聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアのレビュー・感想・評価
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不協和音
哀れなるものたちの監督
ヨルゴス・ランティモスの
ロブスターからの三作めです
…怖かったです
何というか
この監督は不協和音の音が
特徴的に使われています
普通に暮らしていても
不穏な音で怖さを醸し出しています
音の使い方が上手いです
この監督の世界観には必要なアイテム
グロさとかエロさもその一つ
聖なる鹿殺しは
心臓手術で失敗して患者を死なせた事に
よってその子供からの報復。
心臓外科医
穏やかな主人公が
段々と追いつめられて
徐々に変わっていく精神状態が
見所です
分からないのは
父を心臓手術で亡くして
主人公をとことん追い込んで
家族を巻き込みながら復習していく少年
どうして…
少年の言った通りになっていく
状況がわからない
ラストのオチもいま一つ
これら二作品を見て
今回の映画[哀れなるものたち]は
ファンタジーな作りになっている
と思いました
ベラが可愛いくて愛しい。
ファンタジーとリアリティの狭間、緊張感を切り取る力には脱帽
『ロブスター』とともにずっと観たくてマイリストに入れつつ無意識に避けていた作品。連続で観ました。
事前にあらすじは目に入っていたが、序盤から嫌な雰囲気に手に汗握る
"ある提案"をするシーンや噛みつきのシーンにはゾクゾクさせられた
そもそもの話、何が病の原因なのかは作中でも専門家から繰り返されていた様にやはり心因性の何かなのだと思う。明言を避けているのは監督の作風であり手癖というか「そこは重要ではない」ということなのだろう。仮に催眠術なのであれば終盤の場面でアナを歩けるようにしたはずだ。そこをはっきりさせないことで得体の知れなさによる恐怖は何倍にもなるし本作のスリラーとしての純度を高めている
一方でその荒唐無稽な要素はある種の悪ふざけのようにもなっており、ホラーとコメディの二面性が見え隠れし笑いも誘う場面もある。とはいえそれは恐怖を薄めるわけではないし、なんなら"そこで笑ってしまう自分"も俯瞰して見せられているようで恐ろしさまである
あとなんと言ってもマーティンの狂気
「バリー・コーガンは素でこうなんじゃないか!?」と思うほどの名演。"怪演"という言葉にずっと腑に落ちない感覚があったが、これを観せられるとこれがまさにだなと思った
等価交換
押しつぶされるような罪悪感と、淡々とやってくる等価交換の罰。
復讐のグロテスクさを描いているとは思うけど
見えざる力を持ち出すなら、それは本当に等価なのか?と。
命は命、ひとつはひとつ。それは分かるような分からないような。
説明に頼らない姿勢は素晴らしいけど、
分かりにくさが単にテーマの掘り下げが足りない制のような印象だった。
コリンファレルは追い込まれるのが似合う
静かで複雑な関係の変化でじわじわ追い込まれる緊張感。あの生き汚さを演じるのってとても骨が折れそうだけど、選ばれたら役者冥利に尽きるでしょうね。
[ここからネタバレと個人的解釈]
まだ見てない人はこんなん読まないで見た方が良いです。
自分がひねくれてるので感想は、生贄の本質って押し付け合いで、必死になって理由をつけて弱いもの力がないものに代償を払わせる行為だよなと。
権力(この場合は生贄の決定権かな)を握る者の罪を拭うためには代わりになりうる尊く聖なるものを供える必要があるとして、その聖なる印をつけるのは当の権力者で。。
子供を捧げますとか言ってないで、自分が罪償えよって。この場合は本人が首差し出す事が1番尊い犠牲じゃんと思うんだけど離婚はせんのかい。業が深い。
ロブスターを思い出しても愛に理由を見たり剥がすのが好きなのかしら。
皆んなを助けた聖なる生贄になった弟くんにも助かりたい一心での下心を感じだけど、お姉ちゃんの優等生的やり口よりよっぽど健気だったのが選ばれた理由に見えました。この子だけはお父さんの罪を知らなかったし。
運に任せた程だったけど、誰にするかは決めていたように見えてしょうがない。
◇不穏、不可解、不条理なる鹿殺し🦌
