雨の日は会えない、晴れた日は君を想うのレビュー・感想・評価
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恋愛映画じゃない
妻の喪失をキッカケに心身のバランスを崩した主人公が、分解と破壊、同じくパートナーへの無関心や社会的承認に苦しむ母子との関わりを通して、妻への愛や他者との関わりに気付くまでの物語。
ポイントとなるのは主人公の自己の再生。
破壊するのは周囲の物品ではなく、独我論("solipsism")的パースペクティブに基づいた世界観や、それを形成する自我・自己認識。
ひび割れた"見ざる・聞かざる"のJakeの劇場ポスターは、Davidの世界観の崩壊の序曲であり、"隠喩"。
ラストの少年たちと駆け出すシーンは、かけっこが好きだった少年時代の"隠喩"であり、両親からの承認を求めていた少年時代宜しく、他者との関わりの中で生き始めた象徴。
キーワードは"grooming"(身繕い)と"regards"(愛情、関心、思いやり、眼差し; attention, care)。
妻の回想シーンから分かるように、Davidの中には、妻の思いやりが経験的記憶として刻み込まれ、無意識に"愛された記憶"として残されてゆく。
妻の死から、投げかけられる愛情("regards")は失われ、代わりに他者とDavidの隙間は彼の"好奇心"で埋められてゆく。
それは初め純粋な好奇心からの"分解"として発露し、義父への怒りを交えながら"破壊、解体"に転化してゆく。
それは、「国を守りたい」などの幼稚な自我の現れだった。
だが、その幼稚な自我を無軌道な行動によって表面化し、無意識下の自己を"自分自身にやって見せ"ることによって、Davidは、自分の中のJuliaの存在に気付くことができた。
中絶した事実からも分かるように、他者からの気遣いに飢えながらも、妻は最後までDavidからの気遣いが投げ返されることを待ち続けていた。
それを中断した衝突事故は悲劇的。
結局、全遍を通して、観客もギレンホールも、妻の死から立ち直るまでの間、冒頭5分の車内に閉じ込められていたのだと思う。
夫の無関心を咎めるような妻の眼差しは、愛情の裏返しであり、見るたびとても切ない。
妻からの愛情に気付く出来事が、全くの他者だった"ドライバー"によってもたらされるのもユニーク。
自分と妻との関係、あるいは浮気相手の存在に悩むDavidにとって、事故を起こしたドライバーはそれまでの関係性の輪の外側にあって、全くの他者だった。
妻の死を思い、再び自己認識の世界にこもるDavidにとって全くの"surprise"であり、外に向いた関心を契機に、タイトルのメッセージに、ようやく妻の言動の意味、妻からの愛に気付く。
レビューのタイトルにある通り、これはただの恋愛映画ではございません。
誰しもパートナーや友人、周囲の気遣いに気が付かず、後で思い悩むことがあると思います。
これらをすべて飲み込んでエンディングを迎えた時に得られる"赦し"の感覚がたまりません。
"I wait, and I wait, to make a new start.
A new beginning, but it feels like the end."
"I'm trying to see the bright side, ....The more I look up, the more I feel below."
