響 HIBIKIのレビュー・感想・評価
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天才で良かったね
2018年映画館鑑賞130本目‼︎
原作は未読
才能無ければ
癇癪持ちのハルクじゃん(困)
自分の正義を貫き曲げないのもスゴイ事だけど
思った事全部を言動行動にすればいいってもんでも無い
それじゃ自分勝手の自己満だ
不器用なのもわかるけど
いくら正当っぽい理由があったとしても
蹴ったり殴ったり列車止めたり(止まって良かったね)
大きなお世話さま〜で
一つも共感出来ませんでした。
受賞するぐらいの文才があるのに
表現力の乏しさが残念。
映像では汲み取れなかったけど
原作では響の繊細な部分が
きっと描かれてるんでしょう.....
一張羅着て来いって
リカから貰ったロリ服着て来たり(笑)
似合う〜
動物園でアルパカ見て
はしゃぐシーンは
とっても可愛いかったです。
ここで
棒読みな芝居が生きましたね‼︎
先週「累」見たからかな
北川景子は檀れいに似てるなぁと思いました。
鼻口の辺りが動かないからかな⁇
エンディング曲が
橘いずみの「失格」みたいでした。
面白い映画でした
原作に忠実
平手さんじゃなくて、響として生きるもう一人の平手さんを見ているようでした。
原作を忠実に再現していて、でも原作ではわからない響の心情が伝わってきました。やっぱり平手さんは目の演技上手だと思いました。ひとつ残念だったのは、ゴスロリをリカから貰ったことになっていたことです。
有名な作家さんと握手するシーンでは、自分の手を嬉しそうに見つめているのが可愛らしかったです。握手した作家さんも照れて自分の手を見つめていて。響も温かい目で見守っていてほっこりしました。
最後のシーンについては賛否両論あるようですが、観客に謎を残していく感じが私は好きです。響が乗ったパトカーも景色に溶け込んで、結局夜景の一部になっていて、そこがエンドロールに繋がっているのかと。
パンフレットの歌詞を読んでからエンドロールを聴きましたが、もっとやさしい、というかもっと脆い、細い声だと思っていました。綺麗な声でした。特に、 何で泣いてんだろ のところ。
揺れる心というより、もがく様子が伝わってきて、天才の心の叫びを聞いているようでした。映画では悩みもせず自分の信念を貫いているけど、本当は悩んでいるんじゃないのかと考えさせられました。映画の中で描き出せなかった響の心の中なのかもしれません。
すれ違う人がいて落胆してるのに、気づいてもらえなくて一人きりで角を曲がる、そんな矛盾も、悩みも聞こえてきました。
一面だけ見られて天才だと決めつけられる、なんて誰も望んでいないと思いました。多面的に見ていかないとな、と感じました。
ふみへのメッセージかと少し思いました。
エンドロールで号泣してしまいました。
「らしさって、一体何?」その答えも、曲げられないほどの自分も、私にはないと思わされました。自分を洗い出して、「自分らしく」について考えてみたいです。
連載中の映画化は難しいものだけれど、主役に魅せられました
ナゾの魅力を持つ映画である。それは主演の平手友梨奈の存在によるところが小さくはない。個人的にはファンでもなんでもなく、秋元康プロデュースの"その他大勢アイドル"にすぎないので、第三者として純粋に、この17歳の少女に魅せられた。
本作は、小説家をテーマにした漫画「響 〜小説家になる方法〜」(柳本光晴)を原作とする実写映画である。
ある日、文芸界に15歳の天才女子高生小説家が現われる。そして少女の処女作は、一気に芥川賞と直木賞のWノミネートを成し遂げる....
