20センチュリー・ウーマンのレビュー・感想・評価
全102件中、1~20件目を表示
マイク・ミルズ安定のふんわり仕上げ
マイク・ミルズという人は、提示したテーマやモチーフを結局雰囲気にもんわりとくるんでしまう印象がある。監督の若き日に大きな影響を与えた女性たちに捧げたという本作もその印象は変わらない。
ただこの監督、女優を魅力的に映すことには本当に長けている。アネット・ベニングもグレタ・ガーウィグもエル・ファニングも、スクリーンの中に存在している姿を見るだけで飽きない。
しかしなんだこのエル・ファニングの危ういエロさは。エル・ファニングはニョキニョキとタケノコが竹になるように成長しており、比喩なだけでなく身長もデカい。その物理的な属性が、デカくなり過ぎた自分を持て余しす思春期の少女役にみごとにハマっている。
女性たちがよく映りすぎていて、結局は理想化された姿のように思えたりもするのだが、こんなにも女優が輝いている姿を見られるだけで、ミルズ作品が苦手な自分も観てよかった、と結論せざるを得ない。
フィツジェラルドやヴァージニア・ウルフ後の米国モダニズムの歴史
見た。消された?
凄く退屈な映画なのにもう一度見る羽目になった。
色々と屁理屈を言って消されたと思われるが、消される価値も無い映画だと思う。
消されたのか?途中で見るのをやめたのか?あと、15分。
兎に角、昔から続く「エデンの東」「理由なき反抗」等などのモラトリアムな白人青年の話。(あ!ジェームス・ディーンの映画ばかり)
兎に角、結婚式のビデオを見せられているようだ。若しくは、存在するのかしないのか分からないキャラクターのカタログの様な話。
「20世紀女性」と言うよりも1924年って昭和2年って事。だから、
「アメリカン昭和枯れすすき」の方がいいんじゃない。兎に角、現代のアメリカキャピタリズムの歩みそのもの。ある意味、温故知新。世の中はこんな単純な資本主義になっていない。
大日本帝國から日本。日本はこのアメリカに夢を抱いて生活をして来た。いやいや、生活をしている。
アメリカンドリームは藻屑と化したし、資本主義の主役ではなくなった。
象徴しているのが、毎朝の株価のチェック。こんな事やって、飯を食べている奴は、もういないはずだ。
中山第4レース新馬戦の19番人気と20番人気の馬単に1000円ぶち込んだ方がアメリカの株を買うよりも儲かる。
また消される♥
誰もそんな事出来ないよ。
体温のある人物像
二十世紀
分裂と利己主義
ベトナム戦争も終わり、アメリカ国民が団結することもなくなった1979年。このカーター大統領の演説に感動したというシングルマザーのドロシアの言葉が印象に残る。大恐慌時代に生まれ、何かと戦前、戦中の生き方が身についてしまっていたドロシア(ベニング)も息子の教育には悩む。象徴するのはパンクロックだったりスケボーだったり、性の解放についての書籍も多く出回ってた時代だ。
幼なじみで、いつも屋根伝いに侵入してくる2歳年上のジュリー(エル・ファニング)。ベッドの上で一緒に寝るけどセックスはしない。親しすぎて、体の関係を持つと友情も終わってしまうという意見の彼女だった。もう一人の24歳の女性写真家アビーは子宮頸がんについて悩み、同じく一つ屋根の下に暮らす何でも屋のウィリアムと仲が良い。
ライフスタイルも世の潮流も変化しつつあるけど、芯が強ければいつの時代でも生きていける。人の痛みを理解できれば優しくなれる。もうジェイミー少年はしっかりしてるじゃん!それという事件もなく、楽しそうなルームシェアの言わば家族を観ていると羨ましくも思えてしまう。この時代を懐かしむにはもってこいの作品であるのだろう。
年代は違うけど、それぞれの信念を持っている彼女たちは20世紀女性とも言える存在だったし、大きく変化せず、それぞれの幸せな道を歩んでいったストーリーにはそれほど感銘を受けられなかったかなぁ。また、母親だけの物語じゃなく、womenと複数形になってることからジュリー、アビーの物語でもあるんでしょうね。
ちょっと残念なのは、音楽シーンを語るのなら、1979年と言えばスリーマイル島原発事故から発したノーニュークス・コンサートが開かれた年。これを語らずして、1979年はない!と、音楽好きの俺は思うけど・・・
アメリカがトーキングヘッズを好んだ時代
70年代後半の祭りの後的なアメリカ
大恐慌の時代に生まれた母がシングルマザーとして今は豊かになったアメリカの小さな街で男の子を育てている
時代の描写 音楽 ファッション セラピー フェミニズム 価値観 趣味の相違
大人世代の豊かにはなったけどなにか満たされない空虚なった諦念
