ある女優の不在のレビュー・感想・評価
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より巧妙に多層的になっていくパナヒワールド
イラン政府によって軟禁生活を強いられ、映画制作も禁じられながら、あの手この手の抜け穴を駆使して新作をコンスタントに完成させているパナヒ監督。この映画に関しては、もはや外出の不自由さもないようで、一時よりパナヒを取り巻く環境はラクになっている気がする(それも何時ひっくり返るかはわからないが)。
そしてパナヒ(に限らず大勢のイラン人監督も)がこれまでに取り組んできたイランにおける女性差別の問題が、本作では三世代の女性を通じて多層的に描かれているのだが、決してテーマを声高に主張したりはせず、隠喩や間接的な表現を多用し、時に観客を引っかき回しながら物語が進む。
気がつけば、なにか大切なことが描かれている気はするが、すっきりと理解した気持ちになったり、合点がいったりはしない。それもまたこの映画ではとても効果的に作用していて、行動原理のわかりにくい登場人物たちの群像から、本作が内包しているテーマの複雑さが感じ取れるのだ。
あと突如割礼のエピソードがブッ込まれてくるのも、性差に関する差別や偏見の犠牲者が、女性だけに限定されるものではないと伝えてくれている。あまりにもバカバカしくて、一瞬「これ何の映画だっけ?」と頭が混乱する酩酊感もいい。
存在しないはずのルール
マルズィエの住む村には一本道のルールしかないという。しかしそのルールも毎日変わる。
では、ルールはないのか?というとそうではない。
若い女性が、明らかに良いことである道幅の拡張を試みようとする行為には、してはいけないという。
ルールはない。ないが、暗黙のルールはある。たくさんある。
良き変化をもたらそうとする行為や、自由を束縛するだけのルールを、村の「ルール」だと認識していないところが恐ろしいのだ。
日本の価値観で他国の文化的なものを駄目だと言うのは良くないが、当人たちが変えたいと考えているならばどうだ?変えるべきなのではないか。
村の外れに一人住む過去の女優に対して、なぜ一人なんだ?と村人は言うが、彼女が一人なのは彼女のせいではないだろう。村人たちが彼女を村八分にしているからだ。
彼女は村の存在しないはずのルールを守らなかったから村全体で彼女を外れに追いやった。無言の圧力によって。
村の多くの人間にとっては当たり前すぎてルールにもなっていない良くないルール。
まずは、彼らの「当たり前」を壊さなければならないが、聞く耳を持たない彼らに変化は訪れるのだろうか。
全てを男性が決める男性優位すぎる現状を、3人の女優を通して憂う作品で、同じイラン映画の「桜桃の味」のような雰囲気がある。
女優という、安定しない仕事を物語の中心すえているのもいい。
村人が言うように「芸人」では食べていけない。は、村の暗黙のルールとは別に一定の説得力があり、彼らの言が一方的に間違っていないところがミソだろう。
女優か結婚かの二択をマルズィエは迫られるわけだが、女優で結婚もするという、両方選べる当たり前の選択肢が登場するのはまだ先になりそうだ。
アッバス◯キア◯スタミは必ず落ちがあった。この作品には何がある?
イラン革命の成功による女性への差別?
イラン革命は王国から原理主義の共和国になった。
王国の時代がどんな時代であったかは忘れてはいけないと思うが。
それは兎も角、
何が言いたいのか?
皮の話。虚偽自殺の話。牛の話。
それは兎も角、
どこかで見た事ある内容。
それは兎も角、
鑑賞者は何を感じ、対処はどうしたら?
