「プロヂューサーは自分の母親を世界に誇る」ブレス しあわせの呼吸 DOGLOVER AKIKOさんの映画レビュー(感想・評価)
プロヂューサーは自分の母親を世界に誇る
荒涼たる冬の丘の上、海から吹き付けてくる風が冷たい。丘の上に立つと眼下に広々とした丘陵地帯が広がる。丘の上を青年が綱を引く。重そうに引いているのは父親を乗せた大きな車椅子。それを押す妻。3人の姿が逆光のなかでシルエットになって画面に映る。このモノクロの印象深いシーンが、尊厳死を望む父がそれを妻と息子に伝えるシーンにつながる。この美しい3人の印象的なシルエットを映画の予告編で観たとき、絶対この映画を見逃してはいけないと思った。
監督のアンデイー サーキスは、モーションキャプチャーの役者として第一人者。
この映画は、プロデューサーのジョナサン カベンデイシュの両親の話で、実話だそうだ。映画の中でもジョナサンが子供として出てくる。映画の中でのエピソードは全部、実際にあったことだそうだ。
ストーリーは
1958年英国植民地下のケニア。
兵役を終えたロビンは、その仲間たちとナイロビで茶葉の貿易商として生活をスタートさせる。ナイロビの英国社会では社交は最重要、、クリケット、テニス、お茶の会などで、英国人同士の親密な関係を築いていた。ロビンは美しいダイアナに恋をして結婚する。しかし幸せな結婚生活が始まり、ダイアナが妊娠したばかりの時に、突然ロビンにポリオの病魔が襲い掛かる。ロビンが28歳、ダイアナが25歳のことだった。
ロビンは、ポリオで首から下はすべて四肢麻痺し、自発呼吸も発語も嚥下も出来なくなり、余命わずかと宣言される。人工呼吸器が止まったら2分で窒息死だ。傷心のダイアナは出産後、英国にロビンと赤ちゃんを連れて帰国する。
首から下は麻痺して動かすことも感じることも出来ない上、自分で呼吸さえできないロビンは繰り返し妻と子に自分を見捨てるように頼む。それができないなら、家に帰って家で死にたい。病院でロビンの看護を見ていて、ダイアナは、電動の人工呼吸器を据え付ければ自宅でロビンを看護することができると思いつく。古い屋敷を買い取り、友人たちの手で家を改装する。電動呼吸器で命をつないでいるロビンの移動中は、手動の呼吸器で直接空気を肺に送ることができる。病院で医師の反対を押し切って退院したロビンのために、友人たちは、ベッドに車をつけて車椅子を発明(!)、さらに車椅子ごと移動できる大型自動車も改造する。このときの友人でもあったテデイ ホール医師はオックスフォードの教授であり車椅子の発明者とされている。当時の人工呼吸器つきの車椅子は、医学常識を覆し、先進的な医療機器の開発に貢献した。ロビンとダイアナ一家は外国旅行にも出かけ、ドイツなど医療界に、四肢麻痺患者として啓蒙活動を行った。
長年人口呼吸器を取り憑けていたロビンの肺へのダメージは大きかった。肺水腫から肺血腫を起こし、気管切開から失血するようになるともう治療法がない。ロビンが64歳になった時のことだ。しかし、妻子が人口呼吸器をとめることは、関節殺人になるのでできない。よくロビンを理解している医師は、妻と息子にアリバイを作るために外出させ、その間にロビンの希望通り投薬して去る。家にもどってきた妻と息子にロビンは笑顔でサヨナラを言ったとき、静かに呼吸が止まる。というストーリー。
最後の尊厳死。当時は違法だが、今ではこのような状態での尊厳死は多くの国や自治体で認められてきている。その「自治体に2年以上居住し、半年の余命であると2人以上の医師によって診断され、痛みの症状が耐え難い場合」という、条件付きでビクトリア州などでは尊厳死が許されている。しかしいまだにニューサウスウェルス州のように、尊厳死が違法の自治体も多く、早急な法整備が望まれる。いまやっと、医療界では生きるためのクオリティが、ただ延命させることよりも大切だという認識が広がってきた。病院の医療器具に縛られて延命させるより、患者の意志と尊厳を優先する、という人が生きる為のあたりまえの権利を、無条件で支持したい。
ポリオは全世界で猛威を振るった。急性灰白髄炎。ポリオウィルスは感染すると血流にのって脊髄を中心とする中枢神経を冒す。昔からあって沢山の人が死んだ。1960年は、日本でポリオが大流行した年だった。全国で報告された数だけで、6500人の患者が出て、日本ではまだ生ワクチンがなかったためソ連とカナダから緊急輸入されたワクチンを1300万人の子供達に一斉に投与された。並んでワクチンを飲んだこの時のことをよく覚えている。
小学校で一緒だった友達も両足に麻痺があり曲がった足で松葉杖をついていた。思い返してみると、私が知っているポリオ患者はみんなお金持ちの子供だった。高額の治療費、リハビリなど支払えないような患者は、みな成長する前に淘汰されて、生き残れなかったということだろう。恐ろしい時代だった。
