読まれなかった小説のレビュー・感想・評価
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時間をかけて丹念に醸成されていく空気、時間、会話、そして父と子の関係性
名匠ヌリ・ビルゲ・ジェイランが紡ぐ映画は、他では真似できない空気感と時の流れに満ちている。長尺の作品だからといって我々観客は変に力む必要はない。むしろ力を抜き、リラックスしてカメラが映し撮る雄大な自然や町のざわめき、人々の営みに少しずつ心をフォーカスしていけば良い。序盤は登場人物のセリフの量に驚かされるかもしれないが、それも慣れてくると心地よさへ変わる。耳を傾けていると彼らが話す内容は普遍的で、とても興味深いことばかりなのだ。
世界の果て、というイメージがある。しかしこの父と息子の物語は、遠い遠いところに住む我々日本人にとっても、極めて身近で、かつ普遍的なものだった。とてつもなく驚かされるエンディングが待ってるわけではないが、ある程度は予想できて、何よりも待ち望まれていたささやかな結末に向けて、この映画はゆっくりと旅を続ける。映画が終わった後、年老いた父と久々にじっくり話がしたくなった。
議論!問答!議論!問答!
原題は主人公シナンの書いた本のタイトルと同じ。意味は「野生の梨の木」
その中で使われている単語「アフラト」は梨の木の意味とトルコの遺跡のある町の名前である。これは作中でも言及される。
シナンの言葉や、そのあとの会話、何度も出る東部などから読み取れるのは、遺跡に代表される昔のトルコと、そのに生きる市井の人々の今と未来。つまり今のトルコを表していると思う。これが第一層。
今のトルコの市井の人々の中にシナンと父の物語があり、私たちが主に観ている第二層を形成する。
シナンは自分の本をメタノベルと言った。これはオートフィクションのことであり、自身のことを第三の主人公に置き換え小説の形をとる、日記と小説の中間のような作品だ。
常にシナンの視点で展開する本作がシナンの小説そのままであるともいえる。
シナンの夢や妄想のシーンが多く、振り替えってみると、作品内で起きた出来事のほとんどがシナンの夢ではなかったかと思えないこともない。
本は映画であり、映画の中が夢や妄想であった場合、シナンという男とは?というのが物語の帰結点で、最初に書いたメタノベルに回帰する。
昔は立派だったがギャンブルで失敗した父をシナンは嫌っている。
シナンの視点で観ているので、当然私たちの目にもシナンの父はしょうもない男に映る。
しかし実際は、シナン以外に父を悪く言う人はなく、本当にクソヤローなのは、大学を出ても仕事はせず、父と同様にろくに友達もいない、人をバカにし高圧的に議論を仕掛けるシナンの方なのだ。
もちろん父もダメな男だ。しかしシナンのクソさに比べれば可愛いものなのである。
町の大学を出たインテリで、自身の故郷である田舎やそこに住む人をバカにしていること。そして若いこと。この2つが相まってシナンを拗らせまくったクソヤローにしている。
何度も出てくる犬は父だ。その父の写し身である犬を売ることで、ある意味父と決別し、東部で兵役につき、本を出版することで自分の内面とも決別した。
そうして初めて、クソヤローだった頃の自分も認めてくれていたのは父だけだったと気付く。
子どもだった自分が井戸で首を吊る最後の妄想でクソヤローのシナンは死んだ。大人へ成長し、無意味だと思われる井戸を掘るエンディングは感動的だった。