情感たっぷりのintroと共に歌い出されるHalf Moon Runの"Warmest Regards"。
この歌詞の最後でも分かりますが、この物語の中における"赦し"は、与えられるものではなく自分の中に"気付く"ものになっています。
タイトルの"Warmest Regards"、親しい人への手紙の結びによく使われる言葉ですが、何気なく使われるこの言葉の意味が、この映画以降、全く異なる意味合いを帯びてゆきます。
ここで言う"regards"とは、形式的な言葉一つ一つに加えて、そこに載せられる"注意(attention)"、"配慮や気遣い(care)"のこと。
Davidが内なる好奇心に気付き始めた際のの"Probably I saw it, but not paying attention." や、義父との関係を再構築する際の"There was love between me and Julia, but I did not take care of it." のattentionとcareは、 この「他者に向けられる意識」のことを指します。
何気なくされる挨拶や仕草、一つ一つは形式ですが、相手への特段のattentionがあれば、その行為に意味が生まれるし、受け取る相手がそれを汲み取れば、そこに異なる関係性が生まれます。
観客にもDavidと同じく他者理解を追体験させようとしているのか、人物の動機づけの説明や心的描写のシーンがほとんどありません。
それを一々登場人物に説明させずに、"手紙"というまとまった機会に落とし込めたり、さり気なく独り言のように呟かせたりと、とても上品な映画だと思いました。その代わり、観る側にとても強いる映画になっています。
セリフや表現による分かりやすい主人公の動機付けに乏しく、Davidの動機が分かる独白や手紙のシーンは、キーとなる重要なポイントのみに限られています。
それ以外は、Davidの無意識も含めた心境の変化を隠喩的に散りばめたシーンの連続で、動機づけや隠喩、各シーンの意味合いは前後関係から観客自身が探らねばなりません。
("影絵"のシーンなど、両義的な表現もあり、観客同士の対話を促す側面もあります。)
視聴する際、一定のポイントといくつかのキーワードを設けると一通りの解釈を得ることができます。
観るたび元気付けられる映画です。
人に優しくする、というより、"この人は何をしようとしてるのかな"、と他者への関心がよみがえる映画。
現実の"私"の関係性は変わり続けるから、いつ見ても新しい。
この映画を観る時間帯によっても面白さが変わるかもしれません。
普通の社会人なら、週末日曜の夕方最後の時間帯に映画なんて観に行かないと思うんですよ。
翌朝の出勤前に、何を想い、この映画を見に来たのかな、とか。(来週この時間帯に行ってみようかな……。)
少なくとも二回目以降、私にとって、この映画を観る時の劇場は特別な空間でした。
正直に生きてるわけじゃない
期待していたのに、全然感情移入できずわりとずっと傍観してるかんじだった…
妻を亡くして心のバランスが知らず知らずの内にに崩れていくのは分かるんだけど、その振り切れ方が結構すごかった。
ちょっと去年末の、ワイルド 私の中の獣 を思い出した。
m&mの会社に手紙を綴って自分語りをするのは面白かった。
登場人物みんなどこかおかしかった。
ビジュアルの美しい人ばっかりだったから飽きずに観ていられたけど。
大麻を常用するシングルマザーのカレン、彼氏はなんか怖いし主人公を尾行したり家に入り浸らせたり冷静に考えると嫌だわ
息子のクリスはその危うさ故かすごく綺麗だったけど、防弾チョッキ着てるからってそんな簡単に人を撃たないでくれ〜 ってヒヤヒヤした。
最後もよくわからない。
なんかスッキリ終わったような雰囲気醸し出してるけど、あのビルの崩壊はなんなの?
まあメリーゴーランド復活させて良かったね で終わられても困るけども。
とにかく釈然としなかった。
けど意外にも笑いどころが多かった。
ファック使いすぎのくだりは本当好きだし、デイヴィッドの濃い顔の表情芸も楽しめた。
振り切れた彼と通常運転の周りとのズレたやり取りもなんか面白かった。
演技もかなり良かったし。
仕事で疲れきった夜に観たのが悪かったのか、いちいち現実でこんなことしたら! って考えて上手く映画に入りきれなかったのかも。
私自身色々抑えすぎてストレス溜まってるからデイヴィッドのようにワーーッてなりたいんだけどね…
今の私には心を温めて全身包んでくれるような映画が必要です…
破壊
良かった。当たり前の存在を失った時の主人公の喪失感…無の感情への苛立ち、戸惑い、葛藤。破壊という行動が心の解放へのきっかけかな…。自分はどうするだろう…と考えながら感情移入。原題と邦題では捉え方が違う感じがするが、私的には邦題のが好きだな。