全部を譲歩しても一貫したテーマが感じられないので、共感に至らないし、明らかなリスペクト作品があると思われる。カメラワークから小道具や場景までそっくりである事は鈍感な人でも分かる。もっとも、そう言ったテーマの映画も有るようなので、盗用ではないのだが。もう少し、普通のお話を早く国を離れて作ったほうが無難だと感じた。
味のある映画だと思うが、ソイ・ラテに胡椒を沢山ふって飲んだような味。
進む女、眺める男
曲がりくねった一本道を歩いていく大女優ジャファリ。そしてそれを追いかけていく少女マルズィエ。あるいは森の中で絵を描く元女優のシャールザード。パナヒはそれぞれ世代の異なる3人の女性に眼差しを向けるが、そこにはひび割れたフロントガラスや背の高い鉄網といった物理的な障壁がある。これらはそのまま男性と女性にまたがる断絶のアレゴリーといって差し支えない。
イスラム圏農村部に今なお巣食う強烈な男尊女卑思想は、大都市の心地よい匿名性によっておそらく忘れかけていたであろう性差の意識をパナヒに再認させる。パナヒは暴力的な手段によって女性を家庭に押し込めようとする村人たちを目の当たりにして、自らの「男性」という属性に対する疑問を募らせていく。ジャファリがシャールザードの家に泊まったとき、彼は一人だけ車中泊という選択を取った。あるいはマルズィエを自宅に送り届ける際も「こういうときは女性のほうがいいから」と言ってジャファリを同行させた。
いやしかし「何もしない」というのは結局のところ傍観を決め込んでいるという点において村の性差別主義者たちと大差ないんじゃないの、という批判はごもっともだし、パナヒ自身がそれを一番よく自覚している。シャールザードがかつて映画監督に酷い仕打ちを受けたという話をジャファリから聞かされたとき、パナヒは少しも弁明せず、イランの映画業界にそういう暗部があったことを素直に認める。彼の苦々しい表情には、自身もまたそのような業界に属する人間の一人であることへの苦悩と罪悪感が滲んでいる。映画の中でさえ3世代にわたって続いてきた男尊女卑の罪禍が、一人の男の反省によって贖えるはずがない。だからこそパナヒは物語に、あるいは自分自身に安易な解答を提示しない。「さあ男も女も手を取り合ってみんなで踊りましょう!」みたいな欺瞞に決して陥らない。夜中、シャールザードの家で3人の女たちが楽しそうに舞踊する様子が窓の外から遠巻きに映し出されるシーンは印象的だ。しかし、パナヒは本当に何もしていないわけではない。現に自らの作家生命も顧みることなくかくもControversialな映画を発表してみせたのだから。
ジャファリとマルズィエが街へ出るための一本道を二人でずんずんと歩いていくラストシーンはやはり素晴らしい。二人が向かう先が希望であるのか絶望であるのか、それはまだわからない。しかし進んでいるということに意味がある。一方でパナヒはそれを停まった車の中から呆然と眺めている。フロントガラスには大きなヒビが入っている。マルズィエの奔放に怒り狂った彼女の弟が腹いせでそれをやったのだ。
暴力によって女性をなんとか抑圧し続けてきた男たち。彼らは彼女たちがいなくなったとき、ようやく自分たちが全き停滞の中にあることを知る。暴力による支配をすり抜け未来へと向かっていく彼女らの背中を、彼らはただ呆然と見送るほかない。
パナヒの作家的キャリアからして、本作における農村の差別的因習がイランの国家的不寛容に重ね合わせられていることは自明である。しかしそれだけのために知もなく財力もない農村を悪として描くこと(=都会の文化人である自分たちを正義として描くこと)はある種のエリート主義といえるのではないか?さて、ここで各位相におけるパナヒ自身の立ち位置を確認しよう。まずは芸術家-イラン政府という対立位相。ここにおいてパナヒの立ち位置は芸術家である。両者の関係において圧倒的な権力を保持しているのはイラン政府であり、芸術家は常にその抑圧に喘いでいる。次に男性-女性という位相。ここではパナヒは男性であり、女性を抑圧する側に回っている。したがって二つの位相が重なり合う本作において、パナヒは一方では被抑圧者、一方では抑圧者というアンビバレントな存在として立ち現れる。男性-女性というレイヤーを取り込むことによって社会批判を行いつつも芸術を過度に高潔化しないという離れ業を実現してみせたパナヒ監督の手腕に脱帽する。
イラン映画への高評価は変わらず
有名女優が、自殺動画を送り付けた少女を探す為に訪れた田舎での物語。
個人的に、WOWOW放送のイラン映画について、とても高い評価をしています。また、この映画はカンヌで脚本賞を獲得したというこもあり、鑑賞前の期待感は大きくなりました。
しかし、残念ながら、私の趣味には合わない映画だったと思います。
