異常な宗教団体の教義に翻弄される人々、とは
この映画のホンの一部に過ぎない。
みんながみんな、「運命」というより他に無いものに依って
あの飛行機に手繰り寄せられてしまった。
ただ、話の時間を逆行させれば必ずそうなるというだけだ。
乗るか乗らないか、ギリギリ迷う人達に
「神」は何も言わなかった。
「御仏」でも「先生」でも呼び方は何でも構わない。
ギリギリ迷ってた人達に「この飛行機スグ落ちるよ」と
「預言者」が顕れて来て一言言ってくれれば良かった。
「飛行機が落ちるのは、全能の神が存在しないからだ」
彼女が即決で輸血しても患者は死んだかも知れない。
ドランも奇跡的に完治するかも知れない。
そしたら教団内で地位が上がるかも知れない。
ただそれだけだ。
が、この国では「信仰」という感覚に抵抗が有る
・・・訳では無くなってしまったのかなあ、
「信仰 」=「教育」=「洗脳」(=「人間形成」かな?)
な事実は未だ世界の根底にあり、今後も直接、
「差別」「対立」の原因になり得る。
今時ムラ社会的正義は悪習の言い訳にしかならない。
と、感じていたが、一部ではそうでも無いらしい。
「信仰」が人間を救った事実は無いし、今後も無いだろう。
しかし「神」・「御仏」・「先生」は
「戦争」、「侵略」の発端・言い訳として
歴史的に未来永劫機能させ続ける。
現時点、その「歴史」や「未来」すら「洗脳」の結果である。
現時点、「平和」が実現しない理由でもある。
そうでもしないと「国家」の維持すら危ぶまれる。
他の「信者」が「信者」のままで居ようとする限り
ドランは泣く。神の御旨に従う。
看護婦だけがドランを助けようとした。
彼女の御旨に従えば良かった。
ただそれだけだ。
登場人物は全員が被害者であり、
宗教上の混迷だけで無く、弱き者、愛し愛されたがる者、
悪いと知ってて止められない人間達を、唯の
「しょうもない馬鹿なヤツ」と感じさせない為の
道具として、「馬鹿なヤツ」と並列させる事で、今回
宗教団体の無茶苦茶な教義が使われているだけである。
みんな必要の無い葛藤や悩みや問いかけで困惑している。
一人一人が悪事を行う理由を生み出している。
それぞれの「信仰」や「経験」によって
不条理から逃れられないでいる。
ただそれだけだ。
全編を通して中心にいるその二人は「二世」らしく
「敬虔な信者」の家庭が描かれている。
「排斥」を恐れ不条理を選択しようとする。
「飛行機が落ちるのは、全能の神が存在しないからだ」と
言われ、肯定するか否定するかは個人の信条意思な筈が、
「集団」はそれを許さない。
生まれた時から「信仰」という不合理に生きて来た
「集団」にいる「個人」に選択は出来ない。
「信仰」の不条理には悪意が介在している。
この映画は現代の縮図なのかも知れない。
ホントは今、心が怒りに打ち震えて仕方ない。
「信仰」を行うのであれば、
全てを疑うという選択肢が無ければならない。