結末がなんだか残念
ジェイク・ギレンホールとナオミ・ワッツは魅力的だったけれど、落ちの付け方があまりにも残念な印象。無理やり折り合いをつけたように感じた。
とりあえず、邦題は酷すぎると個人的には思う。
全体的に、それほど酷くはないし、むしろかなり面白さを感じたけれど、内容を放置して終わりたいのかキッチリけりをつけて終わりたいのか、よく分からない。何度も言うけれど、終わり方が非常に不満。あたかもスッキリ終わったようで、見ているこっちは全くスッキリしない。決してスッキリさせてほしいわけではないけれど、結末一つですべてが安易に見えてしまって、途中深読みして見ていたことが徒労だったかなと思うところもある。
ギレンホール、ナオミ・ワッツに興味がある人、もしくは、映画好きで超暇もしくは珍しく見たいものが無いという人、そういった人だけが見て楽しめばいい作品。
まあまあだった
奥さんが死んだのに泣けず、最後に奥さんを思って号泣でもするのかと思ったら、改めてやっぱり好きでなかったというような自分本位ぶりを確認するようなお話で、文学的ではあるものの全然感動もできず、がっかりする結論であった。
シングルマザーの連れ子と銃で遊んで撃たれる場面は面白かった。
映画館を出てから気がついた
あまりにも奇跡がさりげなくて、映画館を出て10分後に「おおおおお!!!」と思いました。物理的にはものすごく破壊する/されるけど、心は決して壊れなかったんだ。
突然の死との向かい合い方
自分の一部になってる人の突然の死に直面した時どうするのが普通なのか。
すぐにそれについて感情が追い付き、悲しみ、落ち込む。周りから見て分かりやすい行動をする人も居る。
すぐには理解出来ず、感情が追い付かず行動に変化が無く、周りから理解されない人も居る。
ジェイク・ギレンホールの演技には、入り込んでしまった。
でもカレンが好きになれなかった。
ただ、あの手紙は妻に宛てたものでその返事があの付箋だと思うととても良い。
難しかった
私の読解力が無いせいか、正直ちょっと主人公の心を理解するのが難しかったです。
でも人間「悲しい」という気持ちだけじゃ無いはずなので、色んな感情が彼の中にあるから難しかったのかな、とは思ってます。
それを演出できてるということは凄かったと思います。
でも、他の方のコメントみて「そういう事か!」と気づく事も多かったので、全てを語らせなくていいから、できればもう少し分かりやすくしてくれたら作品にもっと入り込めたのに…
なんか良い。とてつもなく。
何でしょう。
説教くさくないのも良い
べつに立派じゃないのも良い。
でも、なんか胸を打つ。
すごく好き。
なんだろう。
この形容しがたい気持ちにさせるのって、
個人的には、傑作の証なのだが。
衣装も素敵。
音楽も素敵。
何度も観るでしょう。今後。
破壊と再生
劇中でも似たような表現をされていたが、今作のテーマを乱暴にひとことで表すと「破壊と再生」であると思う。より正確をきすならば「破壊と気づきと再生」になるだろうか。
妻の死を悲しめない自分に疑問を感じたことをきっかけに、今までの「ライフスタイル」を文字通り含め「壊して」いく主人公。そのなかで、義理の父や、ある
件がきっかけで知り合ったシングルマザーとその息子らとの関わりを通じて、自身と向き合い、愛していないと思っていた死んだ妻への愛に気づき、そして改めて自身の人生を歩み出すという話。
よくある話の骨格ではある。ただ、各俳優陣の演技と要所要所のイベント、見せ方の上手さに集中がとぎれることなく最後までみられた。大変心に響く作品であったのだが、一点。
妻への愛。それはもともとあったものを忘れていた・おろそかにしていた→それに気づいた・思い出した、という流れで理解したのだが、疑問として、それってほんとうにもともとあったものだったのだろうか。主人公がいろいろやっていくなかで、デカルトの「我思う」じゃないけれど、壊しても壊しても、壊れないで最後に残っていたものが妻への想いでした、というよりは彼が劇中いろいろやっていくなかで「本来はこうあるべき」という常識というか妄想に従って作り上げてしまったものなんじゃないだろうか。そうだとするとそれは妻への愛とかそんなものではないわけで……。うーん(´・ω・`)
妻の死に泣けない男
妻の死に泣けない男。昨年の邦画「永い言い訳」もそうだったが、私はこの手の近親者の死に対して、人が壊れかけながらも気付き、そして受け入れていく物語が好きなのかもしれない。(一昨年の「君が生きた証」も良かったな。)
故人に対しどれだけ関心があったか、どれだけ故人のことを知っているのか。このことは近親者だからこそ、誰に責められるわけでもなく、むしろ深く悲しんでるだろうと一方的に同情され、そのことにまた苛まれる。