映画comの公式レビューには、「ヒューマンミステリー」とありますが、『ミステリー』ではありません。「イランの田舎」と「イランの女性の悲劇」を描いた人間ドラマだと思います。
イスラム社会、封建的な風習が残っている田舎。その村の現状を、テヘランに住む女優の視線から描かれています。決して、村民に悪意があるわけではありません。気さくで、世話好きで、でも演劇を志す少女を平気で村八分にし、そして名誉殺人の恐怖が現実にある・・・そんな村を、冷徹に活写します。
イスラム社会でありながら、学ぼうとする少女をポジティブに捉える設定に、イラン映画への好感を改めて感じます。
映画としての完成度の高さもあるのだと思います。
しかし、サスペンス好きの私の趣向とは違う映画でした。また、ラストを含めて抑揚に欠ける展開だったこともあり、私的な高い評価は難しい・・・と感じる映画でもありました。
評価は標準です。
格差、偏見
イラン映画を見るたびに、土埃がすごそうな土地で生きてるだけで喉が乾きそうだ
あのような土地で生きている人々を都市部の人から見れば田舎者で独特のならわし
が、しかし都市部の人、プロの人をも嘲笑う世代格差が別ベクトルで同居する
様々な角度で格差がある時代だなと改めて感じた
結局は同調できなくても、許せるかどうかってとこなのかな
限界集落にて…
ゲマインシャフトに暮らす若者の苦悩と無意識にそれを苦しめる壮年者と言う日本では成り立たなくなったストーリーが瑞々しく描かれていました。馴染み薄いロケーションも新鮮でした。
面白かったです。
ミステリーかと思うと見間違う、別の主題を提示する辺境への旅
若い女性から自殺を決意する連絡を受けた人気女優と監督が、女性の住む辺境の村に向かう。
イランの現状描き続けるジャファル・パナヒ監督が、今も根強い女性差別を静かに提示しつつ辺境の村の生活も感じさせるドキュメンタリーな雰囲気も漂う良作。
スマホ縦位置画面の動画から始まり、夜道を移動する狭い車内でのクローズアップと長回しなどで、やや説明的ではあるが、目的と謎が提示される。
車内と暗い夜道がコントラストとなり不穏な雰囲気を醸し出して、観客を引き込む演出と撮影は中々良い。ちなみに撮影は監督がフランスで入手したデジタルカメラらしいが、コンパクトな機動性を活かした画面構成と映画的な色調や陰影がキチンとあるルックで良い。
個人的に思うのは、二人が乗車するクルマが最近生産終了をアナウンスされた三菱パジェロで、外国映画でこれだけ長時間登場するのは珍しいと感じた。
ネタバレあり
映画自体はミステリー調ではあるが、謎解きやサスペンスに主眼が置かれているのではなくて、人気女優(現在)と往年の名女優(過去)と芸能を志す少女(未来)の三人が、イランの女性たちが絶えず受けている苦難の象徴として描き、静かに告発をしてくる。
道中に出会う人や村人は、素朴でありながら、何処か閉じており、行方不明の少女に冷淡な反応で、村の中で娘が孤立していることが分かる。
彼女を探しに訪れた人気女優も、一見丁重な姿勢で迎い入れられるが、深いところ変わらない。実名で本人演じるベーナーズ・ジャファリの彫りの深い表情と真っ赤な髪が印象的で存在感もあり素晴らしい。
往年の名女優は、イラン革命前の卑しい存在として村八分にされて息を殺すように住んでいるのは、根深い女性差別を感じさせ、何故か同時期に活躍した男優(実在した人)は、村人から男の象徴としてリスペクトされているのに。
現在・過去・未来を象徴する女性三人が集う場面や娘の親への説得場面は、省略されており解り易い回答を観客に提示せず想像させるなどの演出のメリハリもうまい。
イラン映画は、殆ど観た事が無いと記憶しているが、中々知ることのないイランの辺境での生活やそれぞれの人達の立場を、分かりやすく興味を持続させながら堅実に描かれた映画でジャファル・パナヒ監督作品をもっと観たと思わせる良作。
初めてのイラン映画
イランの映画を見るのは初めてで、イランの映画事情も知らない。最後まで見られるかちょっと不安だったが、退屈しなかった。
パナヒ監督と女優ジャファリのロードムービーという感じで、荒涼とした風景、曲がりくねった砂利の細い坂道、乾いた村などの描写は、日本人の私には未知の世界で、そんな風景を見ているだけでも不思議な体験だった。それに、作中にBGMがほとんどないのも特徴で、演出がないのに逆に深く印象に残るという不思議な作品だ。
作中で、村の住民たちが「芸人は役に立たない」と厳しい言葉を監督に浴びせる。国の弾圧を受け映画製作を禁じられても、映画を作るために奮闘するパナヒ監督の強い意志に感銘を受ける。娯楽にあふれた日本の私は、この作品をきっかけに時間をかけてイラン映画を理解していきたいと思う。