巧妙に構成され、有名な戯曲や小説や映画などからの引用も多いらしく、とにかく複雑だが、普遍的な若者のやり場のない怒りと成長というメインプロットに対して、トルコの現状や宗教まで乗せたのは、関連性も薄くやりすぎで、そんなに面白くない。
何度もシナンが仕掛ける議論、問答、言い争い、これらの言葉攻めが楽しめなかった場合は本当に面白くないかもしれない。
そういう意味では、小説ないしは舞台劇のようで映画らしくなかった。映像は美しいのだけれど。
個性を認めて生きていくしかないのだ
トルコは親日だといわれているが。それはこっちの勝手な思い上がりで、世界を席巻したオスマントルコからアメリカを敵に回してクルド人を虐待し、ヨーロッパに圧力を掛けるエルドアン独裁政権は只者ではないし、相手をおもんばかり、あるいはむっつりと喋らない日本と違って、思ったことを口にせずにはおれないトルコ気質みたいなものが3時間存分に展開されて大変興味深い作品である。
印象に残ったのは、息子に好意を持ちながら、母親にこき使われ、古い田舎の重労働から抜け出せない鬱屈した美しい村娘の行末だ。教師で井戸掘りのダメ親父ぶりをとくとご覧あれ。
息子を持つすべての父親に献げる
奇跡も、成功も、そして大穴もない。それが人生。
「野生の梨の木」、
シナンが書いた初めての小説だ。
トルコの世界遺産の街で、青年は観光ガイドでも伝説の英雄譚でもなくちょっと風変わりな本を書いた。
なんの変哲もない市井の人々の、庶民の暮らしをだ。
長い映画だが、ついつい引き込まれてしまって、実は借りたDVDで3回も繰り返して観てしまったほどだ。
「読まれなかった小説」、これは仲々良い邦題ではないだろうか。
この本、母親も妹も中途で読むことをやめた。また置いてもらった街の書店でもただの一冊も売れなかった。
無理もない。
自分の生まれ育った街の、親戚や知り合いの会話をわざわざ活字で読んでも、それは彼女たち、そしてこの街の住民たちにとっては興味をもって取り上げるべきものでもなく、ドラマ性からは最も遠い、=つまり、ありふれた退屈な日常だからだ。
(息子が書いた本よりも、テレビのメロドラマに夢中になるのがこの街なのであり、シナンの家族だったのだ)。
しかし、鑑賞後に解る。シナンは庶民こそ、そしてわが家族こそ物語の主人公であり“英雄”だと思っている。
はすに構えて、鬱屈したこの青年は、自己を取り巻く全ての存在への、否定と肯定をしたためたのだ。
映画を観ていると、彼の本の「目次」が浮かんで見えてくるようだった。
恋人、友人、宗教家、街の名士、祖父母たち、出会うひと、出会うひと・・それぞれの単元で目次と台詞が刻まれていったのだろう。
言うなれば
この映画こそがこの小説「野生の梨の木」の映像化だったのだと思う。
兵役から帰ったシナンは、顔つきが違う。
夢を追い、夢に追いつけない我が父に、初めて同性として、挫折を知る者として心が触れた再会だ。
父の隠れ家で、寒風に吹かれて座る二人のシーンがクライマックス。
父親が本の内容について思いもかけない肯定的な感想を語ってくれるあそこだ。
―「私のことを書いた箇所もあったな」
―「ひどい書かれようだがしかたない」
―「若者は老人を批判するものだ、そうやって前進する」。
父の声に
シナンの表情が安堵にほどける。
若気の至りを、遠く想い出して、こそばゆく感じた鑑賞者は僕だけではないだろう。
息子に否定されている苦しい日々の父親たちも、かつての自身と父親との軋轢の日を振り返ったはずだ。
井戸掘りは挫折し、水は出なかった。しかし息子は思いもしなかった水脈を掘り当てたようだ。
・・・・・・・・・・・
間に合うか
まだ間に合うか
井戸を掘る
タイトルなし
.