古の奈良では、鹿が『神獣』とされて手厚く保護されていました。もし殺してしまうようなことがあれば、その人は死罪。奈良の人は朝起きたら、まず家の前を見てシカが死んでいないか確かめなければならないので「早起きが奈良名物」という言葉まで生まれたと伝えられています。鹿殺しについては、『鹿政談』という古典落語の演目もあります。聖なる鹿🦌を殺してしまったところから始まる顛末噺です。
この物語は、そんな長閑な語り口でもなく、鹿も登場しません。心臓外科医の男が抱く「罪悪感」、その薄暗く重苦しい圧迫感が物語の底に沈澱していることが、家族との違和感やぎこちなさ、男の冴えない表情の原因です。罪悪感は物語の進行とともに増大、エスカレートして不穏な雰囲気は悲劇の結末へと滑り落ちていきます。
罪悪感の原因については、心臓外科医の男と父を亡くした一人の少年との不可解な交流とともに紐解かれていきます。男が秘める罪悪感に対して、少年が求める代償は生贄です。命の等価交換ですが、そこには奇妙なネジレがあります。単純な仇討ちではなく、罪悪感をさらに深めて生き続けることを強いる復讐。
少年が求めていたのは、父親を失った喪失感を埋め合わせ、自分だけに降り注がれる父性かもしれません。悩み深く自己嫌悪に陥りつつ、少年を畏怖しながら守り続ける父性。勝手な後日談としては、娘と少年が結ばれて、再び父親を得ることとなる姿です。
聖なる鹿殺し、収束しない物語。罪を被せられないように、明日は奈良名物の早起きです。
聖なる鹿
殺し。
英語を直訳するとこうなる。鹿を殺すことが聖なる行為なのではなく、”聖なる鹿”を殺してしまう、というとニュアンス全然違う。ポスターの字の色変えないとよー。
心臓外科医のスティーブンは手術の腕前は一流、美しい奥さんのアナと二人の子供との完ぺきな生活を送っていたが、スティーブンが度々会っている謎の少年マーティンを家に招いたことから始まる、家族を襲う謎の症状。程なくしてマーティンが口にした謎の症状の秘密とそれを回避するための条件とは?というお話。
カンヌ映画祭で絶賛、というところでもうお察しなんだけど非常に難解。謎が謎のまま終わる部分も多し、だけどこの映画で語りたかったのはそう言う事ではないと思う。
症状が何で起きるの?とかではなくて、純粋に人間が究極の選択を迫られたときに、選ぶ側、選ばれる側になった人間がどう感じ、どう行動するのか、これが主題なのだと思う。
その対象は3人。それぞれ性別、年齢、関係性が違う。しかもそれぞれが必死に考えて道を模索している。それも綺麗ごとなど言っていられない状況なら、打てる手は全て打つし、なんならゲスい発言も飛び出してくる。
それを審判する側の人間はどう捉えるか。審判側の人間もまた完ぺきな人間ではなく、情もあれば気の迷いもあればいろんなファクターが入り乱れて、判断なんかできるか!ってなる。
しまいに取った手段が…あのねぇ。
でも、聖なる鹿って何なのかな。すごく清らかで純粋なイメージなんだけど。
となると、聖なる鹿殺しはあんな手段を取りつつも、実はその前に決まっていたりして。
エンタメ度低め。私はモヤーんとする映画は嫌いではないと思っていたけど、最近あんまり得意じゃないのかも。映画ぐらいはスキっとして欲しいと思う、ストレスMax.インド生活なのです。
人間非讃歌。
どんな内容なのか全く知らなくて、コリン・ファレル主演だから「ロブスター」みたいなちょっと意識高いっぽい映画なんじゃないか?とか冗談で話していたら、まさかの「ロブスター」と同じランティモス監督の作品だった。
観る直前にこの情報を仕入れられたので、覚悟は決まったというか、作品のトーンの方向性だけはわかったのですんなり入ることが出来た。終始テンション低いだろうなと。
ランティモス監督は、非現実的な雰囲気の中で、教科書に書かれているような人間味のないセリフと静けさで、愛ってこうだよねとか人間ってこうだよねとか、そういうことを表現する監督かなと思うんだけど、まあこれが少々極端な演出をする人で、彼の伝えたい「人間」ってものに対して、なんかどっか違うんじゃないかという気持ちが芽生えるし、怖さとか不気味さが先に来ちゃうのはモヤモヤするものがある。
本作「聖なる鹿殺し」は明らかに恐怖を煽るような、効果音ともBGMともいえないような奇っ怪な音を使っているのでホラーのようにしたかったのだろうとは思うけど。