戦後20年経ってやっと国産のポリオワクチンが定期接種されるようになって、日本では1972年を最後にポリオ患者は出ていない。予防注射がいかに大切か。予防接種を甘く見てはいけない。今年は米国など先進国で麻疹が大流行した。ベイカン、自然食、予防接種を受けない自由な子育て、などなど、、馬鹿を言ってはいけない。愚かな親は愚かな子しか作れないが、予防接種をしないでいた子供が予防接種前の小さな子供を感染させて殺すことを考えたら、予防接種しないことは殺人罪でもある。要は予防接種には必ず0.3%くらいの重篤な副作用の出る子供がいることだ。どんな良薬でも副作用は避けられない。そういった子供の診断を慎重に行い、国の責任で副作用の出た子供の治療を徹底することだ。それを避けるから予防接種を避ける親が出てくる。予防接種の副作用を訴える親達を否定する官僚どもも、接種を拒否する親も、みんな狂犬病予防接種を受けていない野犬たちの檻で1週間一緒に暮らしてから、そのあとでまだ生きていたら予防接種について話し合いのテーブルに付いて頂きたい。
映画に出てくる「鉄の肺」が多くの命を救った。鉄でできた棺桶のような、サブマリーンのような容器から頭だけ出して、中で陰圧と陽圧を交互に送り、自発呼吸できない患者の肺に空気を送る。高価な治療機械だから誰でも中に入って延命できるわけではない。映画の中で1970年初めにドイツの医療機器の最も整っている病院で何十台もの「鉄の肺」から頭を出している患者が整然と並んでいるシーンが出てくる。今では医療博物館でしか見られない。
ロビンは気管切開をしながらも、気道を塞げば会話ができて、口から飲んだり食べたりすることも出来るようになった。しかし電動呼吸器をとりつけるために気道切開している患者には、定期的に痰を吸引しなければならない。怠ると気道が塞がってしまって呼吸できなくなる。吸引はやる側とやられる側とのタイミングだ難しく、下手な人がやると窒息して死に至る。痰を吸い取り、そのチューブを清潔にしておくことは肺炎や誤飲を予防する為にも必須だ。麻痺患者の嚥下は、横を通る気道の邪魔になるから柔らかい流動食に近い者しか食べられない。だから便も柔らかい。麻痺で便通をコントロールできないから日に2回くらいは出る便を取り、尿を取り、臀部を綺麗にするだけで重労働だろう。老人介護をしている人は、食事の介助だけでなく、便と尿と痰の吸引で、身体的過労だけでなく心理的、精神的なダメージを受ける。一人二人でできることではない。こういった介助を文句言わずにやってきたダイアナの努力には驚かされる。仮に、妻は夫に従い、一生尽くすことが常識だった時代であったにしても、ダイアナの常識を超えた愛情には頭が下がる。
ケニアという植民地で商売をして暴利を得ていた富裕層だったことや、ロビンをとりまく妻や友人たちがケニアで自由な暮らしに親しんでいたために、保守的なイギリスの慣習に縛られずに済んでいた、という背景はあるだろう。それを差し引いても感動するのは、妻ダイアナの自由な発想だ。病院で死ぬより自宅で死にたいというわがままな夫のために手動呼吸器を抱えて家に連れ帰る勇気、生かすも殺すも自分の責任、と割り切って家に連れ帰るだけでなく外に連れ出し、夫と同じ車椅子を他の入院患者のために量産させ、外国旅行にも連れて行き、遅れた医療界の教育にも貢献する。こんな夫婦を理解する医師や友人たちとの心の交流、すべて感動につながる。
英国人スタッフと役者ばかりで、英国で撮影された映画で、ひとつもハリウッド文化が混じっていない。英国人らしいユーモアに満ちた会話の数々。アンドリュー ガーフィールドの首から下を全く動かせない演技が素晴らしい。友達に「おまえどっか動けるの?」と聞かれて、眉を上下させ次々と顔を動かしてみせる彼のひょうきんさと、その表情の豊かさ。生まれたばかりのジョナサンが顔の横に置かれたときの、うれしくて悲しい顔。大出血に茫然とするジョナサンに、「大丈夫だから、大丈夫。」と言い聞かせる父親の顔。さすがシェイクスピア劇団出身の役者。
28歳で死ぬはずだった夫が、25歳の妻に、「俺のことは忘れろ、君はまだやり直せる」といった言葉の方が真実に近かったろう。社会常識を破り、医療常識を打ち破り、法に逆らって、夫との愛に生きた強い女性ダイアナは立派だ。現実にこのような母親がいることを、映画プロデューサーのジョナサンは世界にむかって言っておかずにはいられなかったのだろう。これが僕のお母さんなのだ、と世界に向かって誇ってみせずにはいられなかったのだろう。心から同意する。
力強い、美しい映画だ