テレンス・デイヴィス監督作
「遠い声、静かな暮らし」に続けて鑑賞した。
屈折した家族の痛々しい歴史にこだわって、目を逸らさない監督の視点は、ここでも同じ。
・ ・
「作品の詩は素晴らしいけれど、作者にはずいぶんな問題があったんだよ」と、彼女の実態をつまびらかにしている内容でした。驚くべきことに。
「作者と作品は不可分一体なのか」という古からの命題が、ここには関わってきます。
昔から、作者の好ましいプロフィールや、逆に作者の不遇なエピソードなどというものは、残された作品の評価を安直 (チーフ)゚に高めさせる効果がありました。
つまり、嫌な言い方をご容赦頂きたいが、これは僕の事でもあるし、どなたにも身に覚えがある感覚だろうが、「その芸術作品」が⇒「女子供や老人や、夭折や不遇。またハンディキャップを負う作者によって作られていると」、勢い心象的には作品への評価とかシンパシー度がUPしてしまう件。
作品そのものへの評価が、何か別の同情的付加価値によって舞い上がってしまう、その反応。
しかし
この映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」は、そこを逆行させています。これは伝記映画としては挑戦的で 、なかなか興味深いと思った次第。
つまり簡単に言えば
この映画は「作品の詩は素晴らしいけれど作者はサイテーだったよ」と、彼女の実態を暴露している内容になっているからです。
たとえば「薬物事件」や、「差別発言」をしでかすと、そのアーティストへの幻滅と低評価が起こりますね。
ディオールのデザイナーだったジョン・ガリアーノの”あの事件”について、僕を含め、世の中は当惑し、混乱したばかりです。
・彼と彼の作品は同格なのか?
・デザイナーが駄目だと作品も駄目なのか?
・作者と作者の残した作品は同一不可分なのか?
と、デザイナーのガリアーノ氏との場合とか、シンガーソングライターのМ原 某氏との場合とか。
「作者がダメなら作品も、過去の作品も含めて発禁なのか?」という難しい問いが、この映画でも我々に投げ掛けられたと思います。
つまり
痛々しい詩人エミリ・ディキンスンの「人生」と「残された作品の価値」についても、等価交換が出来るのか。そこが問われるのです。
・この映画は作者についての神話を壊してしまう。
・この電気はエミリー・ディキンソンの作品の価値を高めるものではない。
・むしろ冷水を浴びせかけるものだったかも知れない。
・・・・・・・・・・・・・
草原を作るには、
蜂蜜とクローバーが必要だ
エミリ・ディキンスン
この《絶品のコピー》に出会ったのは、先日観た蒼井優主演の「蜂蜜とクローバー」の冒頭で でした。
この詩の、おちゃめな言い回し。そして独特の着目と鮮やかな発想。
詩の作者であるエミリ・ディキンスンに俄然興味がわき、今回の鑑賞となりました。
どんなにポエミーで愉快なお人柄なんだろうなァ♪と。
一家揃ってとにかく本をよく読み、
家族同士でいつの時にもディスカッションし、他者の語る言葉には傾聴し、自らの立ち場をそこに表明できるやり取り。
そうして家族との日常の会話の中から、自立する人間としての基礎を培われていったエミリ。
自由な発想と思索の深さ。そしてあの弁論術の巧みさと、返す問いの鋭さ・・
彼女のそういう所は、お父さんやエリザベスおばさんの影響なのでありましょう。
けれど劇中、たくさんの詩がエミリの台詞や独白として画面に流れます。
それはやや硬くて、
ポエムというよりはどこか格言のように響く彼女の詩は、冒頭の詩の断片のラブリーな雰囲気とは少し異なる感じでした。
総じて強硬で、どこか攻撃的で、裏返しな“否定的な言い回し”が多い。
映画のストーリーが進むにつれて、それは顕著になります。エミリーの人となりが僕の当初の想像とは違っていたので、僕は少々身を引いてしまいました。
「作家に対する死後の高評価なんてものは、生前その作家が無視されていた事の証左だ!」と吐き捨てるなど、彼女の病的な自己主張。
⇒「私を無視して苦しめているのはあんたらだ」と両親や兄妹を糾弾。
そして口を開けば辛辣な皮肉と毒舌は、機関銃のごとくに周囲の人々すべてに浴びせかけられる。
妹エミリが兄オースティンに対して喰ってかかるあの一言も、なるほど、そうなのかと僕に思わせるものがあったが。
「兄さんも一週間女になってみれば判るわ」。なるほど。
でも、兄に対しても、同性の妹に対しても、そして義妹に対しても、エミリの一切の言動は、破壊的で殺傷的で、前向きではなかった。
そんなエミリという人格が劇中で延々と暴露されていました。
彼女の臨終で幕を閉じる本作は、
エミリの伝記映画ではあるのですが、つまるところ、“資質的に相当の問題のある彼女を支えて、なんとか最後まで介護し通した一家=妹や兄やお父さんの物語”でもあったのだ、と思いますね。
生前はたった8編の作品しか残さなかったというエミリー・ディキンソン。
家に閉じこもり、死後に1800もの遺作が“発見”されたのだそうだ。
発表されるに相応しい徴 (トキ) を待って、世に求められ、世に芽吹いた遺作だったのかも知れません。
「原始、女は太陽であった」と檄を飛ばした平塚らいてうは、女たちをば味方と見た。
本作の主人公は、はねっ返りの女詩人エミリだから、感情を抑えられていた女たちの心には地震のような感動を与えたのでありましょうが、
残念ながら生前の家庭人としての彼女は女たちを仲間とは見なしていない。すべての他者が彼女の敵であり、家族をも家族と思っていないのです。
だから、散々の苦労をさせてくれた彼女がやっとこの世を去り、家族はほうほうのてい。
長らくの時を要して、作者の陰険な声が徐々に薄れて、残された詩だけがその単体で浮かび上がってくるその日までは、
「1800の詩は封印されていたことが幸いした」と言えるかもしれない。
そうなんだろうと思えるのです。
つまり、死後発見された詩群といえばなんだか聞こえは良いが、
描かれてはいないが、エミリーに辟易としていた遺族は、彼女の死後、彼女を思い出したくなくって、死者の作品を (廃棄はせずとも) 封印し、うっちゃってあったんではないのかなと
映画を観ながら僕は想ったりしてしまうわけで。
そして時を経て、作者への幻滅を超えて、ようやく一周回って
「いい詩を書くひとだったね」と、彼女を知らない人々は、やっとそう思えるようになるのかも知れないのです。
・・・・・・・・・・・・・
To make a prairie it takes a clover and one bee,
One clover, and a bee,
And revery.
The revery alone will do, If bees are few.
草原をつくるなら クローバーとミツバチを
クローバーひとつ ミツバチ1匹
そして夢想する
ミツバチが ぜんぜんいなくても
思い描く それだけで草原はつくられる
·