トロイ遺跡の近くの町
ギャンブル依存の父への反発
思い通りにはならない人生
仲間とチャイを飲みながら
"コーラン"の教えについて議論する
トルコの農村地区での暮らしがみえる
この地で生きることを考える
3時間長いけど…引き込まれました
誰も読まなかったシナンの本
…お父さん😢
最後には涙してました。
レベルのちがう重み
ヌリビルゲジェイラン監督の作品はレビューがしづらい。
なんていうか、人生の深淵を見つめる感覚が、半端なさ過ぎる。
その目線/洞察力にくらべたら、わたしたちの世界は、なんと甘ったるいものであろうか──と思ってしまい、萎縮してしまう。
ロシアのアンドレイズビャギンツェフ監督もそんな感じがある。
イランのアスガーファルハディ監督の映画もその感じがある。
わたしは牽強付会とは知っているものの、海外映画と日本映画の比較へもっていく文章展開が好きである。
アメリカや韓国などとくらべて、比較的映画が発達していない(と思われている)国々がある。
日本映画もほんとは発達していないが、一般的な日本人の見地から、映画の第三世界と見なされている国がある。多分ふつうの日本人は「トルコの映画、へえ、めずらしい」ということになるはずである。
ところが、じっさいその映画を見ると、日本より、だんぜん精神性が大人である。
その「大人」も、われわれが常用する「大人」より、ずっと「大人」である。
精神性だけでなく、映画もずっとじょうずだ。
それが衝撃や萎縮になる。
なにか一つを見てそう思ってしまうのは、たしかに牽強付会であり過剰一般化でもある。が、わたしたちはいったいどんだけの文明国だっていうのだろう。──という気分になる、わけである。
映画は、それを探究するひとにとっては、とても影響力の高いものだ。
茫漠たる農村がひろがっている。しみったれた田舎である。だけど、カメラは流麗である。テクノロジカルでぐいぐいフォローする。
に加えて、アナトリアでも見た語る長回し。後頭部を超スローでズームしていくだけで、そこに人生が見える。
シナンが大学を卒業して、田舎に戻ってくる。小説みたいなものを書いて、出版しようとしている。かれは田舎で終わりたくないと思っている、類型的なモラトリアムである。
だが映画に類型性はない。モラトリアムな青年だが、その年代の日本人よりも、かれは多種多様なことを考えている。が、社会は手厳しい。辛辣である。
しんらつとはなんだろう。辛辣とは、たとえば夢を追ってがんばっている人にたいして「おまえには才能がないからやめろ」と言うようなこと──を指している。
そんなダイレクトな言及はないが、その辛辣が映画にはある。思えばわたしたちは、なんと優しい世界に生きているのだろう。
こういった映画と日本映画、たとえば「21世紀の女の子」なんかとの併映は、とても考えさせる試みだと思う。大人と子供のちがい。社会や社会システムのちがい。つくづく圧倒させられる映画体験だった。
【”若者は旧いモノを拒絶し、前進しようとする。だが、時と共に、身の丈を知るとともに、先人の経験を学ぶ。深いテーマを描いた見応えある作品である。重厚な文学作品を読了した後の満足感に浸れる作品でもある。】
<Caution 下記、レビューは、可なり、ネタバレしています・・。>
◆大学を卒業したシナン・カラスは、久しぶりに育った街”チャナカレ”の帰郷する。
そこで、久しぶりに会う人々。
ある人は”おやじさんに貸した金貨三枚を返すように言ってくれ・・”と言い、
高校時代、少し気になっていた女性ハティジェは、周囲を気にしながら、煙草を吸い”街を出る”と言い、シナンと別れの口づけをした際に、シナンの唇を噛む・・。
教師である父イドリスは、競馬にお金をつぎ込み、家に稼ぎを入れていない・・。
シナンは、教職の試験を受けるが・・、問題が解けず、作家への道を模索する・・。
■大学卒業直後、地元に戻ったシナンの戸惑い。”自分が育った街は、こんなに旧弊で、魅力のない街だったのか・・。”
そして、父も、且つての誇らしき姿は色褪せ、村人に呆れられながらも、”水の出ない”井戸を掘り、競馬をし、常に金欠・・。
■街の本屋で偶々会った、有名作家であるスレイマンと、シナンの価値観の違いを浮き彫りにさせる会話が、妙に面白い。
若き、理想主義的な想いを口にするシナンと
”君は未だ若い。言っている事は分かるが、甘ったるい・・”
と言う言葉を返すスレイマン。
■シナンは何とか出版の金を集め、「野生の梨の木」を出版する。母は喜ぶが、作品は売れない。
■兵役から戻ったシナンは、母の元を訪れ、今は離れて暮らす父の元へ赴く。
父は、彼が書いた、「野生の梨の木」をしっかりと読み込んでいた・・。
<そして、シナンは”父が掘ることを諦めた”井戸の底に下り、自らの若き頃の過ちを償う”幻影に見ながら・・” 一人井戸を掘るのであった・・。>
■蛇足
資料を読むと、今作の舞台はトルコ北西部チャナカレである。そう、劇中でも時折触れられる「トロイの木馬」や「ガリポリの戦い」で有名な地方である。
だが、今は、トルコ国内でも、領域的には、”田舎”である。時は移ろうのである・・。
一人一人が閉じてる。言葉が独立してて、独り歩きする世界。雪の風景、...