それで、サスペンスというよりは、人間の内面をえぐるオカルトホラー的な作品で面白く観れたのだけど、やっぱり心の奥にある引っ掛かりは残ってしまうんだよな。それが良さなのかもしれないけどね。
もしかして監督は、人間とは怖いものだと考えているのだろうか?ああ、なんかそんな気がしてきた。間違いない。
私はそうは思わないから、作品との共感度がやけに低いんだな。多分そう。
面白かったけどモヤる原因がわかったな。
あまりの痛さに悴然とする。
因果応報というのか、運命のいたずらとでも言うべきなのか。しかしながら、そのあまりの痛さに悴然たる思いが拭えませんでした。評論子は。本作を観終わって。
確かにスティーブンの所為は、医者としては、絶対に行って良いことではなかったことでしょう。
しかも、心臓外科という、危急の場合には微妙な手技が要求される手術を緊急に施行しなければならない立場にある者としては、なおさら。そして、スティーブンの内面に重く重く、重くのしかかる反省、悔悟、後悔、斬鬼の念が、ますます彼を狂気へと駆り立ててゆく…。
そんな「怖さ」が、全編にわたって溢れている一本だったと思います。
また、映画作品としても、いかにも不安げなBGM や、スティーブンスが勤務する病院のシーンがでは、カメラの構図の取り方が何とも不安定というのか…気持ちの悪いくらい歪(いびつ)で、それがまた、作品全体に広がる不安感を強く醸し出していたと思います。子供たちをが罹患してしまったという謎の奇病の不可解さとも相俟って。
(本作のように、画面の構図の取り方で、観ていて不安に駆られるというのは、評論子には初めての体験でした。)
本作は、レンタル店の店頭で見て、邦題に惹かれて、何の予備知識もなく観ることにしたものでしたが、こんな作品だったは。
(これも、映画を観ることの醍醐味のうちでしょうか。)
「元々は自分が蒔いた種子なのだから、自分で刈り取れ」と言ってしまえば、それだけの話なのかも知れませんけれども、人間は、誰だって「常に完璧」と言うわけではないもの。
しかし、本来が人の命を預かる立場の医師であったスティーブンスには、そんなご託は、最初から通用しなかったと言うべきなのかも知れません。
(もう一歩進めて考えると、実はマーティンは、スティーブンス医師自身の良心の呵責の化体だったと考えたら、それはやはり、評論子の独りよがりというものでしょうか。)
本作は、ギリシャ神話の「イピゲネイアの犠牲」を素材としているそうですが、いずれにしても、これもストーリーとして「犯した罪の償い」という意味では、秀作では、あったと思います。評論子は。
トリアージ
独創的で不思議な作品であり、最初から最後まで目が離せない。なかなか味わえない映画体験だった。
優秀な外科医のスティーブンは愛する家族と共に豪邸で何不自由なく暮らしていた。しかし、飲酒した上で手術を執刀した際、患者を死なせてしまう。その患者の息子であるマーティンとかかわったことから次々と彼の家族に異変が訪れる。
マーティンは自分の父を死なせた報いとして家族の一人の命を奪う、だから誰にするか決断しろと迫る。
愛する家族の誰かを選ぶなどできるはずもない。自分が犯した罪が原因ならば自分の命を奪えばいいものをそうはさせてくれない。だれか家族のうちの一人だという。
そんなことがあるわけないと思いながらも子供たちの原因不明の病状は一向に回復の兆しを見せない。このまま、本当に彼の言う通り誰か一人を選ばなければならないのか。
スティーブンはマーティンを監禁してこの事態をなんとか止めようとするがそれも何ら解決にはならない。圧倒的無力感と絶望感。追い詰められたスティーブンが最終的にとった行動とは。
コロナ禍で話題になったトリアージ、命の選別を強いられる父親の苦悩を描いた異色作。実際に学校で子供たちの成績を聞いてどちらを選ぶべきか聞いてるスティーブンの姿はかなりブラックが効いてる。
人間が時として不条理な状況下に置かれた時の徐々に追い詰められてゆく心理状態がていねいに描かれており、最後まで興味深く見られた。
引きで撮影された画も効果的で想像もできない不穏な事態が起きていることがその画からも伝わってきた。えもいわれぬ不安と困惑で心が搔き立てられた不思議な作品。
究極の2択
ラストの衝撃。
終盤の30分は非常に興味深い展開でした。
(人間は保身のためなら我が子も殺す生き物なのでしょうか?)