若者子ども世代は感受性が高いからパンクを聞いてパンクを生きてる、少なともクールでパンクな素振りで必死な毎日。
ジェイミーを殴り倒したりジェリーに生出ししたりする奴らはパンクがわからないマチスモ、ゲス野郎とお見受けするが、彼らもスケボーやってる。これは1979年だからここから mid90s の萌芽を感じる。
自然に出会い集まりできるコミュニティの面白さと鬱陶しさ
伏線も裏も何もないあっけらかんなストーリー。アメリカではオルタナティブな人たちなんだろう、先端をいく若者も10年経てば旧世代既得権勢力または敗北感にまみれ、この母親のように、自分はそんなに不幸せではない、と裏腹に、子どもにはわたしみたいになってほしくない、もっと幸せになってほしいと本音が出る。
ジェイミーもmid90sの男の子も、スケボー仲間、友達の悪ふざけに乗っかり生死を彷徨い母親は子どもの危機に自らの存在の是非を問い苦しむ。赤く髪を染めたパンクの申し子アビーが生理を語る(今なら普通、、この世代時代のずれが、今2020年代とくに日本にいると遅いな全然前進してないな、と思うのだが)が母親の胎内で副作用により癌ができたことにこの母親はだんまりだ。
さまざまな親と子、女と男の関係。
車で移動する時、時がたつとき、タイミングよくわからないけど。時々レインボー、七色に光り画面がチラチラして時の遷移価値観の変化や兆しを感じた。
フェミニズムとかまだまだエキセントリックな時代だったが2020年代の日本よりずっとマシだよな、その後母親が新世紀とともになくなるまでも詳らかに、ほんとに裏もなんにもない感じなので、20世紀の時代感や社会的な変容に興味あれば誰でも楽しめる。パンクを知ってる世代には今の忖度と損得のクソ社会、時代遅れっぷり揺り戻しっぷりを痛感するだろう。
ジェリーを演じるエルファニングの言葉は説得力ありあり。
三人の女子の魅力的なことそれだけでも見応えあり。俳優さんたちみんないい。
特に母親の言葉はユーモラスで笑えるところ満載、子ども世代のセリフは刺さる、時代を軽く振り返り、爽やかに楽しめる作品。
監督の、お母様への賛歌。ご自身の道程の確認。
20世紀世相のドキュメンタリーのような映画。
それをセンスのいい調度類・映像と、役者の表情でたっぷり見せてくれる。
この頃のUSAでは、精神分析にしろ、エンカウンターにしろ、一大ムーブメントがあり、それを受けることが知識人であり、解放を目指す人であるという風潮もあった。ウーマンリブにフェミニズム、ヒッピー。こんな生き方にかぶれた人々居たなあ。
あるべき自分ではなく、ありたい自分への追求。”本当”の自分探し。
インテリア・ファッションなんかも真似したくなってしまう。
色使い・光・質感・湿度感…。
様々な小物がさりげなく、生活感あふれる、その人物の人となりがイメージできるように置かれている部屋。整えすぎることなく、でもインテリアのカタログを見ているようだ。人間が住んでいる空間。とても気持ちいい。癒される。
ファッションもいい。パンクなんだけど知性を感じさせる。
ベニングさん演じる母の、”対等”を目指しながらも(導こうとする時点で対等ではなくなるんだけれどね)、微妙な戸惑いや感情を知性で押し隠して”人生の先輩””親”としての貫禄を出そうとしているその様が痛々しくも愛おしい。”旧世代(19世紀)ではなく、進歩的な一人の人間としての母でありたい、子育てを間違えてはいけない(幸せにせねばならない)。”と足掻く姿が、自分を鏡に映すようで、共感するやら痛いやら。
ファニングさんもガーウィグさんも素晴らしい。とってもリアル。
ルーカス・ジェイド・ズマン君。これらの個性的な役者に囲まれて、でも独特の存在感を出している。この子の透明感が、アクの強い周りの人々をうまくつないでいるし、中和している。
とはいうものの、
人物の内面を吐露しているようなセリフ・場面はありつつも、人物を深く掘りさげているわけでもないし、スピード感あふれる展開もない。
ドラマや、エンターテイメントを期待していくと…。
静かに映画に浸りたい方々向けだと思う。
夏の思い出を綴った日記のような。
実力派の名演も響かず
食えない一本になった。前評判が高かったのでそこそこ期待して見たが、正直、何が言いたいのかよくわからない映画になった。
・家族の結束・母親への郷愁・女性賛歌・少年の成長・性の目覚め・70年代・印象に強く残るセリフ・沁み込むような語り口・独特の映像
