修道士は沈黙する : 映画評論・批評
2018年3月6日更新
2018年3月17日よりBunkamuraル・シネマほかにてロードショー
その修道士は神か、危ない男か。セルヴィッロという俳優の興味深さが匂い立つ
バルト海を望む高級ホテルに集ったG8の財務相たち。世界市場を左右する会議を前に、彼らを招いて誕生日を祝った国際通貨基金の専務理事が翌朝、死体となって発見される。自殺か他殺か。騒然とする中、容疑者として浮かんだのは宴の後、告解のため理事の部屋へと招かれた修道士。守秘義務に縛られた彼はあくまで沈黙を守る――。
と、そんなふうに筋をかいつまめば、劇中でも言及されるヒッチコック監督作「私は告白する」を思ってみたくもなるだろう。巻き込まれ型サスペンスの変奏ともいえる一作では、殺人を告白され罪を着せられるまま聖職者として正しくあろうと口を閉ざす神父を、絶頂期の美貌を味方につけたモンゴメリー・クリフトが輝かしく演じてみせた。その黒いキャソック(司祭平服)姿の禁欲性のなまめかしさ! かたやロベルト・アンドー監督の下、トニ・セルヴィッロ演じる修道士はしかめつらしく守る沈黙で答えの見えない謎を玩ぶかにも映る。沈痛な面持ち、清貧な態度を究めるほどに漂ううさん臭さを一種の磁力としてしまうセルヴィッロという俳優の興味深さが匂い立つ。
そういえばアンドーの前作「ローマに消えた男」でもセルヴィッロは、失踪した双子の兄弟の替え玉として野党の領袖になりすまし狂気と正気の境界の言動で思いがけない人気をつかむひとりの怪しさをこってりと体現してみせた。ひょっとしたら今回も旅の途上で修道士の白い服を拾ったなりすまし男の物語だったりするのでは――などと突飛な妄想を膨らませてみるのはどうだろう。沈黙がないものをあるように見せ、空洞の存在に聖なる重みを与えてしまったのだとしたら。そんな誤解と錯覚が実は世界経済を差配する先進諸国の身勝手と空騒ぎの仕組の真相をも射抜き、現実に一撃を食らわす風刺コメディを成り立たせるとしたら――。
なにしろすべり出しの宴で映画は、眉を抜きすね毛を剃って「彼女」になった「彼」を筆頭に危ない側を行く連中を讃えるルー・リードの「ワイルドサイドを歩け」を高らかに歌わせたりもしているのだ。そんな一作にふさわしいのは沈黙の周りで空転する世界を手玉にとる危ない男ではないか。手なずけた猛犬と共に去っていく修道士の後ろ姿は少しだけ神のようでもあるけれど、無声映画でおなじみの丸いフレームでその背中を囲い込む監督(前作でも「チャップリンの独裁者」に目配せしていた)は、あの放浪紳士のワイルドな自由こそをそこでみつめているだろう。
(川口敦子)