「ヒッチコッキー」リメンバー・ミー Editing Tell Usさんの映画レビュー(感想・評価)
ヒッチコッキー
世界のトップを走るアニメーションのディズニーは映画という業界でもトップを走っている。
アニメーション映画というのは、技術的にいうと映画の要素を全てコントロールできる。撮影に然り、演出に然り、美術に然り、コンピューターの中で全てを作り出すことができる。現在の技術では数億個のパラメーターを調整し、3D世界を作ることができてしまうので、時間と労力はかかるにしても、監督が頭に描いたものを100%近く表現することが可能になっている。
それゆえ、今作品で気付いたのは、映画言語として歴史が作り上げてきた技術をアニメーション映画だとしても映画として使われているということ。
ヒッチコック①
映画界最大の偉人、ヒッチコックが築き上げた、カメラを通して映画を取るという技術がディズニー・ピクサー映画には使われている。映画を見進めていく上で、「あー、あのときのあれか!」って思うことがディズニー・ピクサー映画には多くある気がしませんか?
例えば本作でいうと、ミゲルが映画の音楽に合わせて歌うところだとか、小さなところでいうと、花火の音で扉を開けるところとか、靴のサイズでミゲルを見つけるところとか。気付きにくいところでも、ヘクターの歯の色とギターの模様だったり。ほとんどのすとーりーを前進させる要素がこのように前後でつながっています。それを頭で考えることは、それほど難しくありませんが、それを映像を通して、さらには音を通して視聴者に伝えるということ。しかも、それをただ、だだっ広げにするのではなく、頭の隅に残る程度の情報量を与えるということがヒッチコックの技術。色々な要素をコントロールできるという利点を使って、それらを成し遂げているところはさすが。映画に大切な謎解きの要素。
ヒッチコック②
ヒッチコックが天才と評されるのには、もっと深い理由があります。視聴者全員が意識の中に気づけなくても無意識的にその情報やトーンを吸収させるレベルで、テーマやアイロニーを隠すという手法。芸術っぽさですね。
今作のわかりやすいところでいうと、「チョリソー」。ある老人からギターを借りるときにチョリソーを飲むシーンがありますが、そのシーンは、飲み干され逆に置かれたグラスと、飲まずに残されたチョリソーが2秒ほど映されて終わります。そこで何人かの人は「あれ?」ってなりませんでしたか?前との繋がりでは、ヘクターがチョリソーで窒息死したと馬鹿にされるところと繋がり、後にはミゲルのターニングポイントと大きく繋がります。しかし、飲み干されたチョリソーと飲まれていないチョリソー、空でひっくり返されたグラスと飲まずに残っているグラスからは、もう少し感じ取ることができます。
大きく言って、生と死だったり、人間と骸骨(スケルトン)だったり。そこからさらに、ヘクターが抱える秘密を隠すかのような、逆向きのグラス。メキシコの文化を象徴するような儀式。自分が毒死したチョリソーを躊躇なく飲むヘクターのキャラクター。などなど、読み取れることはたくさんあります。さらには読み取るだけの時間もしっかりと与えてくれます。それだけ細かいところにこだわることができるのが、ディズニー・ピクサー。大人になって観ても大きな何かを感じ取ることができます。
観終わって思ったのですが、”千と千尋の神隠し”に似ていませんか?でも、どう観ても、文学的にも、アニメーションとしても、映画としても、ジブリの方が優れているように感じるのは私だけでしょうか?
さて、次の作品は、どうなるんでしょうか。楽しみです!