「心寄り添うのは」沈黙 サイレンス 眼球男さんの映画レビュー(感想・評価)
心寄り添うのは
虫の音で始まり、虫の音で終わる。
恩師を救うという強い情熱を持った若い宣教師・ロドリゴと、彼のその後を見たというオランダ商人の目線で描かれている物語。あくまで外国人からの目線であり、登場する日本人たちの心の内はわからない。
様々な人物がそれぞれの立場でいる。
映画を観ながら、そして映画の後も、自分が誰に心を寄せ得るのか考えてみたがよく分からない。ロドリゴ、モキチ、キチジロー、フェレイラ、あるいは井上筑後守、通辞。
僕には彼らのような強い信仰はなく、漠然と正月や盆や法事の際に神社や寺を頼り、一方でクリスマスに浮かれて、美術館にキリスト教絵画を観に行く。気持ち的にも一神教の神との契約という考え方はイマイチピンとこないと常々感じていて、自分はむしろアニミズム的な神々や考え方が合っている。当時のフェレイラやロドリゴ、ガルペが感じた違和感の逆ということか。
だから登場人物たちの心に寄り添えていない、そんな立場にないと感じた。
ただ、キチジローの情けなさ、惨めさ、愚かさは僕にも分かった。彼に共感することができた。弱くて、いつも揺れていて頼りない。僕が人から隠している僕の本質と同じと感じた。
キチジローはその後どう生きたんだろう。それだけが少し気になった。
映画としては、ポルトガル人の宣教師達が終始英語で会話するのが少し気になる他は、日本人の役者達、特に塚本晋也のモキチとイッセー尾形の井上筑後守それぞれの演技が見事だった。モキチの「殉教者の目つき」が忘れられない。
映画の後、当時のあの時代に、なぜキリシタンが禁止されたのか、史実が気になっている。あんなに酷い弾圧が行われた理由がこの映画では詳しく触れられることはなかった。
最近は宣教師達が日本人奴隷の輸出に加担していたとかそんな説もあると聞くが、本当かどうか分からない。
歴史は常にその時代の政治に影響を受け、都合の良い解釈がなされて行くのが常だから、あくまで説としてどの程度の信憑性なのか少し調べてみたくなった。
この映画はもちろん当時の役人や幕府や日本人を断罪するのが目的ではなくて、そういう状況に置かれたキリシタン達の数奇な運命、そして心の動きを描いたもの。僕も史実が気になるが、映画とは切り分ける分別を持ちたく思う。
この映画を身近にいるキリスト教の信者の友人にも観てもらって、そして語り合いたいと思った。