一人一人が閉じてる。言葉が独立してて、独り歩きする世界。雪の風景、美しい。長い。でも、この長さはこのためにあったのかと思う結末。
コーランと口論
どことなく若きスタローンを思い出す風貌の青年シナン。大学を卒業したばかりの彼はトロイ遺跡近くの故郷へ戻り、処女小説「野生の梨の木」を出版しようと奔走する。500部ほどでいいというから自己満足の賜物なのか、とにかく印刷予算2000リラにはあと少し・・・。
彼の父イドリスは小学校教師であり、週末には競馬に明け暮れ借金も多い。シナンからすれば聖職とは名ばかりのダメ親父に映っていたのだ。しかし、大学も出してもらってるし、尊敬はできないけど、完全には亀裂が生じてるほどでもない。祖父の畑に井戸を掘る作業も手伝ったりするのだ。井戸を掘って水を引こうというのがイドリスの夢。水さえ出れば貧しい農村に潤いを与えて暮らしが楽になるはずだという信念からだった。
ストーリーはかなり穏やかではあるけど、一旦議論が始まると激しく感情を揺さぶられる。とは言っても、ほとんどがシナンの若気の至りと言うべき人生経験の無さに腹を立てるといった具合。すでに小説家気取りの彼には全く共感はできないのだ。それでも家族に対する優しさも感じられ、父との関係をどう修復するのか?といった視点で展開を追う。
彼が世の中を知るのは町長の言葉や採砂工場のボスの言葉。そして思いっきり青春しているハティジェとの終わった恋やルザとのケンカ。しかし、地元の小説家スレイマンに対しては稚拙な文学論でくってかかるのだ。それは父親に対しても同じで、人生経験の無さを読み漁った書物でケンカを売ってるようなものだった。そして、家に金が無く、電気を止められた経験を経て・・・
山手にある畜産農家。ヤギのベルの音も心地よく響き、猟犬やジャッカルという動物に焦点を当てたかと思うと、アリにたかられる光景という珍しい映像も飛び出してくる。畑の中腹にある一本の木には意味ありげな朽ちたロープが掛けられていて、それが自殺を象徴するものだと感じるのですが、夢の中では死を連想するものもあった。しかし、導師二人の会話を聞くにつれ、神のいる国とそうでない国では犯罪と自殺者の数に違いがあるということだった。イスラム教もキリスト教とそれほどの相違はないこともわかるし、貧しい農村であっても神を信じる人々の社会には自殺者も少ないということだ。かなりミスリードする映像(特に赤ん坊がアリにたかられるカット)もあったけど、借金苦で自殺するという単純な物語ではなかった。
一番のミスリードは「読まれなかった小説」というタイトルだと思う。母親想いのシナンが丁寧にサインしてプレゼントした本は途中までしか読まれなかったし、妹も勉強で忙しいため未読だという。そして、案の定、書店に置いてもらった小説は全く売れずにいたが、父親だけはシナンのことをちゃんと理解していたのだ。3時間超の長尺もここにきて急展開。我慢して観た甲斐があったというもの。そしてその終盤にもミスリードする映像・・・シナンが首吊り自殺?!と思わせておいて、ただ井戸に降りただけというオマケつきだ。しかし長かった。商業ベースじゃないのだろうけど、ここまでして映画で文学を表現してもいいのだろうか。と感じた。
言葉遊びに終始した超低予算映画!