原作マンガは、ビッグコミックスペリオールでいまなお連載中である。ふつう、連載中のマンガの実写化にいいことはない。エンディングが存在しないからだ。
この映画も映画としてはまったく完結していない。本作の内容はプロローグでしかないのだが、原作の内容が濃いからなのか、ギュッとつまっている。これは観るに値する。
出版社が、有名ベストセラー作家の娘を、"2世作家"として売り出したり、新人賞としての"芥川賞"・"直木賞"は、本を売るための演出側面を持つことをストレートに描く。不況に苦しむ出版界の楽屋話であり、そこに小説を愛する天才・響が救世主のように現れるのが爽快なのである。
平手は、アイドルグループ"欅坂46"のセンターとして人気があるのかもしれないが、それは秋元康の演出のおかげである。
女優としての実力は未知数で、"シロウト"といえばその通りだろうし、"アイドル人気の主演"と言われても仕方がないはずだ。しかし原作の響ちゃん=平手友梨奈のアテガキではないかと思うほど、その雰囲気が一致している。
そんな"素の演技"が評価できるかできないかは人それぞれだろうが、この作品は脇を固める実力派のキャスティングで支えられているのも大きい。
響の担当編集者に北川景子。まさに"北川景子、ありがとう"である。さらにアイデアが枯渇した小説家を北村有起哉が演じ、何度も芥川賞にノミネートされながら受賞できない小説家を小栗旬が務める。また小説家仲間として、柳楽優弥も出ている。
監督は月川翔。姓は英訳すると、"Moon River"、映画由来のペンネームかと思いきや、実は本名らしい。まだ30代半ばながら、つい先月のコメディ映画「センセイ君主」(2018)や、昨年の大ヒット作「君の膵臓をたべたい」(2017)があり、期待のヒットメーカーである。オリジナル作品は撮らないのかな。
連載中の原作があるわけで、当然、"この続きが観たい"となってしまう。それは3年後、5年後? そうなると、主演は平手友梨奈のままで行けるのだろうか?
(2018/9/15/ユナイテッドシネマ豊洲/シネスコ)
何を観せられたんだ?
このレビューの題名は「響」鑑賞後の一番の感想だが、私がこの夏欅坂46の野外ライブと全国ツアーを観終わった後の感想と同じだった。
これは果たして映画なのか?
平手のは演技と呼べる出来だったのか?
鮎喰響と平手友梨奈が極めて似ているという部分以外には何の意味があったのか?
映画として考えると疑問だらけだった。
このなんちゃって映画と平手は、現在の欅坂46が抱える問題と平手の立ち位置と同じだ。
劇場鑑賞後に色んなインタビューや監督、平手、共演俳優のコメントなど目を通してもやはり観て感じたままだった。
平手の意見を各所に取り入れたばかりに監督の存在がまるで無いかの様。
(監督が平手にヘソを曲げられるのを避けていた様なエピソードもあった。)
監督も共演者もメディアも客もこぞって「天才」「カリスマ」と持ち上げ、平手さえ存在感を示せればそれで良いかの様な反応ばかり。
「響」が映画という作品であることから皆目を背けている。
欅坂46もまた「=平手」としか思われ他のメンバーの存在が薄いのと同じで「平手坂46」と揶揄される様に、この「響」は平手絶対主義な異常で歪な映像でしかない。
平手友梨奈が素晴らしい!
原作のファンですが、ここまで響になりきってもらって感無量です。平手友梨奈のソロによる最後の主題歌も胸に迫ってきました。コミックの五巻分を2時間に入れ込む為、相当省略と駆け足感がありますが、全ての欠点を平手友梨奈=響という存在が帳消しにしています。
転栽~畑を変えて栽培する方法
凡人が発想する「こうゆう破天荒、奇異さが天才」感。才能の説得力は無く、云わば1人を際立たせる為のフォーメーション組んでみせてる欅坂の平手と響はそういう意味でまさに嵌まり役。
騙し絵的説得力、とでも言おうか。
天才って、フォーメーションにはまるものではなくフォーメーションの概念すら超えてゆくものだと思うのは、おれが「解らない大人」なのだからだろうか?正当化される暴力に爽快感も説得力も感じなかったのは、やっぱりおれがつまらない大人なのだからだろうか。訳知り顔で天才だなんだと誉めそやす知識人ぶった大人よりは、つまらない大人のままで充分幸せ。これより面白いものならば世の中に溢れてる。
最後に平手。ビジュアル系譲りのステージ睨み芸にしろ、響にしろ、原作ありき以外の概視感を感じないオリジナルを見せて欲しい。天才という評価が的を得ているのならば。
不器用な少女の話、又は天才を取り巻く群像劇
主人公の響はちょっとぶっ飛んでて暴力的な文学少女。
売られた喧嘩は買うし、友人が侮辱されたら足が出る。
作品内でも暴力を振るう事は再三注意されるし作品内では正当化されてない、むしろそれにより立場を悪くしていく。
その中での最後の受賞式での暴れっぷりは感動すら覚えた。
個人戦を好む響に対して、執拗に周囲を巻き込みフミを責め立てる記者への蹴り。
全てをご破算にしてしまう、自分の立場が悪くなる、そういう計算が彼女にはないのだろう。
なんて純粋でまっすぐで、不器用な子なのだろうと涙が出た。