狂気じみてて、でも本質として優しい演義はジェイク・ギレンホールの真骨頂だと思う。素敵。それとこの監督(ジャン=マルク・バレ)は、私好きかも。
疎かにした愛の報復。そして修復のための破壊。
妻を交通事故で亡くし、そのやり場のない感情をなぜか商品が出てこなかった自動販売機のカスタマーセンターへの苦情の手紙に認(したた)める男。愛する人を失って悲しい、という物語ではなく、失った人のことを心から愛していなかったことに気づくやり切れなさ、そして涙も出ない悲しみも押し寄せてこないことに対するもどかしさ、確実に心は壊れて傷ついているはずなのに、そのことに自分だけが気づかないまま日々が過ぎていく。そんな男が、義父に言われたある言葉を思い出し、行動に移す。
それは、原題の意味でもある「破壊」「解体」。壊れたものを修理するには、一度分解する必要がある。男は「修復」のための「破壊」を繰り返す。自宅の冷蔵庫、オフィスのトイレ、挙句には妻と暮らした家そのものまで壊し始める。その「壊す」という行為がなんだかとてもシンボリックに見えて、ちょっとしたフェティズムまで感じるほど。この映画、撮りようによってはちょっとしたヌーヴェルヴァーグ映画のようになっていたかもしれない。この映画の破壊にもし官能が加わっていたら、それは現代のヌーヴェルヴァーグだったかも。
簡単に言ってしまえば、妻を亡くした男のこころの再生の物語、ということになってしまうのだけれど、その過程が「破壊」であるという独自性と信憑性のつけ方が個人的に好きで、作品のタッチも私好みだった。
この邦題のつけ方も悪くない。映画を見た後で、ついついこの邦題について語りたくなってしまうって、ある意味すごく巧い戦略。実際、作品を見れば、このタイトルの意味が分かる仕組み。なるほどね、と。疎かにしてしまった妻への愛の有様を、妻亡き後、助手席のサンバイザーに張り付けたメモが語るという巧さね。しかもそれを一度、読まずに握り捨てているのも鍵。こういう映画、好きです。
あまりにもメタファーだらけの作品で、セリフで説明しない部分も多いので、本当に映画全体を見渡していないとなかなか理解しにくい部分もあるかもしれないし、主人公の気持ちに寄り添えないと「共感できない」の一言で片づけられてしまいそうなのだけれど、逆に主人公の気持ちに心が重なって、物語の意味が突然ふと分かる時がくると、すごく心に染みるいい映画だと思えると思う。私は偶然この映画が心にハマって、じっくりしみじみ胸が震えるような感覚でした。
自分を壊しながら組み立てていくで賞
展開が多くて飽きない映画だった。
音楽のチョイスがクールでとてもいい。
重い雰囲気はあまり無く、
自分探しのような感じ。
ふとしたキッカケで知り合う、
シングルマザーとその息子との
関わり合いがよかった。
ジェイクももちろんよかったけど、
息子役の美少年!必見。
音楽もかっこいいので、
ぜひ映画館で。
日本語タイトルが指すところ
原題は「DEMOLITION」(解体、分解)。
これが何故、こんな日本タイトルになったのかしらん、と訝しく思うことしきりなのですが、それは観てみて、よくよく考えるとわかる。
金融会社のエグゼクティブを務めるデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)。
彼がいまの地位にいるのは、妻のお陰。
妻の父フィル(クリス・クーパー)が会社の社長で、結婚を機にいまの地位を得た。
しかし、エグゼクティブとして多忙な日々は、妻との生活を遠ざけてしまっていた。
そんな中、デイヴィスは妻が運転する自動車に同乗していて事故に遭う。
そして、こともあろうか、妻は死に、自分は生き残ってしまう。
妻が不在の日々・・・
けれど、デイヴィスには悲しみの気持ちが湧いてこない・・・
というところから始まる物語で、デイヴィスの悲しみさえ湧いてこない空虚な心を抉(えぐ)り出すような映画である。
この後、デイヴィスは二つの行動をとる。
ひとつは、妻が亡くなった日、病院の集中治療病棟で利用したスナック菓子の自動販売機が不調で商品が出ず、そのことについてクレーム状を自販機会社に送ること。
その際、妻が亡くなった日であること、それをきっかけにして、妻と自分の過去を思い出し、クレーム状に綴っていく。
これは、その後、自販機会社の顧客担当カレン(ナオミ・ワッツ)とその息子との何やかやの事件へと発展する。
もうひとつは、事故に遭う直前に妻から頼まれた水漏れ冷蔵庫の修理。
「修理の前には分解することが必要」という義父の言葉を妻から思い出し、分解する。
ただし、分解ではなく、解体・破壊といったような状況。
その後、この解体衝動がデイヴィスにつきまとう。
解体したかったのは、さまざまなモノではなく、自分の心だということに気づいているのかいないのか判らずに。
