聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア : 映画評論・批評
2018年2月27日更新
2018年3月3日より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにてロードショー
監督の繰り出す“ユーモア”はさえざえと哀しさこそを射ぬいていく
「今年一番の“フィール・バッド”ムーヴィー」などとインタビュー(Vulture誌17年10月)でうそぶいているコリン・ファレル。「ロブスター」に続いてヨルゴス・ランティモス監督作に主演した俳優の「いやな感じ(フィール・バッド)」という形容はギリシャが生んだヘンタイ系の鬼才にとっては何よりの賛辞といっていいだろう。
実際、「聖なる鹿殺し」もまたどくどくと鼓動を打つ心臓のアップをつきつける幕開けから、不可解さと見る者を突き放す距離の感覚とに包んでじわじわと迷いなくいやな感じを降り積もらせる。
もっとも、そこにある世界はむしろ曇りなく晴れわたり、どこまでも完璧に見える。主人公の心臓外科医スティーブンは美しく有能な眼科医の妻と二人の子供に恵まれて、郊外の豪邸に暮らしている。非の打ちどころのない家族とキャリア。ただなぜだかしっくりと腑におちないものが漂って、わなわなと不安な気分にさせるのだ。たとえば4人で囲む食卓の会話。その抑揚を欠いた調子。妻(ニコール・キッドマン快/怪演!)の静かな微笑みは静かすぎて不気味な感触を差し出さずにはいない。
何より強力に不可解で、うっすらと(やがて濃密に)怪しいのがダイナーで、屋外で、はたまた病院でもスティーブンと親しげに会話を交わしている正体不明の少年マーティン(「ダンケルク」のバリー・コーガン!!)の存在だ。むしろ密会とさえいいたいような空気をかもしつつ、目撃されるふたりの関係について観客は年下の友人? 擬似的父子? まさか恋人? と堂々巡りの問を噛みしめることになる。
噛みしめつつゆっくりと医師には何かマーティンに対する弱みがあるらしいことが見えてくる。見えてくるあたりで映画はいきなりペースをあげる。凶暴に美しい家庭に入りこむ少年の怖さを開示していく。狩猟の女神の怒りをかった父王とその生贄をめぐるギリシャ悲劇を睨んだタイトルがものをいう。過失が呼んだ復讐劇という意味では前作「ロブスター」ほど不条理な設定ではないかもしれない。が、究極の選択を迫られるひとりと、生き延びるためにジタバタする巻き添えたち、その姿を怜悧にみつめる自作を「コメディ」と称する監督の繰り出す“ユーモア”はブラックもホラーをも超えてさえざえと哀しさこそを射ぬいていく。
人の生を醒めた眼差しで観察する鬼才が仕掛ける“いやな感じ”に深く慄きたい。
(川口敦子)