非常に巧妙に仕組まれた映画
イランという国の社会、イラン革命というものが分かっていなければ本当にこの映画を理解できないのかも知れない。しかし、そういう背景を離れて一つの映画はとして観た場合、実にトリッキーなプロットを持った映画だと言う気がしてならない。そう思うのは中心的キャラクターである二人の女優又は三人の女優が会っているシーンは全て直接描写はなくパナヒの視点からしかカメラは捉えていない。彼女らが会っている時に実際どんな話が交わされているか、観客は全くわからないのだ。マルズィエが生きているのが分かってジャファリが狂ったように責めるシーンもパナヒが目撃した時は既にいさかいが始まっていた。つまり、この映画は初めから三人の女優(イラン革命前の有名女優シャルダード・イラン革命後の人気女優ジャファリ・新しい時代の女優になるだろうマルズィエ)が、マルズィエをあの因習深い村から連れ出す為にパナヒを立ち会い人にして大芝居を組んだ話、と見てとれないこともない。何せみんな女優(ないしは女優候補)なのだからお芝居は得意だし。状況証拠しかないが、ラストも対向車を待つ間に車を降りて歩き出したジャファリを追ってマルズィエが駈けて行き峠で追い付いた遠景で終わっている。ただ、もしそうだとしたら、何故こんな大芝居を打たねばならなかったかは、やはりイランという国と社会、イラン革命の知識と理解が必要なのであろう。
イランってこういう世界なのね。
色々な解釈は抜きにして、イランのドキュメンタリーとして受け取った。
とんでもなく田舎の、ああいうコミュニティってまだあるんだね。
あそこまで知り合いだらけだと、女だけで夜歩くのはあぶないとかそういうのもないんだろうね。昔の日本はそうだったんだろうと推測。
若い時にああいうところに旅行したら価値観変わるだろうなと思った。
どうでもいいが、弟でかずぎ。
舞台を変えれば他の欧米諸国でも映画化できそうな題材なのが、かえって・・・
ある日、イランの人気女優ベーナズ・ジャファリ(本人)のもとに届いたショッキングな動画。
女優を目指して芸術大学に合格したものの、因習に縛られる家族によってその夢が断たれた娘マルズィエ(マルズィエ・レザエイ)は、村はずれの洞穴で首を吊った・・・その自撮り動画。
送られてきたのは監督のジャファル・パナヒ(本人)を通じてのこと。
ジャファリは、パナヒの運転する自動車で、マルズィエが暮らす辺境の村に向かうことにした・・・
といったところから始まる物語。
彼女が友人を通じて送って来た動画は本物かどうか、そして、彼女の本心はどこにあったのか・・・とある種のミステリー要素はあるが、ミステリー映画としては成立しない。
この序盤は、観客を映画に惹き込む役割は果たしているが、結果的には、ミステリー的カタルシスを求めている観客には拍子抜け。
2000年製作の『チャドルと生きる』の延長線上にある、イラン女性の現状を通してイランの現状を描いた作品で、古い因習をはじめ様々な制約・制限を受けているパナヒ監督の心中の吐露だろう。
1970年代後半のイラン革命で、イスラム国家としては女性の社会進出も後押しされるようになったが、この映画でみる限り、都市部以外ではそうはなっていないことが窺い知れる。
(劇中、「イラン革命」の言葉が何度か出ている)
また、地理的状況は詳しくはわからないが、舞台となる村はトルコに近いらしく、村内ではペルシャ語よりもトルコ語が用いられている。
ジャファリとマルズィエのほかに、革命以前から女優として活躍していた老女が登場し、それが原題「3 FACES」の由来となっているが、老女については多く語られず、残念な感じがする。
長廻しを中心に据えて、ラストの曲がりくねった道を捉えるなど、魅力的なな演出ではあるもの、舞台を変えれば他の欧米諸国でも映画化できそうな題材であるが故に、本来の力強さが陰に隠れた感じの映画になったような気がしました。
“見立て”あるいは“象徴”
かなり居眠りして、「往年のスター女優」の出演シーンすら見逃しており、レビューする資格はない。
ただ、観た範囲で言うと、“奇怪”な映画であった。
予告編で期待される話だけでなく、「牛」や「包皮」のエピソードなど、本筋と全く関係ない“脱線”が延々と続くのだ。
監督の積極的だか消極的だかよく分からない、矛盾したアクションも理解不能だ。
また、たった100分の映画なのに、村にたどり着くまでに30分もかかるのも異常である。
そもそも、「トルコ語を話すイラン領土のアゼルバイジャン」という、閉鎖的で、女性差別的で、迷信を信じて堂々とよそ者に語る人がいる、スゴい地域に舞台設定している理由は何なのか。
“自己韜晦”あるいはカムフラージュではないかと思うのだ。