自分の犯した罪の償い・・・
それが家族の1人(2人いる子供の片方)を殺して償う!!
非常におかしなヘンテコ極まりない2択を、父親(コリン・ファレル)は、
迫られるのです。
ギリシャ悲劇に着想を得たそうです。
ヨルコス・ランティモス監督は
ギリシャ出身なので、ギリシャ悲劇も身近な物語りなのかもしれません。
《ストーリー》
心臓外科医のスティーブン(コリン・ファレル)は数年前に
飲酒した状態で手術を行い患者を死なせた過去がある。
遺児のマーティン(バリー・コーガン)とは、親しく付き合い
時計や金を渡す関係だ。
父親のように慕われてると思っていたスティーブン。
マーティンは徐々にストーカー的になって来る。
彼の要求に従えなくなったスティーブンに
マーティンは恐ろしい予言をする。
自分の家族の1人(父親)が死んだのだから、
スティーブンの家族も1人死ななければバランスが取れない。
スティーブンの家族は、
1、手足が麻痺する
2、食事を摂取しなくなる
3、目から出血する
4、そして死亡する。
予言の通り息子のボブの足が萎えて立てなくなる。
(検査をしても医学的には異常がない)
次いで娘のキムの足が麻痺してしまう。
2人は寝たきりの状態です。
怒り狂ったスティーブンは地下室でマーティンを拘束してリンチをする。
殺してしまおうとするが妻のアナ(ニコール・キッドマン)の反対で
思い留まる。
そして遂にスティーブンはボブかキムのどちらかを殺す決断をする。
この殺害の遣り方が非常に特異なものです。
備忘録の為に書き記します。
(ネタバレのネタバレなので、・・・)
キムとボブのクチをガムテープでぐるぐる巻き
(悲鳴を聴かないためでしょう)
キムとボブは身体もガムテープで巻かれて、
ソファに少し離れて、2人は座っている。
位置を確かめたスティーブンはニット帽を深く被り見えなくしてから、
その場で数回回ってから銃撃します。
1回目は失敗に終わり、再度同じように目隠しで2〜3回、回ってから
猟銃を発射する。
2度目で息子が娘のどちらかが死にます。
そしてラスト。
ダイナーで座る父親スティーブンと母親のアナ。
違う席で生き残った子供の1人が、すっかり健康になって
ハンバーガーにケチャップをなみなみと掛けて食べています。
離れたカウンター席にはマーティンが落ち着いた様子で座っています。
そしてスティーブンとアナと助かった子供の1人が
何事も無かったように歩いて行きます。
本当にユニーク。変わった設定の映画。
以前に見ていますが、今回バリー・コーガンを見たくて
鑑賞しました。
「イニシェリン島の精霊」でとても印象に残ったのです。
この後ヨルゴス・ランティモス監督はメジャー作品
「女王陛下のお気に入り」を撮るのですが、
この映画の前の作品「ロブスター」でもコリン・ファレルが主役。
コリン・ファレルはメジャー作品とインディーズ系の作品を上手く選んで
キャリアを積み重ねています。
出演作の楽しみな俳優の1人ですね。
良し悪しは別にしてインパクトの強い作品でした。
終始不穏
最初から最後までずっと不穏。
感情の起伏が少ないキャラクター達と耳障りな音楽。
最初からグロい心臓のシーン。
静かに淡々と家族の中から生贄を選ばなければならない。
家族の中から一人死ぬ人を選ぶとか🎞️ノープもそんな感じやったけど、人類の為にという大義があったし、自分を犠牲にすることが最終結末で、悲しいけど人の命は美しいという流れになってたのに対して、こっちは全くの逆。
性悪説で自分が生き延びるためにはと実の子供すら犠牲にできる。
怖い、怖すぎる。
後、普通の日常っぽいのになんの説明もなく始まるギリシャ神話の世界感。
新たなるヤバい映画を発見してしまった😱💦
難解
果たして青年の予言通りに事が進んでいくのは
心理的な暗示だったとしても、それで
実際に死んでしまうとかは
さすがに起きないのではないか。
とすれば彼は神なの?ギリシャ神話モチーフのタイトルだし?