又、天才響と女子高生作家リカ、青年作家ヤマモトの対比も良くかけていた。
努力や根性では埋められない、持つものと持たざるものの差は残酷である。
特にヤマモトの書店でのシーンは胸が痛くなった。
書いても書いても評価されない、出版されてもコーナーは設けられず一冊ぽつんと本棚に納められるのみ。
評価されない自分は無価値に思えついには自殺も思いつくが、まさにその時に響と初めて人生が交差する。
その時言い放った響の言葉にはっとさせられました。
テーマ性が見えず
主人公響のキャラクターが強すぎてストーリーとしてまとめきれずに終わってしまった印象。響の特殊能力だけが前面に押し出され、芥川・直木同時受賞でこれからという時に唐突にEDを向かえ、結局何を訴えたかったのかが解らなかった。
物語の転機がほぼ暴力沙汰による点も不満点であったが、謎の芥川賞絶対主義にも違和感を覚えた。一昔前は価値があったのかもしれないが、小説専門学校の添削作品がどんどん受賞している今となっては映画内のような価値は無いものと感じる。
基本的にアイドル目当ての客層をターゲットにした作品と思われる。
響の良さが伝わらず残念
平手さんのファンなので原作を読まずに観にいきました。
ファンとしては色んな平手さんが見れて良かったのですが、アクションシーンに時間をかけすぎたのかそこばかり目立って響の内面の良さが伝わってこない。
響と近しい人以外にはただの暴力少女にしか見えないのに、それがまかり通っている所にも違和感があり…
原作見てませんがおそらく響はもっと色んな思いや相手とのやりとりがあってからの暴力実行だったのでは?と想像しました。
こんなに単純じゃないと思う…2時間で表現するのは難しいのでしょうね。
1番気になったのは終わり方です…うまく言えないのですが中途半端で結局響の生き様のどこを伝えたかったのか本当に私には分かりませんでした…コミカルにしたかったにしては弱いし…どういう意図なんだろう。響の良さを伝えるもっと違うエンディングシーンが原作になかったのでしょうか。
マンガ大賞を取ったくらいの漫画ですから原作はきっといいのでしょうね…原作が読みたくなりました。
平手さんが、この映画は好き嫌いが分かれると言っていた意味がよくわかりました。
あと最後のソロの曲、今までにない情感ある歌い方でファンとしてはすごく好きなのですが、歌詞が響とは合わないような。
響は誰かの期待に答えられなくてごめんとは思わない気がしますし…平手さんのイメージを秋元氏が書いた感じです。
脚本のせいなのか響の良さを掘り下げきれず、平手さんメインなだけの映画に見えてしまって残念です。
平手さんの希望で当初の脚本を少し変えたそうですが、どこをどう変えたのか知りたいものです。
生き方を考えさせられる素晴らしい作品
自分の生き方を見直すような素晴らしい作品に出会いました。
本作の主人公である鮎喰響は、その発言や暴力性から周りから「異常」だとされています。
しかし、響はどこまでも真っ直ぐで誰よりも純粋であるが故に、周りに流されることもなく、自分の価値観に忠実に生きてきただけであり、
もしかすると「異常」なのはどこかでそれを失ってしまった響の周りの人たちやスクリーンの前の私たちなのかもしれません。
そんな響と接することで、徐々に変わっていく周囲の人間たちの心の動きや価値観の揺れこそ本作のメインテーマなのではないでしょうか。
だからこそ、ストーリー的に「ここがメイン」というシーンや、明確なクライマックスというものはなく、淡々と物語が進んでいるように感じる人もいるかもしれません。
ただ、ここで描かれているのは響の「ドラマ」ではなく、あくまで響にとっての「日常」であり、一見すると「おかしい」「異常」と捉えられるような行動も、響にとっては「当たり前」なのです。
そんな響の生き様を観ることで、スクリーンの前の私も響の周囲の人たちのように自分の生き方、価値観を考えさせられました。
最後に作中の鮎喰響のセリフから引用して
「つまらないって言うのは構わない、でもちゃんと読んで判断しなさい。そうじゃなきゃ卑怯よ」
少しでも興味のある人はぜひ観に行ってみてください。
上手く言えませんが幻滅です
原作が好きな自分にとっては、良い所をカットし、平手さんを売り出す為だけの映画を見せられただけ。
「どう?平手さんって響にピッタリでしょ?」
って、全面に押し出してるだけの映画。
原作の良い所、響や他の登場人物の良さがまったく反映されていなかった。
神田編集長の設定。
あんな金の亡者みたいなキャラ設定になぜしたのか理解し難いし、それこそ映画を駄作に仕立てあげた一因であると考える。
よくある嫌味なおっさんではあるけど、暴力ごときで天才的で、文学史に名を残す響の作品を出版しないと言い出す人ではない。
そもそも、原作には響の作品を出版しないという流れなんて微塵もない。
なぜそんなくだらないストーリーを足したのか理解に苦しむ。
くだらないストーリーと言えば、響が週刊文衆の記者に突然の取材を受けるシーン。
カメラを車道に投げつけトラックに轢かせ、壊すシーン。
までは良かった。
その後、なぜトラックの運転手が降りて来て記者を脅すシーンがある?