などが、この映画の魅力なのだろうと思う。やたらと出演している女優の感性を称賛するようなコメントが多く、「映画が好き」な人が持ち上げているように映る。私も、それなりにたくさんの映画を見てきたし、文芸的、私的な映像作品には強烈に魅かれたものも少なくない。がしかし、この映画は食えない。食わず嫌いのまま終わってよかった作品だった。つい、グレタ見たさに見てしまったし、アネット・ベニングの表情を見ているだけでも何某かの癒しにはなると思う。ところで、さっぱり何が言いたいのかわからない。
セックスについての女の本音を年の近いお姉さん(他人)にレクチャーされ、添い寝のパートナーになるという異常な経験を、さも当たり前の通過儀礼のように描き出す。
アート系の仕事を志す適齢期の女性で、妊娠にリスクを抱え、結婚とは距離を置く自立を余儀なくされ、行きずり以外の男性関係は乏しそうな、とても家庭的とは言えないお姉さん(他人)は、15歳をクラブに連れ出し、酒も勧める。
父親のいない境遇の男の子の行く末に不安を感じ、自分の教育方針に自信が持てない母親は、そんなお姉さん連中に、息子の教育係になることを頼み込む。
そんな不思議な「家族」が、少年の成長を通して語られていくのだが、この少年が、素直過ぎてなんの起伏もない。ドキドキする様子もなく、悲しみも、挫折も感じさせない。どうやら、監督がこの少年をアバターに自分の人生経験をダブらせて描いているようにも見えるのだが、女性にこれだけ近づきながら、無視されているに等しい扱いは、とても愛されているとは言えないだろう。飼い犬に裸を見られても平気なのと一緒だ。
表面だけ、「教えることは全部教えたからね」「その気になってもあなたとは寝ない」「息子が何を考えているかわからない」それぞれのスタンスを宣言し、それぞれの女性に特有の苦しみ、悩み、悲しみを、全部詰め込んで、この20世紀を生きた女性は私の母だった。みたいなまとめ方は凄く乱暴に思える。
少なくとも、この男の子、一つも愛されてないことだけは確かだ。だって、放任され、道を外れても叱られず、恋する女性からは恋愛感情を否定され、大人の女性には夜遊びに連れ出され、よほどしっかりと自分をもっていないと、このままドラッグや犯罪に巻き込まれていくのは必然だろう。
そんな十代の一瞬のきらめきを、ある角度からとらえて、一見、美しく切り取られた映像に、魅了された人に、私は問いたい。大人の責任とはなにかを。
2018.6.10
本音が怖い
舞台は1979年カルフォルニアのサンタバーバラ。ドロシーは高齢出産で授かった男の子ジェイミーを溺愛するシングルマザー、15歳と言う大人の入り口に差し掛かったジェイミーの人生教育に頭を痛める。ドロシーは若い頃空軍のパイロットに志願したという気骨と実行力では下手な父親より頼りになるのだが昨今の若者文化には自信が無い。
そこでシェアハウスの住人アビー24歳や年上のガールフレンド、ジュリーに相談相手になってやってと頼み込む。確かに年の近い姉さんたちなら本音が話せる。ただ、彼女たちは彼女たちなりの理想の男にしようと世話を焼くがもっぱら性教育だから赤面もの。
脚本はマイク・ミルズ監督の自身の生い立ちがベースと言うこともあり人物描写は妙にリアル、セリフにも時々唸ってしまう。例えばアビーの病気のことで母が息子に言うセリフ、「男はたいてい解決に躍起になるか何もしない、解決できない時に寄り添うってことが下手なのよね」とか母に助言のつもりで「女にとっての加齢」ゾーイ・モス1970の一節を読む息子に「私は自分を知るのに本は必要ないわ」と返す母。淋しいだけでやってくるのだろうかいつもジェイミーのベッドにもぐりこむジュリーを見咎めたアビーがジェイミーに、「セックスしない女を横に寝かせるのはおやめ、自信をなくすだけよ」とのたまう。数え上げたらきりがないが秀逸な会話劇でもあります。
女性史と米国史のユニゾン
思春期の少年の目を通して、米国史と女性史が重なり合うように描かれる。
不思議な共同生活を送る中で、少年は女性たちの心の痛みや複雑さを理解して癒そうとするし、女性陣は少年に人生指南をするつもりが逆に彼に癒されてもいて、他人なのに近しいそんな関係性が、少し羨ましくもあった。
唯一男性の同居人ウィリアムは、女性に翻弄され自分のアイデンティティを失いかけている。彼も独特の脆さを孕んでおり、個性的な役どころではある。
女性が重要な役割を演じてはいるが、あくまで主役は親子の話。
母は息子の世界の外側に押し出されて無力に感じ、息子は母に自分と二人だけの世界ではなく、新しいパートナーを見つけて幸せになってもらいたいと願っている。
二人は微妙にすれ違ってはいるが、本心は労りに溢れてる。
僕は母さんだけいれば大丈夫。ジェイミーのラストのセリフに泣けました。
そして女性のオーガズムに関心を持ってくれる男の子なんて、本当に貴重!こんなに優しい子どこにいる?