とにかくダラダラ映画。
新橋のサラリーマンの居酒屋トークや、新宿ゴールデン街で役者の卵が演劇論を戦わせているのと全く同じ構図に終始した3時間余り。
単なる言葉遊びに付き合わされるだけ。
座席の周囲には居眠りする人生の先輩お年寄り多数で、いびきの音もちらほら。
このような映画に耐えることが、人生修行の場だと解脱させる狙いと思い知りました。
人生はつらい
大学を卒業したばかりの主人公シナンは、まだ若くて一貫性がない。若者らしく既存の価値観を否定するのはいいのだが、その一方で父親を非難する拠り所は既存の価値観だ。
人間は元々整合性に欠ける存在である。理想を言えば言うほど、そしてその理想が高ければ高いほど、整合性は損なわれる。理想と現実が一致することは決してあり得ず、ふたつの乖離はひとりの人間の存在に現れる。
主人公はそこのところが理解できておらず、父親を非難し、母親を傷つける。職業作家のスレイマンが主人公の矛盾を鋭く指摘すると、今度は相手の人格攻撃をはじめる。更にそれを指摘されると、そんなつもりではないと誤魔化す。
実に感情移入しにくい主人公であり、観客として戸惑うところである。シナンが議論を吹きかける相手は世代的に上の人間たちだ。大学を出ても恵まれない自分の身の上から、社会に対して敵愾心を持つのである。中島みゆきの「世情」という歌を思い出した。歌詞に次の一節がある。
シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく
変わらない夢を流れに求めて
時の流れを止めて変わらない夢を
見たがる者たちと闘うため
中島みゆきらしく不思議にわかりにくい歌詞だが、保守と革新のせめぎ合いの中に人間の哀れな本質を嘆いている歌詞だと思う。つまり世の中の支配層は自分たちの支配が続いて不自由のない生活が続くことを願い、被支配層は世の中が変わって貧しい生活から脱却出来ることを願う。そのために支配層である権力者と闘うのだ。生活の維持向上を願っている点はどちらも同じである。
富の公平な分配は凡そ実現困難で、たとえ共産主義の国になろうとも、分配を司る者と分配を受ける者たちとの間で否応なしに格差が生まれる。それはロシアを見ても中国を見ても明らかだ。そして権力者による公平な分配は安定と画一を生み、社会を停滞させる。格差はダイナミズムであり、社会や文明が発展する力になる。人間は本質的に格差が好きなのだ。中国経済は富の分配を縮小した途端に飛躍的に成長した。
格差は否応なしに存在する。スポーツに熱狂する人は格差を愛する人である。スポーツに限らず、優劣を決めるのは格の違いを決めることだ。勝負の世界に平等はない。
格差をなくして自由平等な世界を作ろうとするシュプレヒコールの波は、必ず壁に突き当たって挫折する。格差を認めて自分だけ上の方に這い上がろうとするのが人間の悲しい性であるからだ。格差を乗り越えて巨万の富を得る者が出現することがあり、アメリカン・ドリームと呼ばれる。日本語で言えば単なる成金だ。
本作品はトルコ経済の厳しい現状の中で、人々が何を悩み、何を求めているのかを切実に描き出す。就職の狭き門、無為で無益な兵役、朝食の小遣いにも不自由する年配者、ギャンブルにしか楽しみを見いだせない文化度の低い社会、そしてイスラム教。
政治にも宗教にも救われない苦しい生活の中で、それでも人々は日々の生活に小さな喜びを見出しながら生きていく。井戸を掘って水が出れば農家が楽になるという父の夢は、冷めた息子にどのように映っていたのか。
延々と会話の続く作品だが、登場人物それぞれに知識や考え方が偏っている上に学者のようなニュートラルな議論ができないから、会話に未来はない。でこぼこ道に水たまりが残るような、そんな会話ばかりだ。それは主人公の自省の欠如に由来する。その傲岸不遜な性格はさておき、主人公の言葉の端々には家族に対する思いやりや優しさ、感謝の気持ちが微かに感じられる。特にラストシーンだ。そのあたりが本作品の救いだと思う。
寝不足注意
3時間の映画でしたが、哲学的?或は宗教的?な会話シーンでは、はっきり言って思考が飛んでました。また寝落ちする典型的な映画であることも付け加えておきます。
しかしながら、テーマは一貫しており、また、世俗的なシーンもちゃんとあるので見られないことはないです。まぁ、好みが分れるところではありますが(比喩的なシーンもあるので)、この映画を見届けたならば、もう上映は終わってしまったところもあると思いますけど「サタンタンゴ」も寝落ちせずに見られることでしょう。ついでに言うと「アイリッシュマン」も「象は静かに座っている」も、ひるむことなし・・・?