そんなものは原作にはないし、どーでも良いシーンでしかない。
あんなものは必要ない。
その続きとして、記者の家に乗り込むところ。
記者の息子の写真を手に交渉する響。
取材対象者の恥部をさらす事を生業としているハイエナのような記者が、息子の話をチラッとしただけで、記事を書かないと言い出す?
ありえない。
色々が中途半端。
映画開始の数分。
響が手書きで書いた原稿を運ぶシーンであったが、あれも意味がわからない。
平手さんをただ推すという映画の内容なのであれば、響(平手さん)のドアップから始まり、小説を読むシーンを流した方が効果的だ。確実に。原作にはないシーンではあるけど、小説が好きな響を少しでも表現できると思う。
まだ言い足りない。
響と涼太郎の関係性。
薄っぺら過ぎる。涼太郎は一歩間違えたらストーカーと言われても仕方がないくらい響を愛してる。その想いが全くもって描かれていない。
あれじゃただの友達だ。
タカヤと響が初めて会うシーンも中途半端。
タカヤの指を折るまでは良かった。
ただ、大切なのはその後でしょ。
タカヤが殺すぞと言ったから、響はペンを持って本気で殺意に応え、タカヤを本気で殺すように構える。
そのシーンがあってこその響だ。
部員に花代子が出てこないのもありえない。
これが平手さんだけを売り出すという印象を受けた一因でもある。
原作は響と涼太郎の関係性だけでなく、タカヤと花代子の関係性や、神田と祖父江秋人の関係性。
山本春平や、豊増幸の背景、鬼島の苦悩のバックグラウンドがあってこそ響の暴言や暴力がただの暴走ではない事が言えるのだ。
そして、響が鬼島へ言うセリフ「だったらなぜ生きてるのかなって...」を言わない。
そこまで言ってこそ、響が小説に対する想いが表現されているんじゃないのか?
長々と持論を書き綴ってしまったけど、とにかく平手さんが好きな人は観て良かったと思うし、原作が好きな方にはまったく楽しめる映画ではないと私は思う。
最後に。
こんな映画を撮った監督や脚本家に言いたい。
こんな中途半端な作品を作って、生きていて恥ずかしくないの?
作る上で、リカがふみに色々言われたみたいに、周りから色々言われたのかもしれないけど、最終的に駄作を作ったあなた方が悪いんだ。
良い作品を作る気がないのなら最初から作るな。
良い作品が作れないのならなぜ生きてるのかなって。
以上です。
痛快さと危うさの同居
観ている間は面白かった。しかし観終わったらなんとなく重い気分になってしまった。
大学時代に応援団長をしていたという中小企業の社長がいて、その男が応援団時代に先輩から「場を乱すな」と教わったと得意げに言っていたのを聞かされたことがある。非常に不愉快であった。KY(空気読めない)という言葉が一般に広まったとき、同じ不快感を感じた。
日本社会の支配層にはこの元応援団長みたいな人間がうようよいる。最近次々にパワハラで訴えられているスポーツ界の老害たちも多分そうだ。そういう連中の、全体のために個々の意見を封殺するという考え方は、民主主義と真っ向から対立する、文字通りの全体主義である。
テレビで漫才コンビのダウンタウンが「空気読め」と怒鳴るのを聞いて、非常に苦々しく感じていた。何故空気なんか読まないといけないのかわからないのだ。同じように不快に思っていた人も結構いると思う。
ところが、だんだんKYという言葉が浸透してくると、一般人の間にも空気を読まないのはよくないことだ、みたいな考えが広まり、言論の自由を自分たちから放棄する世の中になってきてしまった。若者にアベシンゾウ支持が多いのも、そのあたりかもしれない。一億総体育会系と言ってもいい。
全体主義の共同体では、全体のためにと言いつつ、結局は支配的な立場の人間の個人的な意見ばかりがまかり通ることになる。スポーツ界のパワハラの構造と同じだ。それは結局、ナチスと同じ独裁主義である。
人間には無意識に安全無事を願うところがある。「君子危うきに近寄らず」とか「李下に冠を正さず」とかいった、保身が目的の諺を大事にしているのはその現れだ。
