとばかりに舞台裏を描き込んでくる)。
要するに、本作はシュヴァンクマイエルにとっての『アメリカの夜』(トリュフォー)や、『軽蔑』(ゴダール)に当たる、「映画製作を題材にした映画」なのだ。
モキュメンタリー的な暴露手法を映画内に取り込んで、しかもそれが作品にしっくり馴染んで、ハマっている。とても、83歳の老人が撮っている映画とは思えない。
後半になると、話が盛り上がりそうになったり、派手なアクションが起ころうとするたびに、「それを撮っているスタッフと特殊撮影の内幕」が挿入されて、ある意味お話としてはぶちこわしになる。あたかも「劇映画」としての高揚を「阻害」するかのように、裏事情の説明がくどくどと繰り返されるわけだ。
言い換えれば、みずからの劇映画を劇映画として成立させないために、シュヴァンクマイエルは「撮影の裏側の解説」を精力的に投入している。
あえて、自分の劇映画を「メタ的に壊す」作業。
これこそがシュヴァンクマイエルにとっては、むしろ主目的なのだ。
なぜなら、彼はシュルレアリストであり、
彼にとっての映画もまた、シュルレアリスム芸術の生成物であるべきものだからだ。
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劇映画としての『蟲』は、チャペック兄弟の「虫の生活」の第2幕「捕食生物」(いわゆる「プレデター」ってやつですね!)を上演しようとしている素人劇団の群像劇だ。
ただ、実際にこの映画の祖型となっているのは、むしろ別の作品なのではないかと、個人的には思っている。
「遅刻だ!遅刻だ!」(と口にするわけではないが)
あわてて坂を下りだす虫の扮装を身に着けた男。
たどり着いたのは、
どうしようもない面々の集まった練習場(居酒屋)。
夜勤明けの鉄道労働者で、ずうーっと寝ていて、
唐突に『リア王』のセリフを口走るデブ。
怒鳴り散らしてばかりのスノッブな演出家。
若い男を侍らせてベタベタしているその妻。
「芋虫」の扮装をしたチュチュのケバ子。
彼らはテーブルを囲んで、お茶を飲んでいる。
遅刻。疾走。お茶会。芋虫。
虫の幻影に侵蝕される後半戦。
「大きくなったり小さくなったりするフンコロガシ」。
『インディ・ジョーンズ』みたいに襲って来る巨大なフン!
『フェノミナ』みたいに虫の這いまわるガラス窓!
そして、何より、終盤戦の思いがけないグラン・ギニョル(残酷ショー)。
そう、これはチャペックの「虫の生活」を題材にした、
もう一つのシュヴァンクマイエルの『アリス』なのだ。
われわれはウサギならぬフンコロガシに導かれて、マッドハッターと三月ウサギとネムリネズミ(まさに!あの寄生虫オヤジじゃないですか!)の揃った「くるったお茶会」へといざなわれ、やがては凄惨なスプラッタを繰り返し目撃することになる。
シュヴァンクマイエルは、一度は自身で映画化した『不思議の国のアリス』の世界観を、「虫」と「演劇」をテーマに巧みに再話してみせた、ともいえるだろう。
その仕上がりは、あまりにシュヴァンクマイエルらしい、まさにシュヴァンクマイエルにしか作り得ない逸品となった。
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『蟲』のなかで起きる出来事の多くは、
理屈ではとうてい説明することができない。
終盤に起こる思いがけない殺人劇にしても、
本当に殺ったのかと思ったら殺っていなかったり、
殺ったふりかと思ったら二度と相手が出て来なかったり、
芋虫に関しては何が起こったかすら定かではなく、
総じて一筋縄ではいかない。
とにかく、いちいちウザいくらいに「メイキング」が挟まるので、劇中で何が実際に起きているのか、追いかける気力自体が持続できない(笑)。なんというか、どうせすべては作りものなのだから、整合性がどうとか考えること自体にいったいなんの意味があるの??みたいな……。
出産イベントに関しても、理屈では読み解きようがないが(なにせカットが切り替わるごとに赤子は成長するのみならず、性別まで変換するのだから)、少なくとも「オスの戦い」が繰り広げられて、片方のオスが勝利して、相手を殺る(=女とヤる)能力の足りなかった側が害虫同然に駆逐され、舞台上でオスの逆転劇(本当に入れ替わる)が発現し、メスは強かったほうの子だねを受け入れ出産する、という理念上の話としては一応理解できる。
死体人形を地下室に棄てに行かせるシーンのうんざりするようなリフレインや、それぞれが虫の幻影に脅かされ、いつしか虫の生態(捕食性)と同化していくような部分にも、「辻褄は合わないけど」「内的な整合性」は存在しているのだと思う。
ただ、シュヴァンクマイエル自身が作品内から「意味などない」「考えても仕方がない」という後ろ向きなメッセージをガンガン前向きに観客に送り付けてくるので(笑)、そのうち「まああんまり考えてもしょうがないかな」という気分になってくる。
まあ実際、考え過ぎても本当に意味はないのかもしれない。
とにかく、これは「シュルレアリスム」を体現した映画なのだ。
表面上の筋には、本当に重要なことなど、端から存在しない。
そんなことより。
口や目、体の一部のクローズアップ。
短いカットやカメラ目線のモンタージュ。
部分的に導入されるストップモーション。
とことん奇矯でくるった登場人物たち。
そういった、どこまでもシュヴァンクマイエル的で、あまりにシュヴァンクマイエルでしかない濃密な要素を味わうだけでも、この映画は十分に観る価値がある。
巨匠の最後の長篇作。
シュヴァンクマイエル本人がとにかく愉しみ抜いて作ったのが、ちゃんと伝わってくる作品だった。こうやって封切りで見られて、本当に良かった。
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●Wikiを見ると、カフカの「変身」が元ネタのひとつとあるけど、鏡の前での変身アニメーションとか、窓から飛び出すフンコロガシ男のことなのかな? あと寄生虫はストーリー上、ホントに「変身」しちゃったぽいけど。
●食事シーンの気持ち悪さ、効果音の生々しさ、人体描写のニチャっとした肉感、随所に挿入されるストップモーションの抜群のセンス、いずれも最高。
窓から見える干草の山の光景は、ヒエロニムス・ボスの『干草車』祭壇画を想起させる。
●それぞれの俳優に語らせる「夢」の話は、シュルレアリスムのむき出しの「本道」でもあって興味深い。
●音楽は徹底的に、スメタナの「売られた花嫁」序曲推し。もちろんチェコの大作曲家の代表曲なのだが、どちらかというと独特の弦の刻みが、蝟集する昆虫の立てるカサカサという音に似ているから選ばれたのだろう。他にリムスキー・コルサコフの「クマバチの飛行」が思い切り使われていて笑う。