前半に少し落ちる(-_-)zzz 息子が親父をなじり続ける3時間(...
前半に少し落ちる(-_-)zzz
息子が親父をなじり続ける3時間(苦笑)
名作『雪の轍』の監督だけあって、物凄い量の台詞の洪水が観客を襲う(´-`)
『雪の轍』の台詞の数も凄かったが。今回は中盤での男3人で語り合う、コーランの定義や、神・宗教論。それ以外にも人間の尊厳だったり、テクノロジー等に対しての議論が…まあ〜〜〜〜〜長〜〜〜〜い!その台詞の量が、また半端ないくらいに凄かった。
作品中には何度となく【死】を予感させる《夢》を、息子と父親はそれぞれ見る。
それが〝何〟を表現しているのか?ひょっとしたら神からの何らかの〝暗示や示唆〟を表しているのか?
ラストシーンは、「それでも一歩すつ進んで行く」との考え方なのだろうか?
正直な話。この辺りのちょっとした宗教的な考え方等が、我々日本人にはちょっと難しい。ここを理解出来たならば、もっと作品を楽しめるのだろうけど…。
ただ親父よ! そんな昼寝すな〜(`・ω・´)
死んだと思ったぞ!
2019年12月6日 ヒューマントラスト有楽町/シアター2
ポスターとトルコ作品(正解には8ヵ国合作)の 2点に惹かれ...
ポスターとトルコ作品(正解には8ヵ国合作)の
2点に惹かれ公開を楽しみにしていた
ヌリ・ビルゲ・ジェイランの監督作品。
この監督さんの名前も作品も知らなくて
アマゾンプライムに過去作の2作品が
あったので予習を兼ねて観ようと思ったら
「雪の轍」2時間30分
「昔々、アナトリアで」3時間16分
と長尺作品で時間が取れず断念。
「雪の轍」は第67回カンヌ国際映画祭
パルムドール受賞作品。
そして本作も3時間9分の長尺
先週の金曜日に仕事帰りに観たんですが
ちょっと落ちましたw😪
決してつまらないわけでは無くて
先週はハードワーク&寝不足でお疲れモード全開だったせいです😆
ただ、この作品は幾つかのエピソードを
積み重ねた感じの作りで、ちょっとの寝落ちでもストーリーに置いていかれることが無かったので助かりました😔
大きな変化があるわけでもなく、
かといって淡白とは言いがたく、
時折現実かわからなくなるような、
けれど妄想とはちょっと違う、
そんなシーンが差し込まれつつ
青年シナンと家族を巡るストーリー。
青年シナンの若さ故なのか生まれ持っての性格なのか、青年シナンも独特だけど
展開も独特。
特に、青年シナンと作家が出逢うシーンでのセリフの応酬が凄くて字幕を追うのが
やっとなほどなんだけれどぐっど引き込まれるシーン。
このシーンに挟まれるショットがまたまた独特なカメラワークでとても印象的。
登場する人物も感情豊かで魅力的なんだ
けれど、トルコ北西部の田舎町の季節の
移り変わりや港町の波止場に打ちつける波しぶきや時折流れるバッハの音楽が
なんとも言えない雰囲気
「マンチェスター・バイザー・シー」で
流れたアルビノーニのアダージョを
思い出した
邦題はこの作品のテーマとは
ちょっと違うんじゃないかと思うけど
様々な要素をとても丁寧に積み重ねた
内容で元気な時にもう一度観たい作品。
君にはわからんな。君が若いからだ。
自分の書いた小説を出版しようと奔走する青年は、地元の著名な作家をつかまえて問答を仕掛け、我が意と添わなければ口元を歪めながら悪態をついて鼻で笑う。
ねえ、こんな不遜な若造の話を聞いてやろうと思うかい?
作家は、随分我慢した。青年の青臭い野心をへし折ることはせずに、言い分を聞いてやった。最後に怒れる気分をぶちまけてみたものの、理屈っぽい青年のために時間を割いてやった。
ねえ、それだけで十分誠意を見せてくれたと思えないか?