人生を外側から見つめるような、こういう作品は瑞々しければ瑞々しいほど、見ていて苦しくなる。おそらく自分の人生を客観視すると、余りに陳腐で平凡だから。
ドロシアのセリフではないが、幸せについて考え出したら、鬱になる。もしかしたら貧乏よりも虚無の方が恐ろしいのかもしれない。目の前の小さな幸せを見つめ続けなければ、現実味が消えて無くなりそう。
観客は多種多様なフィルターを通して、この映画に自分の人生を投影するに違いない。自分らしさを取り戻して自由に生きる、登場人物たちのその後の人生に、背中を少し押された気分。
たまたまだが、この映画の前に、エル・ファニングとパンクという共通項を持つ「パーティで女の子に話しかけるには」という映画を見たばかり。彼女のツンと上向いた鼻と不思議チャンな魅力は、パンクと妙な親和性があるね。
私に言われても。
エルファニングの魅力
五人五色
人と関わるということ、生きるということ
親子と日々助け合い率直に関わりあう同居人を中心に描かれる、日常の人間関係。
他人と関わるのは良いことばかりではなくて、面倒くさくなったりもする。
その描写が秀逸でした。
ドロシアみたいな親だったら子どもは幸せだなと思った。
子の将来のためにどうすればいいか考え、ダメなことなどきちんと指摘。日々コミュニケーションを取り、寄り添って、きちんと向き合っている。
かといって頭の中が子ども100%というわけではなく、自分の人生も大切にしている。
(ジェイミーが読んで聞かせた本の内容が自分ズバリだと思っても、それを受け入れないということの伝え方)
ジェイミーがウィリアムを無理だと思うことや、親に言いづらい喧嘩の理由をドロシアに言えるのは、関係ができているからだと思う。
アビーとジュリーという、助けを求めた先が不適格だった。
皆でテーブルを囲む席で性について口にし、一方的に聞かせる(嫌と言いづらい)のは、最低だと思う。
ウィリアムとアビーは訳わかんないと思うところもあるけど、寄り添う優しさや弱さを隠さない魅力がある。
一方で、気の強さと自分は絶対正義で言いたい放題のジュリーは無理…
年上のドロシアに平気で失礼なこと言ったり、妊娠検査薬買ってきてくれる優しいジェイミーを翻弄したり…
拒まれたら手放したくなくて誘って出奔、あげく拒む…何なのこの女としか思えなかった。
息子が生まれたというジェイミー、きっと、ステキな人に育っているから、心から愛する人がパートナーだといいな。
ドロシアも人生をとじるとき愛する人がそばにいて良かった。
内容も素晴らしかったけど、映像もキレイでした。
最初とラストの海と空がとても美しかった。
みんな違って、みんな良い...!?
世代も、嗜好も育った環境も、どこを切り取っても共通点なく、ただただ噛み合うことなく、お決まりの結託もなく、敢えて共通項と言えばとにかくよく話し、それぞれのスタンスで自然体に表現し発信してる女性3人と、それに不器用ながらいつも理想の男として寄り添いたいと思っている男性2人の掛け合いをベースに展開されるお話。
まとめてみたら、ちっとも面白くないとのに、女性×女性、女性×男性、たまに男性×男性、女3人x男2人の組み合わせで紡ぎだされるダイアログや、たまに入るモノローグが、いちいち琴線に触れてくる、極めてドメスティックでエモいけど、90年代の時代の転換という壮大さと自然に交差される現代の鉄板テクニックのお陰なのか⁈…嫌味がかけらもなく、不思議な心地よさにじわじわ浸透して、病みつきに引き込まれていく。。
空気感
全102件中、1~20件目を表示