と思っても、父親は手術で死んだわけだし
人間だよね?
そこに引っかかってしまって、よくわからない。
命が危ないという局面に置かれた人間が
家族といえども自分だけが生き残ろうと
動くのはおぞましさはあるものの。
冷静に観ていると、そうなる前に普通なら違う行動とりますよね?と
疑問を抱いてしまって正直自分にはいま一つだった。
おそらくいろんなメタファーがあるのでしょうが
そういう考証のお好きな人に合うのだろう。
サイコな寓話
Amazon Prime Videoで鑑賞(吹替)。
タイトルからして異質でした。「『聖なる鹿殺し』とはなんぞや?」。無性に気になったので鑑賞することにしました。
結果、ヨルゴス・ランティモス監督作品らしさが全開な、最後にモヤッとした余韻を抱かせてくれる映画でした。
淡々と進み、じわじわ不気味さが溢れていく。
不安ばかり増幅され、一家を襲う訳分からん不条理な現象と究極の選択に頭痛くなりながらなんとか完走しました(笑)。
鹿、出て来ない。予想はしていましたが。
何かのメタファーかと思い、いろいろ調べると、どうやらギリシャ神話の一エピソードが元になっているそうな。
サイコな青年から犯した罪の代償を求められ、家族の中の誰かを犠牲にすることを余儀なくされてしまった父親。
父親だけでなく、平穏を願うが故に狂気へと陥っていく家族の姿は観ていてとてもツラく、かなりエグかったです。
目隠しロシアン・ルーレットで息子を射殺しましたが、どうやらこれがタイトルにある「聖なる鹿殺し」とのこと。
人間の業を炙り出すだけ炙り出しておいて、意味深なラストシーンで残酷な投げ掛けをして終わってしまうとは。
なんと云う後味の悪さなのだろう。
その後の家族の行く末とは、元になった神話の通りならば凄惨なものとしか思えず、やるせない気持ちになりました。
21世紀のルネサンス運動を期待!
まずは基本情報。
監督:ヨルゴス・ランティモス(1973年生、公開時44歳)
脚本:ヨルゴス・ランティモス
エフティミス・フィリップ(1977年生、公開時40歳)
製作会社:フィルム4
ニュー・スパルタ・フィルムズ
ハンウェイ・フィルムズ
アイリッシュ・フィルム・ボード
エレメント・ピクチャーズ
リンプ
制作国:アイルランド、イギリス
配給:A24(米)
カーゾン・アーティフィシャル・アイ(英)
ファインフィルムズ(日)
出演
・コリン・ファレル(1976年生、公開時41歳):スティーブン(父親)
・バリー・コーガン(1992年生、公開時25歳):マーティン(少年)
・ニコール・キッドマン(1967年生、公開時50歳):アナ(母親)
・ラフィー・キャシディ(2001年生、公開時16歳):キム(姉)
・サニー・スリッチ(2005年生、公開時12歳):ボブ(弟)
・アリシア・シルヴァーストーン(1976年生、公開時41歳):マーティンの母親
・ビル・キャンプ(1961年生、公開時55歳):マシュー(麻酔医)
すっごくインパクトのあるキャスティング!