解体した自分の心が、カレンとその息子との触れ合いで再生していく・・・
簡単に言えば、そんな物語なのだけれど、ひとえに演出に起因するのであろうが、気づいていく様がわかりづらい。
この映画でキーとなる台詞はいくつかあるが、いちばんのキーポイントは、自分の心と妻の心に気づいたデイヴィスが、終盤、フィルに言う台詞。
「愛はありました。しかし、疎かにしていました」
夫婦生活が危うくなっている中で、どうにかにして、幸せだった日々を思い出してほしいと、妻が発信していたメッセージを気づかなかったデイヴィス。
それに対して後悔を表した台詞である。
そして、妻が発信していたメッセージは・・・
ひとつは「水漏れを止めてちょうだい」、
もうひとつは「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」、
そして「椅子以外は、あなたは座るところに興味がないのね」。
ひとつめの「水漏れを・・・」は、妻がデイヴィスに頼む事柄であるが、冷蔵庫の内側に付箋紙で貼り付けられている。
これは、冷蔵庫自身が発している言葉でもある。
ふたつめの「雨の日は会えない・・・」は、自動車のサンバイザーに貼り付けられている付箋紙の言葉。
これも、サンバイザーが発している言葉であるが、同時に、妻がデイヴィスに発している言葉でもある。
最後の「椅子以外は・・・」は、デイヴィスと妻が、まだ幸せだった日に、海岸の古い回転木馬にふたりで乗った日、木馬に乗った妻が傍らに寄り添うデイヴィスに言った言葉(ただし、映画では台詞の音声は消されている)。
そして、これは、事故直前に妻がデイヴィスに投げかけた言葉。
いずれも、危機的状況の中で、わずかながらの希望と愛を信じて、デイヴィスに投げかけていた言葉。
デイヴィスは、それに気づかなかった。
そして、もうひとつ、この映画で重要な点は、妻が妊娠していて、中絶をしたということ。
映画の中で、妻の母親から、子どもは妻の情人の子どもだったとデイヴィスに告げられるが、そこのところは、あからさまには描かれない。
というか、妻に情人がいたことは、少しも描かれていない。
さらに、デイヴィスを付け回す自動車の主が、妻の情人ではなく事故の加害者だったということから考えると「情人はいなかった」と推察できる。
つまり、子どもはデイヴィスの子どもであったが、なんらかの理由で中絶したということ。
その理由は、エンディングからこれも推察すると、妊娠時検査により胎児がダウン症だったからではなかろうか。
推察する根拠は、
胎児のエコー映像に何らかの文書(診断結果と思われる)が一緒に出ていること、
エンディングで、妻と一緒に乗った回転木馬(解体ではなく修理している)に、ダウン症の子どもたちをたくさん乗せて楽しんでもらうイベントを行っていること、
そして、そのイベントで子どもたちと一緒になって義父も微笑んでいること、
などを挙げることができる。
そういう意味では、この映画の後半、物語はすこぶる厚く、ドラマチック。
なのだが、監督のジャン=マルク・ヴァレは、そんなドラマチックなストーリーテリングを拒絶するかのように、説明を省略し続ける。
「愛はありました。しかし、疎かにしていました」、それさえ判ればいいだろうといわんばかりに。
これだけ長々とレビューを書いたのは、観終わって、この映画にどこかしらの蟠り(わだかまり)を感じたから。
ストーリーテリングを拒絶するようなぶっきらぼうな演出と、その奥に隠されていると思われるドラマ性。
それを、自分なりに読み解いてみたかったから。
まぁ、かなり、一緒に観た妻に助けられたところはあるんだけれど。
評価は結構迷ったのだが、演出のわかりづらさはやはり減点せざるを得ないだろうから、この点数としておきます。
デモリッションのオープニング
ウォゥウォゥ....!!クラッシュしてから出るタイトルの流れが好き。
J・M・ヴァレは「ダラス・バイヤーズクラブ」に"お遍路の女"と実話を描いていて撮り方は「わたしに会うまでの1600キロ」"お遍路の女"に近い印象の本作。
セリフでの説明は極力せずにイメージ映像的に過去を断片的に入れてくる演出。
N・ワッツの変態的な行動が気味悪く。
苦情の手紙からJ・ギレンホールに興味を持って相手して尾行までする根拠が解らない。
子役が全然、魅力が無くて存在感も薄いってか意外に話の中心にはならない感じ。
成り行きで交際して流れで結婚してしまう感じは理解出来るけれど奥さんが死ぬ前から?死んだ後から?J・ギレンホールの精神的に崩壊する変化の理由がイマイチ納得出来ず話の展開も何処に進んでいるのか中途半端な、オチも含めて。
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