本作品はそういったKYとは対極にある自由な女子高生が主人公である。誰もが安全無事を願い、穏便に済ませようとするような場面でも、主人公は言葉を飾らず、敬語を使わず、本音だけで勝負する。攻撃的な言葉に対しては、時に実際の暴力で対処する。
痛快さはたしかにある。しかし危うさもある。その危うさとは、自分の意見で相手の人格や人権を蹂躙することに反省がないところだ。暴力は常に相手の人権の蹂躙である。言葉の暴力という言い方がある。確かに人を傷つける言葉はある。しかし、それに対して暴力で反撃するのは戦争主義者である。言葉は常に多義的であり、他人の本心をすべて理解することはできない。そもそも自分の本心さえなかなか理解できないのだ。にもかかわらず自分の理解だけ、自分の価値観だけで相手に暴力を振るうのは、いかにも理不尽である。
社会で生きていくには他人と折り合いをつけなければならない。そのために何が必要かというと、寛容であり、想像力である。この映画の主人公みたいに不寛容な人間は、KYと言われて排除されるかもしれないが、場合によっては共同体の中で力を持つようになるかもしれない。自分の価値観で他人を断罪する人間が、権力を持ち、そして暴力に裏打ちされれば、近頃摘発されているスポーツ界のパワハラ指導者たちと同じことになる。
本作品は、そういった痛快さと危うさを併せ持つ主人公が、闇の中で高いところに張られたワイヤーを目隠しして綱渡りするような、そういう映画である。主人公に感情移入はできないが、北川景子の花井ふみや小栗旬の役には感情移入する。つまりこの映画はトリックスターを主人公にした、価値観を次々に相対化させていく作品なのである。そういうふうに理解すれば、観ている間は面白かったのに観終わったら重い気分になったことの合点がいく。
平手さんのファンの人が好きというのは否定しない
私は響の漫画が今まで数千冊の漫画を購入し読んできていますが、その中でも一番好きだといってもいいほど響が好きです。
ですから実写化だろうと何だろうと響という漫画がより大勢の人の目にとまるこの機会をとても喜んでいました。
ですがその期待と喜びは開始早々裏切られました。
涼太郎の響に対する変態レベルは消され響も喜怒哀楽の表現もこうすればこう見えるでしょといわんばかり棒芝居。喜び、楽しい状態を笑いだけで表現し怒ってれば突っ走ればいいと響の持つ強さ、狂気というものを感じられないなどといった私の知る響は画面にはいませんでした。ふみの北川景子さんは映画を観る前まではふみの小説に対する愛、小説家に対する尊敬などといったふみの持つ芯の強さを表現してくれるかもしれないという期待はありました。欲を言えば天海祐希さんの芝居を北川景子さんにしてもらえれば個人的にはベストだったのですが、映画のストーリーでは響は世間に顔が割れ漫画でのふみの格好良さが失われていました。
凛夏に関してはまぁべつに色黒ギャル出なくなったから文句を言うつもりはありませんがシンプルにただ単に親が小説家の本を書く女の子という感想。面白い本、つまらない本を棚ごとに分け響に本を入れ替えられてむきになってるのはただ台本がこうなってるからビンタしてるだけにしか感じなかった。
隆也は全てが変えられる芝居も下手。ただの響のアピール要員だった。
そもそも響を強く見せようと周囲の人間の強さを消した響ちゃんさいきょーってゴミストーリーとかしていた。
私は映画館を出たあと本当に泣き崩れました。私の好きな響が殺されたと感じたからです。
ですが私も好きな俳優さんや声優さんがでてる作品を贔屓してしまうところがあるのでキャストが好きな人は見て、原作も読んでいただけると幸いです。
私はこの映画に0点すらつけたくないというのが本心です。
てちは可愛いけど映画は糞つまらない
てちが好きなので観に行きましたが面白くなかったです。
起承転結も意外性も何もなく、恥ずかしいほどの厨二病な展開が続くだけのご都合主義映画でした。
売られた喧嘩だけ買ってるなら分かるけど、電車止めて全く無関係な鉄道会社に迷惑かけたり、本の並びが気に入らないからと本棚倒したりするのはただのワガママな糞アマです。
てちが可愛いことだけが救いの映画でした。
響
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