公式サイトには、熱心にいろいろ書いてあるのだが、それすらこの映画の真の狙いをごまかすための策のように見える。
要するに、サラン村を、今の“イランに見立てている”のではないだろうか。
「一寸先も見通せない険しい道は・・・それぞれの時代における芸術家たちの苦難を象徴」(公式サイト)しているという。
しかしそれだけでなく、「包皮」、帰路を阻む「精力絶倫の牛」、そもそも監督が閉じこもって出たがらない「車」ですら、何かに“見立て”たり“象徴”している可能性もある。
むろん、それが何かは分からない。観客に分かってしまうくらいなら、とっくに検閲に引っかかっているだろう。
「カンヌで脚本賞」とのことだが、カンヌすら騙しおおせたのかもしれない。
最近、「ブラジル映画史講義」という本や、ブラジルの20世紀半ばの「シネマ・ノーヴォ」の映画をいくつか見たが、軍事政権下の検閲をかいくぐるために、かなりメタファーを多用しているという。
うがち過ぎるのは無意味であるが、本作品は解説や宣伝をまともに受け取っても仕方ないのではないか。
完成された作品と言うよりは、苦心惨憺の作りかけの作品かもしれない、そんな感想を持った。
女性のこと
変わりばえのしない乾いた風景のなかで、イランの女性の置かれた状況とか、おそらく日本でも似たようなことがあったんじゃないかと思わせる因習が語られる。
感情をぶつけ合うように繰り返される会話は、何かこの社会の抱えるフラストレーションのようだ。
また、イスラム世界では、一夫多妻であることはよく知られたことだが、一部の富裕な人の間のことかと思うと、こんな人里離れた田舎の小さな家族でもそうなのかと、そして、女性の地位もさして向上してないのではないかと少しネガティブな印象も持つし、エンディングでジャファリが歩く、曲がりくねった石と砂の悪路の長い下り坂は、いつか豊か場所に通じているのだろうかと悲観的になりかける。
しかし、マルズィエが走ってジャファリを追いかける様を見ると、いつかきっとという希望を見出すといった、未来に向けた決意みないなものも感じられる、そんな作品だ。
きっと、日本でも似たような閉塞感は昔は同じようにあって、今は随分良くなったとは言え、女性を押さえつけようとする社会システムは残っていて、まだまだ、これからなのではないかと考えさせらた。
【イランの曲がりくねった細い山道を通る規則から、因習とは何かを考えさせられた作品。越える事が困難な文化の壁の前で煩悶するパナヒ監督の想いが伺える作品でもある。】
ー 主演のジャファル・パナヒ監督、イランの人気女優ジャファリ、村の"芸人"マルズィエ、主要キャストを本人が演じるドキュメンタリータッチの映画。ー
・村人達はジャファリ達を表面上は歓待しようとするが、断ると態度はガラリと変わる。
・又、俳優を目指し、テヘランの芸大に入学したマルズィエを疎外する村人。恥と思う家族。
・かつてのイランの名女優は一人、村外れの小さな家で絵を描いて暮らしている。
村人達と交流はない。
・越える事が困難な文化の壁の前で煩悶するパナヒ監督の想いや、彼が置かれた現状が見栄隠れする作品。
〈イランの未舗装の細い山道を歩く、ジャファリの姿と彼女を追って走って行くマルズィエの姿に微かな希望が伺える作品でもある。〉
プロ向けですかね
女優になる夢を絶たれたことを嘆きつつ首を吊る知らない少女の動画が自分宛に届き、知人であるパナヒ監督と共に真相を追う女優の話。
本当に彼女は自殺したのか?を追っていくかたちで話は進んで行くけれど、どうでも良い描写も多いし一つ一つのシーンが長いしでかなりダルい。
演出もかなりチープだしね。
ストーリーとしても特に面白味も意外性もなく、「反政府活動により2010年から20年間の映画製作禁止を科せられるジャファル・パナヒ監督が、イランの山間部の小さな村を舞台に、根強く残る女性軽視や閉塞感を描いた作品」という事実が評価されているだけじゃないのかと感じた。
色んな国の作品に触れる第一歩
イラン映画は多分初めてかな。ここ最近インド映画が面白かったり色んな国の作品に触れるのが映画鑑賞の楽しみ方の一つとして楽しんでるが、この作品は極めて退屈に感じてしまった。
あまり大きなストーリー展開を運ぶ作品ではない為、少しウトウトしてしまったり、ぼーっと見てしまうと置いてかれてしまった。
最初から最後まで心情描写や会話などが大事になっていくのかな。
あまり楽しむことはできなかった。ただこういった邦画やハリウッド、フランス映画といった見慣れた国の以外の作品にも触れて、徐々に慣れ親しんでいきたい。
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