散歩する侵略者 : 映画評論・批評
2017年8月29日更新
2017年9月9日より新宿ピカデリーほかにてロードショー
“アメリカ映画の痛快”をまんまとまるかじり。黒沢映画の確かな実り
原作にさらりと目配せする金魚の姿で幕を上げる映画は、のどかに連なる田園風景の先にいきなりの惨劇を用意して度肝をぬく。白い光がゆらゆらとまぶしい一本道。血まみれのおさげの少女があっけらかんとやってくる。背後に迫るトラックにも我関せずの少女は踊るようにふーわりと歩き続ける。散歩!? そうはみえない“散歩”が怪しい予感を鮮やかに研ぎあげる。
そうして始まる黒沢清監督の最新作は“侵略SF”という古典的ジャンルを消化して、しんとした日々の空気の中にふと気づけば無視し難く満ちている侵略/戦争の気配をくっきりと指し示す。そこには壊れた結婚生活を壊された日常を逆手にとって立て直す一組の夫婦(妻と夫の形状をした宇宙人)がいて、愛と死という人間の根幹にかかわるドラマを全うしてみせる――。
と、筋をかいつまむだけでは見えてこない映画の素敵、スカッと爽やかを睨みながらそうはいかない今日的な危機感を鬱蒼と茂らせ、それでも往年のハリウッドのジャンル映画の面白さを手放しはしない欲張りな妙味をかみしめるうち、ああそうだとフランスで撮った前作「ダゲレオタイプの女」に射し込んだアメリカ映画の影について語ってくれた監督の言葉が蘇ってきた。
「往年の本当によくできたアメリカ映画に代表されるある種のジャンル映画って、愛とか死とかってものが、大げさなテーマというよりは普通の人間のドラマの中心にある大きなものとして当り前に横たわっている。自分もまあ、そういう方に辿りつきたいと思う」
少し控えめなウェルメイド宣言は、最新作の芯として横たわる愛の物語をしたたかに支える覚悟を指し示していたのか。そう思う一方で、じわじわと記憶の底から這いあがってきたのが「ジャンルだけを貫き通そうとする無理やりな」往き方と、監督が愛着をこめて挙げたジョン・カーペンター映画のこと。
なにしろ最新作の海外向けプレス所収のインタビューでも、完成作を見たら“侵略者”天野少年と記者桜井との場面にカーペンター的なものを感じたと監督自身が語っているのだ。実際、映画は世界を救う愛の物語の傍らに大型ヴァンで移動する少年と記者、黒塗りのヴァンで追う怪しい一味をめぐる活劇のスリルを紡ぎ、挙句に天野と桜井の無駄口叩かぬ友情の物語を差し出しもして、カーペンター→ホークスという“アメリカ映画の痛快”をまんまとまるかじりさせるのだ。黒沢映画の確かな実りがそこに息づいている。
(川口敦子)