ニコール・キッドマンの圧倒的な美貌は息をの飲むレベルだし、繊細で儚い印象の子役たちもキュート。アリシア・シルヴァーストーンの起用も話題性抜群です。
そんな中でもバリー・コーガンは決して忘れられない存在感!まだ若いのにちゃんと自分でコントロールしてこんな表情や仕草をしてるの?えも言われぬ不気味さは他で見たことない。
アメリカではA24が配給しているので、なんだかA24映画として扱われていることも多いですが、アイルランド・イギリス映画で、アメリカ以外の配給にはA24は絡んでいませんね〜。
そして、監督さんのこれまでの作品と違ってシュールギャグが廃され、非常にシリアスな作品。終始緊迫感が凄いです。
例えば序盤のうち、コリン・ファレルとバリー・コーガンは同性愛カップルなのだと思わせてますよね。そういうミスリードとか目眩しをやる監督さんなので、惑わされないようにしないとね。
さてこの作品が「アウリスのイピゲネイア」を翻案したストーリーというのは割と有名な話ですね〜。
ギリシャ神話悲劇を現代を舞台に表現するということで、欧米のキリスト教的価値観とかヒューマニズムでは割り切れない理不尽さとか不条理さがあるのは当然ったら当然。
そもそもギリシャ神話…ヘレニズムの宗教の規範である「ヒュブリスへの諫め」がある意味独特な考え方なのに、それを現代で再現すれば見てる方はそれだけで違和感を感じちゃいますよ。
それからギリシャ神話で描かれる「サクリファイス」という精神構造も、個人的には日本人的自己犠牲とは微妙に違うもののような気がしています。
そんなこんなをサスペンス仕立てで現代劇で再現したら凄いモノができちゃいますよ。
今思えば同じ監督・脚本家で作った『ロブスター』(2015)もそうですけど、この映画も最初から、見た人によって解釈が異なるように作ってあって、もはや作り手の意図はあまり意味がないんじゃないかな。
ギリシャ神話の翻案と言っても、アルテミス神に相当する存在や属性も出て来ないし、何ならイピゲネイアも出て来ない(強いて言えば弟のボブ君か、お姉ちゃんのキムと役割を分担?)し、バリー・コーガンの役所は強引に解釈すれば神託を受けた巫女?
なのかなぁ…。アガメムノン王とイピゲネイアのエピソード自体、複数のバージョンがあって、「聖なる鹿殺し」というタイトルが目眩しの1つになってる。
個人的には、終盤、自分が置かれている状況を受け入れた家族4人がどう振る舞うかって所がめちゃめちゃエグくて、ギリシャ悲劇の翻案作品として見事。このレベルでギリシャ神話をやってくれるなら、もっと他のも見たいです。
ギリシャ神話なんて映画だけじゃなく文学・絵画・演劇等々、今あるアートの大元の大元だし、天文学や占星術に限らずさまざまな学問分野の大元でもあるし、スポーツの分野でもオリンピックは切っても切れない縁があります。とっくの昔から欧米人に限らず東洋人であれ誰にとっても絶対的な王道。ルネッサンスな取り組みはもっともっとやって下さい!
医者が気持ち悪くなる
全くつまらない
最後に親父が死んでめでたしめでたしだろうな。まだ、25分あるがイライラする。え!そっち!
栄養補給は普通点滴だろ。歩けない人間を無理矢理歩かせてどうする。普通、リハビリは理学療法士がアメリカにもいるはずだ。何故カウセリングの医者が出てこないのか?アメリカの医者は酒のんで手術できるのか?兎に角、この監督は医学を全く知らない。
少女がいなくなって、最初にで探すところが違う。幼児虐待!子殺し!やってられない。監禁して殺人を侵して、社会にすぐに復帰できるような社会ではないだろう!
これがカンヌ脚本賞?まぁ、カンヌなんてそんなもの。おかしな売れそうもない奇をてらった作品って事だ。昔から。特に今は。
異なる倫理観
倫理観の違いがここまで不快なのかと感じるでおじゃる。
何故アメリカが世界を民主主義国家で埋め尽くしたいのか
不思議であったが、この倫理観の違いが恐怖や不快に繋がり、
延いては戦争に繋がると、この映画を見直して再認識したでおじゃる。
まろ的に再評価でおじゃる。
うーん、何だろう
ファレルさんもキッドマンさんもコーガンさんも
みんな好きな俳優さんなので演技は堪能できたけど
なんか抑揚なく終わってしまって残念な感じ。
ラストの演出はすきだけど
娘と息子をあの状態に陥れた手段を知りたかったけど
それを描くのは邪道なのかしら?
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