淵に立つ : 映画評論・批評
2016年9月27日更新
2016年10月8日より有楽町スバル座ほかにてロードショー
家族神話の幻想を通して浮かび上がる人間の闇
「僕にとって、家族とは不条理なもの」。朴訥とした表情でさらりと語る、「歓待」「ほとりの朔子」で知られる深田晃司の新作は、その言葉が醸し出す不穏な予感を裏切らない。これは観る者それぞれが淵に立たされる作品だ。
ある日ふらりと、謎めいた男が一家を訪れる。主人の旧友である男は、慇懃無礼に家族の居候となり、家業を手伝うことになる。外部からの侵入者がやがて家族をマニピュレートしていく、という設定は「テオレマ」や「ビジターQ」を彷彿させるが、本作のオリジナリティはその後に広がる壮絶なドラマにある。
物語が進むなかで次第に明らかにされる男の過去と、主人との繋がり。過去の因果が容赦なく現在に降り掛かるさま。さまざまな事実が明るみになるなかで、観客はそれぞれのキャラクターに対する見方を反転させられる。後半は、前半に物語を牽引した男が消え、残された家族のドラマとなるのだが、男の影は色濃く残り、ひとたび崩れ去った家族の絆は、もう二度と元通りになることはない。否、そもそも絆などあったのか。それは家族とはこういうもの、という思い込みに拠る、蜃気楼のような幻ではなかったか。
深田の演出は細部へのこだわりとともに、昨今の日本映画では稀なある種のドライさ、残酷なまでの厳粛さを持っている。たとえばかつてカール・T・ドライヤーが、十字架に掛けられたジャンヌ・ダルクの瞳から落ちる涙を捕らえたような冷徹さで、娘の顔をクローズアップする。得体の知れない男の秘められた感情は、そのきちんとアイロンの掛かった白いワイシャツがやがて真っ赤なシャツにとって代わることで表現される。その鮮烈な色は、男が消えた後もさまざまなオブジェとなって画面に表れ、その気配を立ち上らせる。
この映画が本当に怖いのは、善悪に分けられない人間の闇を描いていることだ。ぽっかりと開いた大きな穴の底には、不透明で深遠な世界が広がっている。その淵に立って覗き込むには、それなりの覚悟を必要とするだろう。
(佐藤久理子)