その小説がどれほどのものなのかは知らない。ただ、家族同様、僕がもし一冊を手渡された(金を出して読みたいと思えない)としても、おそらくテーブルのガタつきを抑えることくらいしか使い道がない。
落ちぶれたみじめな老父と、高みを目指しもがく息子。よくある構図だ。父は、人には理解できないことに固執し、息子は、そんな父にはなるまいと距離をとる。だけど、これって鏡だよね。父の若かりし頃と。そして、息子のこの先と。
「この世は美しいものだらけ」
「犬が吠えても商隊は進む」
「すべて近くに見えて遠い」
「時間は不思議ね、いつの間にか過ぎる」
「建築家は設計図は書くが、レンガの積み方まで支持しない」・・・
名言は、ここぞという時に語るから心にしみる。こうも洪水のように畳みかけられては、ありがたみがない。
最後の青年の行動は、父を思いやった行動などではなく、結局この青年も気づかぬうちにこの父のあとを歩くのだなあ、という冷めた感慨しか浮かばなかった。もし、それこそがこの映画の意図なのだとしたら、僕はこういい返す。
「それが言いたいにしたって、長げえよ!」
顕示欲
大学を卒業し帰郷した青年が「野生の梨の木」という学生時代に書いた小説を出版しようと奔走すると共に、周囲の人達と討論を繰り返す会話劇。
ギャンブル狂いで借金まみれの小学校教諭の父親と反りが合わないという設定で、母親との会話では父親のことを悪く言うところもみられるが、それ程不仲には感じられず。不満があるのは確かだろうけど。
教職がどうとか兵役がどうとかいうストーリーもあるけれど、父親、母親、作家に牧師に実業家等々と様々な場面で様々な人達と思想を語り議論をぶつけ合うことに終始するばかり。
殆ど物語らしいものはなく、頭でっかちで持論が全てというような若い主人公の人物像と、彼が一方的に親父を煙たがってる様な印象を3時間近くみせられた印象。
最後に一応救いというか、変化というかあるけれど、その後のぶっ込みいりますか?
起きた後のリアクションが物足りないし、どうせならそれが真実でも良かった様な気もする。
井戸のなか
最近、父の七回忌を済ませた。
なかなか、共通の価値観を見出せず、二人には軋轢も多かったような気がする。
お互いの、心ない言葉で傷付けあったこともあるが、それも、もう思い出だ。
ただ、今は位牌に向かって、母が病気になったりしないように見ててくれ…、みたいな勝手なお願いを相変わらずしている。
そして、最近、母に若干認知症の初期症状が出ている。
あまり、母親といろいろ話したことなどなかったので、その権威の先生のいる病院の行き帰り、車で片道1時間以上かかるのだが、車のなかで二人きりの助手席の母に色んな質問をしている。
最近の記憶はまだらのところもあるのだが、幼い時のことなど、鮮明に覚えていて、驚かされる。
ジェームズ・ディーンが好きで、特にジャイアンツが好きだったことは前に何度か聞いたことがあったが、戦前にミッション系の幼稚園に通っていたことなど初めて聞いた。
アカシアの綺麗な小径があったことや、その近くに、今、国の有形文化財に指定されている建物があったこと、夜遅くまで働く父親(僕の祖父)にお弁当をよく届けに行ったことなど、キラキラした思い出のように話すのだ。
戦争や戦後の大変だったことを聞いたことはないが、出来れば、何か聞く時は、楽しかった思い出に誘導しようと思う。
この間は、幼稚園で、「パパ様、〇〇」といつも唱えていたと言っていたが、運転中で聞き取れなかった。
因みに、祖母は禅宗のお寺の娘で、今で言う短大のようなところで教えていたことがあって、差別を嫌うリベラルな人だったが、戦前に母をそんなミッション系の幼稚園に通わせていたことは知らなかった。
僕は、
井戸に水は出ないように思う。
井戸を掘ることは、実は、小説を書くことと同じではないか。
そして、水が出なかったことも、小説が売れなかったことも同じではないのか。
でも、井戸には、何か、あの父子の思い出や、売れなかった小説の苦い記憶が、そして小説にも同様なキラキラものがあるように思える。
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